少女
そこは悪魔と始めて会った場所だった。
明るくて暗い。狭くて広い。高くて低い。つるつるしてざらざらで。あり得ないものが同時に存在する不思議な場所だった。
その場所で少年は悪魔と向き合っている。瞳は生気が無く、虚ろだった。
「君は賢い。おめでとう。望む物はもう直ぐ目と鼻の先にある。私も誇らしいよ。あの<良い口>を上手に使えているようだね。でも、やはり四文字の言葉を使ってしまった。だから君をひと齧りしなくてはならない」
少年の右手の辺りから上腕にかけて、何か生暖かい物が包み込む。強いてどのような物かと表現するならば、歯のない口の中に包まれたとでも言うべきだろうか。感触は湿り気と程よい弾力があり、やや不正確だが定期的に吐息のような生温い風が肌を撫でた。
「では、ほんの少し摘み食いをするとしよう。残念だが、これも約束のうちだ。なに、そんなに怖がることはない」
少年の右肘の辺りにざらついた何かが絡みつき、皮膚の下にある何かを吸い上げていく。
体の中の暖かい何かが急速に抜け落ちていき、皮膚が裏返るような感覚と共に体の何処か遠いところでぐしゃり、と言う何かを潰した様な音が聞こえた。
「ああ、やはり君は素晴らしい。思わず全てを食べてしまいたくなるほどに甘露だ。この私も我慢をするのが大変だったよ。では、成すべきことを成したまえ」
悪魔がそう言うと、周りの風景が切り替わった。
何処かの部屋の中にいるようで、窓はピンク色のカーテンで閉じられていた。床もピンク色のふかふかの絨毯が敷かれている。壁際にはシングルサイズのピンク色のベッドと学習机や少女漫画のコミックが並んだ本棚もある。木製の五段の箪笥の上には可愛らしい熊のぬいぐるみが飾ってあった。
その部屋の真ん中に少年が虚ろな瞳をして立ち尽くしていたが、ピンク色のベッドの上で同じくピンク色の布団に包まれ眠る少女を見つけると、その瞳が徐々に精気を取り戻していった。
少年は思わずふらふらと吸い寄せられるようにして眠る少女の下まで歩くと、ベッドの淵に手を掛け、少し背伸びをしてその顔を眺めていた。
どれ位そのようにしていたか、正確な時間は分からない。
ただ、少年はその間に何かを決意したようだった。
「おきて」
呟いた言葉は酷く掠れており虫が泣くような声量だったが、ベッドで眠る少女はまるでけたたましい目覚まし時計にでも急かさせたかのようにぱちりと目を開いた。
そして、目を開いた少女はベッドの淵で自分を覗き込んでいる幼い少年に気が付くと、大きく体を震わせ上半身を起こした。
「あなたは誰?」
少し震えた声で少女は誰何した。
両手はピンク色の布団の端をきつく握り締めている。
少女の言葉を聴き、その両手を見た少年は、大きく目を見開くと小さな<口>を開きかけたが、直ぐにきつくその<口>を閉じ、ベッドの淵から手を離すと一歩後ずさった。
その時、少年の目が机の上に置かれた小さな鏡に留まった。
それはピンク色の折りたたみ式の小型のスタンドミラーで、所々少女が貼った物と思われるアニメのキャラクターのシールが見えた。
そして、その中央に設置された銀色の鏡に少年が視線を合わせた時。
「ああ!」
少年は思わず酷く掠れた声で鋭い悲鳴を上げた。
その鏡に映る少年の顔は年齢こそ変わらず幼いものであったが、自分の記憶にある自分の顔ではなかった。
一度も見たことも無いその顔は、誰の物だろう?
それじゃあ僕は一体誰なんだろう?
呆然と立ち尽くす少年に、ベッドの上の少女が恐る恐る声を掛けた。
「どうしたの?大丈夫?」
その声を聞いて少年はふと我を取り戻した。
あの時と変わらず、優しい声に。
――大丈夫。やっぱりこの人は変わっていなかった。なら、僕がすることは最初から決まっているんだ。
少年は一度大きく深呼吸をすると、まだ震えている両手を祈るように胸の前で組んだ。
それを見た少女の目が大きくなった。彼女は良くそうしていた一人の幼い少年の事を知っていた。
「ごめんなさい」
酷く掠れた声で少年は頭を深く下げて謝罪の言葉を口にした。同時に、体の奥深いところの何かが急速に冷えていく感覚を感じていた。
――ああ、君は約束を破ってしまった。
悪魔の声が聞こえた。少年はそれを無視をしてゆっくりと頭を上げた。
――いいよ。もう僕を食べても。ありがとう。優しい悪魔さん。
少年は満足気な表情を浮かべ何時の間にか隣に立っていた悪魔に向かって小さく頷いた。
「またね」
少年がそう言うとその姿は幻の様に掻き消えた。
少女は何時の間にか流れていた涙を拭うことなく、ピンク色の絨毯に残った小さな足跡を眺めていた。
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