3話
《――あのときは本当にすみません。だけどユリウス様も悪いと思うのですよ。突然あんなことをされたら、恋心を自覚したばかりの私は動揺するに決まってるじゃないですか。
……まぁ、仕方ないですけど。察しろと言っても、難しいですし……。
……あのあと結局、ユリウス様はお時間となって帰ってしまわれましたね。遠ざかる馬車を見て、ひどく胸が痛んだのを覚えています。私が動揺してしまったせいで、あなた様を傷つけてしまったのですから。
ですので、次に会ったときにちゃんと謝れるよう、たくさん練習しました。もちろん、謝罪の練習です。繰り返しになりますが、そうしないといけないくらい、私はあなた様への想いを持て余していたのですよ。
そしてひと月後、あなた様が来られて――》
馬車の音と、ざわめき。それらを耳にした途端、レイチェルの心臓はどきりと脈打った。胸の内にあった不安が広がり、全身を包み、指先が小さく震える。きゅ、と両手の指を絡め、「大丈夫」と小さくつぶやいたけれども、それが止まることはなかった。
周りにいる侍女たちは何かを感じ取ってか、いつもとは違うレイチェルをそっとしておいてくれている。それがありがたい。そんなことを思いながら、息を吸って、吐いた。もう一度繰り返して……大丈夫。
ゆっくりと、レイチェルは立ち上がった。薄い金髪がさらりと揺れ、レースの縫いつけられたドレスの裾も、まるで彼女自身の感情を表しているかのように頼りなさげに揺れた。侍女がベランダへ続く扉に手をかけたけれど、レイチェルはそちらを見ることなく、まっすぐに部屋の扉へ向かった。すぐ傍にいた侍女が慌てて扉を開ける。軋んだ音が鳴った。苦しげな音にそっと目を伏せながらも、レイチェルはしっかりとした足取りで歩んで行った。
廊下を歩けば、ざわりと空気が揺れる。いつも執事が呼びに来てからレイチェルは移動をしているから、そうではないことに侍女たちが驚いているらしい。そのことを意識しながら、レイチェルはあまりこれからのことを考えようにして歩く。
そして、屋敷のエントランスへと至った。
玄関口の様子を階段の上から見下ろす。そこではちょうど、ユリウスら親子が父に案内されて入ってきたところで。
「――ゆりうす様」
小さく、ぽつりとレイチェルは呼びかけた。意外にも小さく、か細い声に自分でも驚く。本当はもっと声を張って、きちんと呼びかけるつもりだったのに……。つい、と視線を下へ向ける。やっぱり、彼の前じゃ普段通りではいられないわ。
だけど。
カツ、と足音がした。誰かの、聞き慣れたもの。
顔を上げれば、ユリウスが移動し、レイチェルのいる階段の下にいた。視線が交わると彼はゆるりと微笑み、一歩ずつ、階段を上がってくる。そのたびにレイチェルの体は熱くなり、同時に、もし、ユリウスがひと月前のことを気にしていて、レイチェルのことを嫌ってしまっていたら……という思いが膨らんだ。不安が全身を絡めとり、息苦しくなる。
二つの意味で早くなる鼓動。だけど彼は止まってくれない。
……やがて、とうとう、ユリウスがレイチェルの二段下にまでやって来た。彼はそこで足を止める。「なに?」と青い瞳が尋ねていた。
「あの……」と声を絞り出す。小さく、掠れた、不安に満ちた声。
言いたくない、と思った。このまま何事もなかったかのように過ごして、一緒にいたい。だけどそんなことは不可能だ。レイチェルは彼を拒絶し、傷つけてしまったのだから。
深呼吸をして、気持ちを落ち着ける。……大丈夫。いけるわ。そう心の中でつぶやくと、口を開き、声帯を震わせた。
「――ごめんなさい」
今度は掠れなかった。そのことに安堵し、続ける。先ほどまでとは違って、まるで
「私、ユリウス様のことが好きなの。だから、あんなことをしてしまって……避けてしまって、ごめんなさい。だから……」
――嫌わないで。その言葉はなんとか呑みこんだ。そんなことを言ってしまったら、優しい彼のことだ、きっとレイチェルのことが嫌いでも、それを言い出せなくなってしまう。そうやって言葉で縛りつけ、形だけの愛情を注がれるのは、嫌だった。
おそるおそる、ユリウスの方を見る。いつもと違い、視線の高さが並んでいて、ひどく違和感を覚えた。
彼は目を見開いて何やら驚いていたようだったけれど、しばらくすると嬉しそうに破顔した。
「ありがとう」
何に対してなのかは、分からなかった。ただとても嬉しそうだったので、気分に水を差すのは悪いと思い、「ええ」と頷く。
すると、彼は言った。
「僕も君のことが好きだよ、レイチェル。僕の、僕だけのお姫様」
――好き。その言葉を聞いた途端、抱いていた不安はどこかへ立ち消え、代わりに狂おしいほどの熱が全身に溢れた。心臓がバクバクとして、いっそ恐ろしいまでの幸福感が胸を満たす。
思わず顔を伏せた。彼に聞こえてしまいやしないか不安になるくらい、鼓動の音がうるさい。それにとても熱くて……。
「レイチェル」とユリウスが低くて甘い、耳に心地の良い声で囁く。傷つけないために拒絶してしまいそうになるのをなんとか堪えようとしたけれど、もう一度「レイチェル」と囁かれれば堪えきれなかった。レイチェルは小さく叫び声を上げながらユリウスから離れる。彼は嬉しそうに、幸せそうに笑っていた。
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