第10話 I give my heart to you
さてと、口紅を塗り終えて私は鏡の前で笑顔を浮かべる。うん、今日もいい感じだ。我ながら魅力的だと思う。
身支度を整えリビングに向かう。ソファーのアミメ君がこちらを見る。
「どうだい、アミメ君。」
軽くポーズをとってみせる。
「良いですね、とっても素敵ですよ。」
「ふふ、そうだろう。ありがとう。」
「それで、今日こそ告白するんですか?」
一瞬ドキっとした。
「何を言い出すんだい?藪から棒に。」
なんだかこの所アリツ化してきてるぞ。
「付き合って結構経つんだし、ハッキリ言ったらどうです。そのまま二人で…」
「待て、付き合ってないし、私達は友達だ。健全な関係だ!」
これ見よがしに大きくため息を吐くアミメキリン。
「ほんと、この二人は…。素直になりましょうよ。好きなんでしょ?智也さんのこと。」
アミメキリンが真っ直ぐに私を見つめてくる。彼女の言葉が胸に突き刺さる様だ。
私は目を逸らし、時計を見た。
「…悪いけど冗談に付き合っている時間はない。彼を待たせたくないからね。」
「…そうですか。」
不満気に立ち上がるアミメキリン。私達は無言で部屋を出た。
「オオカミさん。」
マンションを出た所でアミメ君が私を呼び止める。
「…何もせずに後悔するくらいなら、傷付いて後悔した方がましですよ。」
アミメ君の大きな瞳が私を見据える。
「貴女も私も自分だけの道を歩いて行くんです。立ち止まるのも踏み出すのも、貴女が決める事。私達は側にいる事しか出来ない。せっかく支え合える人と出会えたかもしれないのに。失ってから気付いても遅いんですよ。」
一言一言噛み締める様に吐き出される、アミメ君の言葉が胸に染み入る様で私は立ち尽くすばかりだ。
「…なんて、私のキャラじゃないですよね。それじゃ、デート楽しんできて下さいね。」
不意に破顔するとアミメ君は歩き去っていく。私は何か言葉を掛けようかと思ったが、何も思い付かなかった。
ここで呆けていても仕方ない。本当に待ち合わせの時間に遅れてしまう。気を取り直して私も歩き出す。
雑踏の中に智也の姿が見える。背が高いのもあるだろうが、彼のことはすぐに見つけ出せる。私は気取られぬように近付く。
「智也。」
振り向いた彼は微笑みかけ、次の瞬間に怪訝な表情を見せた。
ふふ、いい
ヒトとフレンズが共に生きる街ジャパリポリス
無数の出会いと別れが交錯し
数多の笑顔と涙が生まれるこの街で
人々は生きていく未来へと繋がる今日を
声を掛けられたので振り向くとそこには見慣れないフレンズが立っていた。誰だろうこの美人は?確かにタイリクオオカミの声がしたんだが。
ショートボブの髪に白いブラウス、チェック柄のスカートに濃紺のハイソックス。俺の知らないフレンズだ。タイリクオオカミに似ている。いや、顔は彼女なんだが。
「どうしたんだい?私だよ。」
「タイリクオオカミか?ええと、髪形変えたのか?」
「ふふふ、驚いたかい?夏毛にしてみたんだ。どうだい、似合うかな?」
そう言って軽やかに回って見せる。
「ああ、似合ってる。そうだな、軽快な感じがして良いと思うよ。」
「ふふふ、ありがとう。」
満面の笑みを浮かべるオオカミ。本当に嬉しそうだな。
彼女が近付いて上目遣いで俺の顔を覗き込んでくる。微かに心臓が高鳴る。思わず身を屈めると、耳元に顔を近付けてきた。彼女の吐息がかかる、ような気がして胸の鼓動が速まる。生唾を飲み込む。タイリクオオカミが囁く。
「君も嬉しいだろう、私の生足が見られて。」
困惑する俺の顔を見て彼女は再び笑顔を見せる。
「ははは、いい顔頂いたよ。」
「からかうなよ。」
「でも好きなんだろう?私の太腿が。」
くっ、否定出来ない。きっとアミメだな。余計な事を。
そんな俺の内心を察したかの様に、タイリクオオカミは右手の人差し指を立てて左右に振って見せる。
「私が気付いていないと思ったのかい?二度目に会った時からよく私の足を見ていたじゃないか。」
バレてた。しかし、そんな頻繁に見ていたかなあ?
「…分かったよ。認めるよ。君の素敵な生のふとももを拝めて嬉しいよ。」
「素直でよろしい。まあ、それだけ私が魅力的って事かな。ふふ、褒め言葉と受け取っておくよ。」
タイリクオオカミは隣に立つと俺の右手を握ってくる。軽く握り返すと微笑んでみせる。俺も微笑み返す。
「それじゃあ行こうか。」
「ああ、それで今日はどこへ連れて行ってくれるんだい?」
「まずはお茶しに。ここからちょっと離れているが紅茶の美味い店があるんだ。散歩がてら行こう。」
「いいね。君のお墨付きなら期待出来そうだ。」
「それから映画を観に。」
俺は上着のポケットからチケットを取り出して見せる。
「ジャガンティン・ワカランティーノの新作だ。観たがっていただろ。」
オオカミのケモ耳がピクピクと動いた。
「良いじゃないか。智也、今ので私の好感度が100ポイントは上がったぞ。」
「やったね。」
俺は指を鳴らす。
「夕食は店を予約してあるんだ。そこもきっと気に入ると思うよ。」
「なかなか周到なプランだね。その後は何を企んでいるのかな?」
オオカミが横目で俺を見てくる。
「ふふ、まだ秘密さ。未来智也の秘策にご期待下さい、って所だな。」
「なら、楽しみにしておくよ。どんなサプライズを用意しているのか、お手並み拝見といこう。」
俺達は雑踏の中を歩いて行く。まだ夏の暑気が立ち込めていたが、心は秋の空の様に晴れやかだった。
遡る事、十日前。雑貨店で歯ブラシを買おうとしていた俺に声を掛けてきたフレンズがいた。
「こんにちは、智也さん。奇遇ですね。」
「アリツさんか。」
彼女は買い物かごを提げていた。中には詰め替え用のシャンプーや洗顔料、ティッシュペーパー等が入っている。
「ペット用品の買い出しか。大変だな。」
アリツカゲラは目を細めて笑みを浮かべる。
「ふふ、オオカミさんに言いつけますよ?」
目が笑っていない。
「冗談に決まっているだろ。本気に取らないでくれよ。」
「なんだか喉が渇きましたねえ。」
「分かった。奢るよ。…紅茶でいいか?」
こうして近くの喫茶店で俺はアリツカゲラとお茶する事になった。
「ハクトウワシさんはどうしているんですか?」
「あいつなら休暇を取って療養中だよ。怪我の後遺症でね。」
眉根を寄せるアリツカゲラに俺は携帯電話の画像を幾つか見せる。ハクトウワシから送られて来た写真だ。
「…凄く元気そうですけど。」
「いや、こう見えて病気なんだ。確か、“働くと死んでしまう病”とか、“男と遊びたくなる症候群”だったかな。」
軽く吹き出すアリツカゲラ。
「それは重症ですね。」
「だろ?心配で睡眠時間が三十分も縮まったよ。」
俺達は笑い合った。しばらく談笑した後、俺は気になっていた話題を切り出す。
「アリツさん、君に尋ねたい事があるんだ。」
実のところ、彼女に聞くのは躊躇われたんだが、タイリクオオカミを一番良く知っている人物は他にいないからな。
「オオカミさんが気になっている男って誰だか知らないか?」
一息に告げると、聞いていたアリツカゲラは静かにカップを口に運ぶ。
「知ってどうするつもりなんですか?」
「いや、どうすると言われても、それは…」
思ったより真面目な返しだな。しかし改めて言われると、どう答えたものか。
「オオカミさんが好きなんですよね?ならやる事はひとつでしょう。」
真剣な眼差しで俺に告げるアリツカゲラ。
「素直に気持ちを伝えればいいんですよ。」
「………」
「怖いんですか?今の関係が崩れてしまうのが。」
俺は視線を落としカップを見た。飲み残しの紅茶に映る自分と目が合う。
「ギンギツネさんとはどうして別れてしまったんですか?」
唐突に告げられたその名が苦い記憶を呼び覚ます。
(もうお終いにしましょう、私達。これ以上はお互いの為にならないわ。)
「互いに、求めるものが違ったんだろう。」
思わず呟いていた。
(私はあなたの母親にはなれないわ。さようなら、智也。)
「あの時の俺は、確かにまだ子供だったんだ。彼女の気持ちに、彼女を傷付けていた事に、気付いていなかった。」
カップの紅茶を飲み干すと俺はアリツカゲラを見据える。
「今はどうです?」
「多分、あの時よりは少しだけ大人になったと思うよ。」
「オオカミさんのことも傷付けてしまう、それが怖い?」
「そう。いや、嘘だな。また自分が傷付くのが怖いんだ。」
アリツカゲラはもう一口紅茶を飲むと静かにカップを置いた。
「誰だってそうですよ。お互いに傷付きたくない。でも、それだけじゃ進めない時もある。」
テーブルの上に置いた俺の手に彼女がそっと掌を重ねた。
「あなたは優しくて強い人です。そしてオオカミさんも。だから勇気を出して。きっと大丈夫ですよ。オオカミさんを幸せにしてあげて下さい。」
「君も好きなんだな。タイリクオオカミが。」
「ええ、大好きです!」
満面の笑顔で答えるアリツカゲラ。
「…恥ずかしげも無くよく言えるな。」
「人を好きになるのは恥ずかしいことじゃありませんから。」
「ああ、そうだ。そうだよな。」
俺は窓の外、清々しい青空を見上げる。いつまでも立ち止まってはいられないよな。もう前に進まなきゃ。
「ありがとう、アリツさん。君に相談して良かったよ。」
「いえいえ、お力になれて嬉しいです。」
ちょっと性格に難ありだと思っていたけど、友達思いのいいフレンズだ。タイリクオオカミの親友だけあるな。
「ところで、紅茶をもう一杯お代わりしてもいいですか?」
「ああ、いいよ。好きなだけ頼んでくれ。」
店員を呼ぶアリツカゲラ。注文を告げる直前、彼女の舌が上唇を舐める。
「…ロールケーキと苺のショートケーキにチョコレートケーキ、モンブラン。それと同じものを一つずつテイクアウトで。あ、あと特製ジャンボパフェ下さい。」
「………」
数分後、テーブルの上に並べられたケーキ類を嬉々として頬張る彼女を俺は無言で眺めていた。
いや、本当にタイリクオオカミはいい友達を持っていると思うよ…
映画館を出て茜色の空を背に俺とタイリクオオカミは街を歩く。空が濃い群青色になる頃に目的の店に着いた。
「良い雰囲気のレストランじゃないか。」
「そうだろう?それに、この店の肉料理は評判なんだ。きっと君にも気に入って貰えると思う。」
「ふふん、食べ物で私を釣るつもりかい?いくら私がネイティブだからといって、そう単純にはいかないよ。」
不敵に笑ってみせるオオカミ。別段そんなつもりは無いが、普段通りの揶揄が聞けてなんだか嬉しいな。まずは白ワインで乾杯する。彼女と二人きりの食事か、早くも酔いが回った様な気分だ。
「智也、今夜は私を好きにしていいぞ!」
主菜の鹿のモモ肉のソテーを頬張るとタイリクオオカミが告げる。喜んでもらえるとは思っていたが予想以上だな。
「オオカミ。そいつは願っても無いが、早過ぎるよ。まだ俺の計画が…」
「じ、じょ、冗談に決まっているじゃないか。バカだなあ、君って奴は、全く。」
「…だと思ったよ。残念、計画の第一段階は失敗か。」
とは言ったが、彼女に喜んで貰えたし、俺も充分楽しめたからむしろ成功なんだけどね。
「さて、では計画の第二段階を見せてもらおうか?」
レストランを出るとタイリクオオカミがいささか芝居がかった口調で言う。
「ああ、俺の行きつけの店に案内するよ。まずは走るぞ、オオカミ!」
俺はオオカミの手を掴むと駆け出し、目の前のバスに飛び乗った。
「君なら走った方が速いだろうけど、バスも悪くないだろ?」
「そうだね。走ってるバスに飛び乗るなんて、映画のワンシーンみたいじゃないか。悪くない演出だよ。」
楽しげに答えるオオカミ。狙った訳じゃないんだが、結果良しといった所か。
「お客様!危険ですから駆け込み乗車はおやめ下さい。」
乗務員のフレンズに怒られてしまった。俺とオオカミは肩をすくめて顔を見合わせる。彼女がペロッと舌を出す。乗務員の視線を尻目に俺達は小さく笑い合った。
バスを降りて、青白い街灯が照らす通りを少し歩く。
「ここだ。」
「“フクロウの目”か。」
扉を開けて中に入る。初老のマスターと奥さん、見慣れた常連客の姿が目に入る。オオカミと並んでカウンター席に座る。
「二人連れとは珍しいですね。新しい彼女なのですか。」
「
「いつものやつを。君は?タイリクオオカミ。」
そっと彼女の表情を窺う。
「私も同じものを貰おうかな。」
いつもと変わらぬ口調のオオカミ。目が合うと口元を綻ばせる。ふう、よかった。
俺達はグラスを合わせ乾杯する。
小一時間程経っただろうか。幾分酔いが回ってきた。
「ふふふ、ここも良い店だね。今日は実に楽しかったよ、智也。」
タイリクオオカミも頬が赤らんでいる。
「それで、この後は?私を酔わせてどうするつもりなんだ?」
挑戦的な表情で尋ねてくる。いつも以上に色っぽく見える。
「それはもちろん、ホテルで…」
「瑞葉!こっちのグラスをしまってくれ。…お愛想にするか?」
「ああ、頼むよ。」
頃合いだな。俺達は店を出る。
「オオカミ、酔い醒ましに少し歩こう。」
「いいとも。…計画の第三段階かな?」
「まあな。」
いよいよ最終段階だ。心臓の鼓動が速いのは酔いのせいだけじゃない。
向かうのは、“星明かりの小道”と呼ばれる遊歩道だ。幾つかの庭園とそれらを繋ぐ歩道からなり、様々な彫刻、オブジェが展示されている野外美術館でもある。特に夜間は展示物が淡く発光して幻想的な雰囲気を醸し出す。
「ここが“スターライトプロムナード”か。実際に来るのは初めてだよ。」
「そいつは良かった。ここを選んだ甲斐があったよ。」
「一度来てみたかったんだけど、一人ではちょっとね。」
俺達の他にも何組かのカップルが連れ立って散歩を楽しんでいる。
「君はここにはよく来るのかい?」
「ああ、昼間が多いけど、夜にも来るよ。」
「…その、一人でか?」
「ここには一人でしか来た事はないな。」
タイリクオオカミの手が俺の右手をギュッと握り締めてくる。相変わらず心臓が早鐘の様に打っていたが、不思議と落ち着いた気分だ。
二人でゆっくりと遊歩道を歩く。一人の時よりもずっと楽しい。
俺達の目の前に高さがヒト一人分を超える程の球体が鎮座しているのが見えた。赤、青、黄、白、無数の光が表面に浮かんで見える。
「星天球だ。」
「へえ、綺麗だね。」
俺は星天球に近付くと一点を指差す。
「ほらオオカミ。分かるか、あれがオオカミ座だ。君の星座だよ。」
「そうかい。…ふふっ。」
「どうした?」
「今思ったけど、星座というのは漫画の始まりじゃないかな。夜空の星で絵を描くなんて、君達ヒトというのは本当に不思議なケモノだね。」
「褒め言葉でいいのかな?」
「もちろんだよ。」
何だか胸の奥がとても温かく感じる。今までにない気持ちだ。
俺は一際青く輝く星を指差した。
「あれがシリウス、天狼星だ。美しいな、君の瞳の様に。」
「ありがとう、智也。素直に嬉しいよ。」
タイリクオオカミの横顔が星天球の光に照らされ神秘的に映る。
今なら言える。今なら気持ちを伝えられる。
「タイリクオオカミ。」
俺はオオカミに向き直り彼女の両肩を掴んだ。彼女が顔を上げる。黄色と蒼色の瞳を俺は真っ直ぐに見つめる。
「俺は君が好きだ。」
その言葉を聞いた瞬間、私はただ立ち尽くす事しか出来なかった。身体が動かない。顔が熱い。頭の芯が痺れる。心臓が今にも破裂しそうだ。私を見下ろす彼の双眸から目を逸らす事が出来ない。心のどこかではこうなる事を期待していた筈なのに。
どれくらい経っただろう?時間の感覚があやふやだ。智也は静かに私を見つめている。私の答えを待っている。何と答えよう。迷う事なんてないのに。言葉が出て来ない。気持ちは同じ筈なのに。
僅かに開いた唇からは微かな吐息が漏れるだけ。答える代わりに私は瞳を閉じた。
智也が身を屈める気配がする。互いの額が触れ合う。彼の吐息が私の唇にかかる。
「……智也?」
彼が私の肩にもたれかかってきた。肩を掴んでいた手から力が抜け、だらりと下がる。
「どうしたの?」
智也が膝から崩れ落ちる。咄嗟に彼の身体を支える。
「智也!どうした!?しっかりしろ!」
気配を感じて視線を前方に向けると、そこにフードを被った人影があった。フードとその奥、四つの眼が紅い光を放つ。
「何者だ!?貴様!」
「私はキングコブラ。お前を始末しに来た。」
「セルリアンか!くそっ!」
こんな時に…!
「…ォオカ…ミ…」
「智也!」
彼の胸に手を当てる。掌に彼の鼓動が伝わってくる。
「待っててくれ。すぐに病院に連れて行くから。」
彼を地面に横たえると私はフレンズ型セルリアンと向かい合う。奴は佇んだまま襲ってくる気配を見せない。
「私を狙ったのか。なら、どうして彼を!」
「邪魔だったから。」
ぞんざいな答えに私は奥歯を強く噛み締めた。頭に血がのぼる。今にも奴に飛び掛かりそうだ。握り締めた拳が震える。
私は奴を睨み付けたままゆっくりと智也から離れる。これ以上彼を傷付けたくない。いや、傷付けさせるものか。
私はひとつ大きく息を吐くとオーソドックスの構えをとる。奴も背を曲げ両手を腰の位置で左右に広げて構える。
「私はキングコブラ。王の名の下にお前を討つ。」
「…タイリクオオカミ。セルコブラ、私は貴様を殺す!」
一気に間合いを詰めると奴の頬骨に左ジャブを放つ。すかさず首に右ストレートを叩き込む。妙な手応えだ。構わずに左のボディブロー。顎を狙って右フック。手応えが軽い。
奴が右手を突き出してくる。身を屈めて躱す。そのまま潜り込んで腹に左右のフック。ゴムを殴っている様だ。
私は反時計回りに奴の背中に回り込む。振り向いた奴の顎を狙って右ストレートを放つ。また妙な手応えだ。奴の両腕が私の右腕に絡み付く。肘に鋭い痛みが走った。関節を取られた。まずい!
咄嗟に振りかぶった左拳を開くと奴の脇腹めがけて貫手を放つ。指先が空を切る。
(…ヘビは厄介だぞ、タイリクオオカミ。奴らの
私はセルコブラと向き合い構える。右肘に痛みが残るがさほど問題は無い。問題なのはこちらの攻撃も奴に大したダメージを与えていない事だ。
セルコブラが動いた。身を低めて地を這うような動きで間合いを詰めてくる。
(…掴まれてもクマなら力で引き剥がせる、トラなら寝技で勝負出来る。だが、お前達ではどちらも無理だ。倒されたらまず勝てないぞ。)
奴の狙いは足だ。カウンターで膝蹴りを放つ、と見せかけて奴の頭上を飛び越え、後頭部を蹴りつける。これは効いた。
着地した脚を軸に身体を回転させ、奴のこめかみに蹴りを入れる。奴の上体がふらつく。よし!
畳み掛ける様にパンチの連打を浴びせる。力任せの一撃が鳩尾に入った。奴の身体がくの字に曲がる。よくも、私の智也を!続けざまに腹に数発。右の手刀を大きく振りかぶり奴の肩口に斬りかかる。
外れた!往生際の悪い奴だ。見ると奴は薄ら笑いを浮かべている。その顔めがけて左ストレートを放った。拳が当たる感触はあったが手応えが軽過ぎる。こいつ、私の攻撃を見切ってるのか?道理で…
セルコブラが蹴りを放ってくる。上体を反らして躱す。いや、これは!?奴の脚が首元に絡み付いてくる。左腕を掴まれた。上体に奴の体重がかかる。ダメだ、堪えきれない!
(…駄目だな、タイリクオオカミ。お前は詰めが甘い。すぐに感情的になるのはお前の悪い癖だ。)
背中から地面に倒れ込む。寸前に左肘を曲げ、右手で左手首を掴んだ。
仰向けになった私と直角になる形でセルコブラも半ば仰向けの体勢になっている。掴んだ私の腕を両脚で挟み引き伸ばすつもりだ。この技、前に智也に教えてもらった事がある。確か…
「ぐっ…!」
奴がさらに力を入れてきた。腕拉ぎ十字固めだ!くっ、腕を伸ばされたら、負ける!
右手に力を込める。かろうじて膠着状態だ。だが…
視界の端に横たわる智也の姿が見える。あまり時間は掛けられない。
「くっ…!うっ…!」
まずい。徐々に左腕が…、右手から抜ける…!
セルコブラが上体を起こす。勢いをつけ一気に腕を引き伸ばすつもりだ。私は歯を食いしばり、右手を強く握る。奴が身体を反らせ腕に体重をかけてくる。しまった!左腕が完全に伸ばされた。
…と見せかけて、奴の動きに合わせ私は身体を回転させる。膝をついた!強引に立ち上がる。奴の首を手刀で叩く!奴の手が緩む。力任せに左腕を引き抜いた!
唸り声を上げ奴の頭を踏みつける、…避けられた。
セルコブラが喉を唸らせる。奴の尻尾が足首に絡まる。私は素早く片膝をつく。けものプラズムを纏わせた手刀で尻尾を斬り裂く。奴が悲鳴を上げのたうち回る。
「キャーッ!」
「セルリアンだ!逃げろ!」
背後からの叫びに振り返る。青い球体のセルリアンが数体、触手を蠢かせている。一体は智也に…!
「くそっ!」
セルリアンに駆け寄ると両腕を交差させ十文字に斬り裂く。いったいどこから、セルコブラか?考える間も無く二体目に斬り掛かる。
「早く逃げろ!警察を呼べ!」
立ち竦むカップルに叫びながら触手を斬り落とす。セルリアンの背後に回り込み石を蹴り砕く。これで全部か?
「余計な真似を…」
苛立った呟きが耳に入る。振り向くよりも速く何かが背中に組み付いてきた。しなやかな腕が首を絞めつけてくる。セルコブラか!両脚で胴体を挟み込まれた。振りほどけない!
目が眩み、地面に膝をつく。このままでは…、落ちる…!
「オオカミ!」
智也!彼が地に手をついて立ち上がろうとしている。
(…どんな時でも平静を保て。最後に勝負を決めるのは冷静な判断力だ!)
私は彼に笑ってみせる。ありがとう、大丈夫だよ。
セルコブラ、敵ながら大した奴だ。私は右手を自分の鳩尾に押し当てる。
こいつがセルリアンでよかった。右手に意識を集中させる。
本物だったら負けていたな。けものプラズムが刃を形成する。
けものプラズムの刃が私の身体を透過しセルコブラを貫いた。
「ぐっ!?ギャアアァッ!」
セルコブラの腕から力が抜ける。私は立ち上がる。振りほどくまでもなく奴の身体が地面に落ちた。
私は智也に駆け寄る。
「智也!無理をするな!すぐに病院に…」
「後ろだ!」
なに!?振り返るが何もない。
「違う!上だ!オオカミ!」
見上げた先で紅い二つの凶星が光を放った。身体に衝撃を感じる。やられた。…違う!誰かに突き飛ばされた。私の眼に交差する二つの影が映る。
「智也ーっ!」
私をかばった彼の胸に手刀が突き刺さっている。相手は耳の長いフレンズ。白い尻尾の先端に金の輪。白い装束が光に映える。だが、セルリアンだ。よくも…!
呼吸が荒い。腹の奥が煮えたぎる様だ。平静でなどいられるものか!今行くぞ。そいつを殺してやる。
「ぐうううっ!」
智也が両手でセルリアンの手刀を引き抜く。双眸が虹の輝きを帯びる。次の瞬間に凄まじい雄叫びが大気を震わせた。彼が奴の身体を持ち上げ地面に叩きつける。地響きがする様だ。渾身の力で奴を投げ飛ばす。木々の折れる音がして奴の姿は植樹林の中に消えた。
両手両膝をつく智也に私は駆け寄ろうとする。唐突に不快な音が耳に入ってくる。何だこれは?地面が揺れている様に感じる。
「王として…、私は、使命を…、果たす。」
「セルコブラ!貴様、まだ!」
再び不快な音が響く。奴の仕業か。私は頭を振ると奴に向かって手刀を振り下ろす。全く手応えが無い。どうなってる?
「無駄だ。」
「よくも私にこの技を使わせたな。」
「お前に勝ち目はもう無い。」
セルコブラが三人?いや、四人、五人、まだ増える。幻覚か!視界が奴で埋め尽くされていく。
手近な奴に手刀を振るうも手応えは無い。どうする!?智也は重傷だ。もう時間は残されていない。
(…お前はサンドスターの制御が雑だ。この技はサンドスターを一点に集中させ、それから爆発させるんだ。あたしの最も得意な技だぞ。はっはっは!)
師匠のあの技。私には上手く使えなかったが。だったら…!
私は両掌にサンドスターを集中させる。
「抵抗しても無駄だ。」
「これで終わりだ。」
「お前を始末する。」
無数のセルコブラが迫ってくる。どれが本体かは問題じゃない。
一点集中が無理なら…!両掌のサンドスターを大地に叩きつける。地面から噴出したサンドスターが私を中心に円形に拡がりセルコブラ達を飲み込む。
「
サンドスターの波に飲まれセルコブラ達は消滅した。一体を除いて。
「ワ、ワタシは…、王…、し、しめい…、ハタす。」
虚ろな眼でなおも足を止めようとしない。
「王と言ったな。なら敗れた王がどうなるか、その身で示せ。」
私はけものプラズムの刃を横に払った。ゴトリ、という音の後にセルコブラの身体は砕け散った。
「智也!大丈夫!?しっかりして!」
智也に駆け寄ると彼の身体を支える。
「心配するな…、俺は頑丈に…」
「もう喋らないで!」
彼の胸の傷を押さえる。彼に守られた。彼を傷付けてしまった。
「ごめんね。私のせいで。ごめんね。」
遠くからサイレンの音が近付いて来る。
堪えきれずに両目から涙が溢れた。
私は無言でペンを走らせる。
「…よし!…できた。」
原稿を仕上げて一息つく。
「お疲れ様です。先生!」
笑顔で労うアミメキリン。
「ご苦労さま。」
アリツカゲラがハーブティーを淹れてくれる。
「これでまた智也さんとデートが出来ますね。」
「………」
「智也さんも忙しいんじゃないかしら。」
「そんな事ありません。先生が呼べば喜んで飛んで来ますよ!」
「………」
私はハーブティーに口をつける。
「どうしたんですか?…何だか、雰囲気が初めて会った頃に戻ったみたいですけど。」
アミメキリンが私の眼を見つめてくるのが分かる。私は視線を落とす。
「…話してくれなくちゃ伝わりませんよ。」
静かな口調だが苛立ちが混ざっている。
「ちょっと疲れ気味なんでしょう。大分根を詰めていましたし。」
取り繕う様にアリツカゲラが言う。
「そういう事にしておきますけど。」
腑に落ちない様子のアミメキリン。
「…それじゃあ先生、ゆっくり休んで下さいね。」
アミメキリンは部屋を出て行く。
「私も戻りますけど。あまり一人で抱え込まないで下さいね。」
やがて片付けを済ませたアリツカゲラも立ち去ろうとする。
「…逃げられませんよ。私からも、キリンさんからも、智也さんからも。」
去り際に振り向いた彼女が呟いた。
「私達はもう、出会ってしまったんですから。」
微笑を浮かべ軽く会釈すると彼女も出て行った。
残された私はぼんやりと天井を眺めていた。ふと一週間前の記憶が蘇る。
「智也さんのお見舞いに行きましょう!」
そう言ったのはアミメキリンだった。
「オオカミさんの笑顔を見れば智也さんもすぐに元気になりますよ!」
「…そんな漫画じゃないんだから。」
「何言ってるんですか、笑顔にはサンドスターを活性化させる効果があるっていう研究論文もあるんです。」
渋る私をアミメキリンは強引に引っ張り、智也が入院している病院まで連れて行ったのだった。尤もそこで待っていたのは…
「おお、来たか望月君。」
「バビルサじゃないか、こんな所で何をしてるんだ?」
「教授と呼びたまえ。」
以前に街中で騒ぎを起こしたフレンズだ。二人の助手も一緒だ。
「未来君ならもうここには居ないよ。既に退院している。彼が入院したと聞いて飛んで来たんだが、データ通りすごい回復力だ。じっくりと研究したかったんだがな。」
「なるほど。私だけじゃなく、彼のことも実験台にしようとしたわけか。」
声音を低める私には構わずバビルサは続ける。
「まずは血液を採取しようとしたら暴れだしてね、メグ君がしっかり押さえておかないから。」
助手の一人、メガネグマをジロリと睨むと彼女はため息を吐いてみせる。
「そんなに睨まないで、私の方こそ危うく眼鏡を割られるところだったのよ。」
「やはりミックスとはいえアフリカゾウを怒らせるのは危険過ぎます。」
もう一人の助手、メガネフクロウもうんざりしたように言う。
「実験には危険が付き物だよ。」
「じゃあ次は教授が…」
「…お一人でなさって下さい。」
「き、君達は私に死ねと言うのかね?」
うろたえるバビルサだったがすぐに何かに気付いた様に私を見た。
「そうだ望月君、君から未来君に言ってくれないかね。フフフ、私の眼は誤魔化せんよ。君達は互いに性的好意を抱いているだろう。君の頼みなら未来君も…」
不意に身体が、頭が熱くなった。
「少し黙れ。」
気付いた時には私はバビルサの襟首を掴んでいた。
「お、落ち着きたまえ、望月君!」
「オオカミさん!?それ以上はダメですよ!」
アミメキリンに制止されて我に返った私はそのまま病院を出ようとした。智也が居ないならもうここには用は無い。
「待ちたまえ、望月君。未来君から言伝がある。…“返事が聞きたいから虫が知らせたあの場所に来てくれ”、確かに伝えたからな。」
バビルサはそそくさと立ち去っていく。虫が知らせたあの場所、それは…
薄暗くなった部屋で私は目覚めた。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。もう夕方か。
日が沈んでから部屋を出た私は適当な店で食事を済ませると当てもなく街を歩く。こうして独りで歩くのは何だか久し振りのような気がする。でも何故だろう、以前と感じが違う。何かが足りないというか。そう隣に…
どれ位歩いただろう。気付けば目の前には以前来た店がある。“フクロウの目”、彼の行きつけの店だ。しかしそこで私の足は止まってしまう。今さら彼に会ったところで…
引き返して繁華街をそぞろ歩く。心臓が高鳴る。見知った背中が映った。彼のことはすぐに見つけられる。だが私の足は動かなかった。彼の隣にフレンズの姿が、彼女のことも知っている、ギンギツネだ。
私は素早く踵を返す。足早に雑踏の中を進む。今すぐにでも駆け出したい。何故だろう?目頭が熱い。街の灯りがぼやけて見える。
俺は無言でグラスを傾ける。
「もう一杯くれ。」
「飲み過ぎなのです。もうそれぐらいにしておくのです。」
「いいんだよ。余計な世話だ。」
「らしくないのです。彼女にフラれたぐらいで…」
「瑞葉!…ほっといてやれ。」
マスターがボトルを置いていく。グラスを満たすと一息に呷る。空になったグラスを俺はぼんやりと眺める。
あの夜、彼女を待ち始めて四日目。奇しくも以前と同じだ。真夜中過ぎにタイリクオオカミは現れた。
「やあ、奇遇だな。タイリクオオカミさん。」
「…ああ。」
何だ?返しがないな。いつもなら…、まあ、あれは半年以上も前だからな。
俺とタイリクオオカミはしばらくの間無言で立っていた。何だろう。気まずい。
俯き加減なオオカミの顔を覗き見る。緊張しているのかな?彼女らしくないな。いや、普段はクールでも、オオカミだって、女なんだし、緊張ぐらい、するよな。何だか俺の方が焦ってきたぞ。
「ええと、珈琲を飲みに行くか?夜は結構冷えてきたしな。」
「………」
「それとも、今ここで返事を聞かせてくれるのか?タイリクオオカミ。」
「………」
「オオカミ?どうし…」
「智也…」
意を決した様にタイリクオオカミは顔を上げる。黄色と蒼色の瞳が俺を真っ直ぐに見つめる。
「私は…、君の気持ちには…、………れない。」
え?なんだって?
彼女の言葉が、理解出来ない。
続けざまに彼女は何か喋っているようだが、全く耳に入ってこない。
「オオカミ!もう一度はっきり言ってくれ!」
彼女の肩を掴む。潤んだ瞳が俺を見る。
「私は貴方の傍にはいられないの。ごめんなさい。智也。」
「……だって、俺は君が…。君だって…」
彼女は俺の腕を振りほどくと駆け去ろうとする。
「待ってくれ!」
俺は彼女の腕を掴もうと手を伸ばす。だが、俺の左手は虚しく空を掴んだだけだった。
彼女の背中が遠ざかって行く。俺は呆然と見ている事しか出来ない。
(さようなら、智也。)
待ってくれ、ギンギツネ。
(ごめんなさいね、智也。)
いかないで、おかあさん。
どうしてみんな…
「俺をひとりぼっちにしていくんだ。」
俺は目を開いた。いつの間にかカウンターで寝てしまったらしい。無言で席を立つ。
「もう行くのか?」
「ああ。すまない、マスター。」
「気にするな。またいつでも来い。」
店を出ると繁華街の方を歩く。歩いているうちに胃の辺りがむかついてきた。口の中に唾が溢れてくる。駄目だ。口元を押さえ、ビルの間に入り込む。堪らずに俺は嘔吐した。
そのまま座り込んでいると、目の前にハンカチが差し出された。微かに香水の匂いがする。
「これを使いなさい。」
「ほっといて…」
払いのけようとして、視線を上げると見知った顔が目に入った。
「ギンギツネか。」
俺は壁に手をつき立ち上がる。別れたとはいえ、この女の前でみっともない姿を晒したくはない。毅然として歩き出そうとするが、身体は言うことを聞いてくれなかった。ふらついた俺をギンギツネが支える。
「もう…!いつまでたっても世話が焼ける。」
不本意だが彼女と並んで通りを歩く羽目になった。
こんな所を、アミメあたりに見られでもしたら、何を言われるか分かったもんじゃないな。
「いい大人なんだから、シャキッとしなさいよ。」
「…もういい、一人で歩ける。」
腕を振りほどく様にして彼女と離れる。
「以前、一緒にいた彼女はどうしたの?今日は一人なの?」
「…君には関係無いだろ。」
「…そう。なら聞かないわ。」
クラクションが鳴る。一台のセダンが停まった。アルファロメオか、いい車だな。
スーツ姿の男が降りてくる。俺よりは低いが長身だ。メタルフレームの眼鏡、整った口髭、なかなかのイケメンだ。歳は俺と同じか少し上か。…デザイナーといった感じか?
「ギンギツネ、こちらの人は?」
「彼は…」
「昔のオトコだよ。とっくに別れた。偶然会っただけだから気にするな。」
吐き捨てる様に告げる俺をギンギツネが横目で睨むのが分かる。男の方は俺の顔をまじまじと見ている。
「失礼ですが、作家の原田テツヲ先生では?」
「…そうだよ。」
途端に男はにこやかな顔を見せる。
「会えて光栄です。先生の作品は全て読んでいます。『幸運の四角形』は難解でしたが、私は好きですよ。」
「…そりゃどうも。」
右手を差し出してくる。握ると力強く握り返してきた。だが敵意は感じない。くそう、中身もイケメンじゃないか。
「食事はもうお済みですか?宜しければ一緒に…」
「いや、いいんだ。俺のことは気にしないでくれ。二人の邪魔はしたくない。」
ギンギツネが男の腕を掴むと頷いて見せる。二人は車に乗り込む。
「それじゃあね、智也。」
彼女を乗せて車は走り去って行った。
俺は踵を返すと雑踏の中を歩く。どうしてだろう?今夜はなんだか妙に風が冷たく感じる。
両手を腰に当てたアリツカゲラが私を睨んでいる。
「まずは服を着なさい。話はそれからです。」
私はソファーから起き上がると床に脱ぎ散らかした服を拾う。ブラウスのボタンを留め、スカートのジッパーを上げる。その間にアリツカゲラはテーブルの上の空のボトルやグラスを片付けていく。靴下を履き終えてソファーに座ると、彼女はティーセットとポットを持ってきた。
「私のことは放っておいてくれないかな。」
「駄目です。言ったはずですよ。逃げられません、逃がしません。貴女はもう独りじゃないんです。」
静かだが断固とした口調で告げるアリツカゲラ。しかし、その後彼女は一言も発すること無くただ私を見つめている。そうだ、初めて会った時も彼女はこんな風に私から話すのを待っていた。ただ静かに。
アリツカゲラは待ち続けている。穏やかな眼差しが私を捉えて離さない。
どうして、放っておいてくれない?どうして、独りにしておいてくれない?
いつからだろう?穏やかで優しい時間が当たり前になったのは?
君がいて、アミメキリンがいて、そしていつからか、智也が私の隣にいた。
何故、出会ってしまったんだろう?
(離せ!セルリアンめ!)
(俺はヒトだ!きさまこそ!)
(私はフレンズだ!)
あの夜、あの場所で。
(タイリクオオカミだ。そう呼んでくれ。それで君の名は?)
(俺は未来智也。)
どうして、再び会ってしまったんだろう?
(やあ、奇遇だな。タイリクオオカミさん。)
(ああ、虫の知らせというやつかな。ここに来れば君に会えるような気がしてね。)
どうして彼に会おうと思ったんだろう?
(大丈夫だ!俺が傍についているよ。タイリクオオカミ。)
(一人で背負わないでくれよ。俺もいるんだからさ。)
(タイリクオオカミ!!無事か!良かった。)
いつも傍で私を助けてくれた。
どうして、傷付いても笑っていられるの?何故、優しくしてくれるの?
ふと熱いものが頰を伝っていく。
「…傷付けたく、なかった、…のに、私の、せいで、智也は。」
たどたどしくも私はあの日から昨夜までのことをアリツカゲラに話した。
「…好きだって、言ってくれた、のに、…こんな、私の、ことを。」
「良かったじゃない。そのまま彼の胸に飛び込めばよかったのに。」
アリツカゲラは私の手に掌を重ねる。
「どうしてあんなことを言ったの。」
「怖いの、もし、彼がいなくなって、しまったら、…また、ひとりぼっちに、なってしまうのが、だから…」
「それで貴女はいいの?」
「私と一緒に、いない方が、彼だって、きっと…」
「じゃあ、どうして泣いているの?どうしてそんなに悲しいの?」
アリツカゲラが私の髪を優しく撫でる。
「…寂しいよ。本当は、智也の傍に、いたい。彼と、一緒にいたい。」
アリツカゲラが私を抱きしめる。堪えきれずに私は彼女の胸で泣いた。
「うん。そうだよね。ひとりぼっちは寂しいもんね。大丈夫、そう思うことは絶対に恥ずかしいことじゃないから。」
子供の様に泣きじゃくる私を彼女の腕が優しく包み込む。
顔を洗ってリビングに戻ると、アリツさんがハーブティーを淹れてくれていた。
「…ありがとう、アリツさん。また君に助けてもらった。」
「どういたしまして。友達として当然のことをしただけですよ。」
「友達か、君に出会えて私は幸せだな。本当にそう思うし、感謝しているよ。」
「でも、私はいなくなりますよ。」
不意に告げられた言葉に私は一瞬むせそうになった。
「出会いがあれば当然別れもある。人は死にます。必ず死にます。いつか貴女も私も死ぬんです。だからこそ人は誰かと繋がりたい、一緒にいたいと思うんです。別れを悲しむよりも出会えた奇跡に感謝するんですよ。」
もう一度アリツさんは私の手を握ってくる。
「私もオオカミさんと出会えて嬉しいです。貴女と同じ時を生きられることに感謝しています。いつか別れの時が訪れても、笑顔でいたいから。」
「…強いなアリツさんは。私は正直、まだ怖いんだ。」
「私だって、誰だって同じですよ。でも、誰とも出会わずに生きることは出来ないでしょう?だから少しずつでいいから、勇気を出して。」
アリツさんが握っている手に力を込める。華奢な手なのに今は力強く感じる。それにとても温かい。
「分かったよ。もう逃げない。ううん、もしかしたらまた逃げるかもしれない。でもその時は…」
「大丈夫ですよ。絶対に逃がしませんから。」
「うん、私ももっと強くなるよ。アリツさんを守れるぐらいに。」
私は彼女の手を強く握り返す。
「…オオカミさん、手が痛いんですけど。」
「あ、ごめん。」
本当にごめんなさい。今まで私は思いあがっていたんだ。ちっぽけな強さに。でも、強いって力とか速さだけじゃないんだね。貴女は私よりもずっと強かった。心が。私も貴女が誇れるような友達になるから。だから…
「これからもどうかよろしくね。」
白い月に雲がかかっている。十三夜といったところか。虫の音が聴こえてくる。夜気が涼しい。大分秋めいてきたな。
郊外の田園地帯で俺は一人で夜を明かしていた。あれからタイリクオオカミとは会っていない。
(そういう事なら私に任せておきなさい、トモヤ!あのfuckin’wolfに思い知らせてやるわ!)
(ちょっと待て、どうしてショットガンがいるんだ!?いや、そんな物どこから持ってきた?)
(Release me!リバティポリスでは常識なのよ!Old Westから決まっているの!)
…全く。ハクトウワシの奴は元通りになったが。あいつに話したのはやっぱり余計だったな。
風が吹き抜ける。なんだか人肌が恋しく感じるな。俺は雑木林の中に駐めておいた車に乗り込む。座席で目を閉じる。静かだ。オオカミは今何をしているんだろう。今にも窓を叩く音がして、彼女が立って車内を覗き込んでいる様な…
コツン、という軽い音でハッと目が覚めた。反射的に窓の方を見る。暗闇が広がるだけだ。枯れた小枝か何かが落ちてきたのか。俺は車から降りる。
何だろう?胸騒ぎがする。誰かに見られている様な。
「…出て来たらどうだい、タイリクオオカミ。」
口にしてから自分でも驚いた。どうしてこんな事を口走ったんだろう。耳をすましてみたが、微かに梢が揺れる音がするだけだ。まあ当然だよな。
「どうして分かったんだい?智也。」
思わず跳び上がりそうになった。振り返れば闇に浮かぶ二つの眼。黄色と蒼色の瞳が煌めいた。
「た、たべ…、タイリクオオカミか?」
「そうだよ、うまく気配は絶ったつもりだったんだけどね。」
暗がりに目が慣れてきた。髪は短いままだが、服装はいつもの彼女だ。冬毛に生え変わるのかな。
「虫の知らせってやつかな。ここに来れば君に会えるような気がした。」
一瞬きょとんとした顔を見せた彼女は含み笑いをもらす。
「…そうか。君らしいな。」
「タイリクオオカミ!話したい事があるんだ。」
「智也、私も君に…」
「賭けをしよう!オオカミ。」
俺は顎をしゃくってオオカミに合図する。彼女は何か言いかけていたようだが、俺が歩き出すと黙ってついてきた。
雑木林を出る。もう月の姿はなく、頭上にはオリオンの三つ星が瞬いていた。
「どうするつもりなんだ?」
「あれだ。」
指差した先に一際大きい
「ここからあの木まで走って先に着いた方の勝ちだ。俺が勝ったら、お前は俺の女になれ!タイリクオオカミ!」
「…本気で言ってるの?」
「当たり前だ!俺はもう君を手に入れるのになりふり構ったりしない。」
「…私が勝ったら?」
「ああ!?勝負する前から負ける事考える奴があるかよ!」
自分でも何を言ってるんだかよく分からん。とにかくこの機を逃したら二度と彼女に会えないような、ここで彼女に会った事が運命のような、そんな事を考えていた気がする。
俺の剣幕に押されたのか、呆れていたのか知らないがオオカミは勝負に乗ってくれた。
二人並んで走り出す。ものの数秒で勝負は見えた。分かっていた事だが、みるみるオオカミの背中が小さくなっていく。息を切らせてゴールにたどり着いた俺を彼女は息一つ乱さずに見つめていた。
「私の勝ちだね、智也。悪いけど…」
「誰が一回勝負だと言ったんだ!?」
我ながら本当に滅茶苦茶だ。それでもオオカミは文句を言わず付き合ってくれた。
走っては負け、負けては走る。何度も何度も何度も。息が苦しい。汗が目に入って痛い。心臓が破裂しそうだ。膝がガクガクしてきた。気持ちが悪い。吐きそうだ。顔から血の気が引いてるのが分かる。
何でこんな事してるんだ?正直勝てるなんて思っちゃいなかった。分かっていたのに。俺はこんなにも馬鹿だったのか。
オオカミの奴もまるで手を抜くつもりが無い。くそっ、なんて女だ。血も涙も無いのか?
そもそも俺はあんな癖っ毛のケモノ臭い女なんて好みじゃないんだ。もっと髪の毛さらさらのお淑やかな、ギンギツネみたいな、ああでもあいつは気が強いし、格好ばかり取り繕うし、眼鏡のセンスが最悪だからな。
アミメキリンの奴は美人だしいいカラダしてるけど、アミメキリンだからな。
くそう、なんだか俺の周りにはろくな女がいない!
前に会ったタンチョウも美人だったな、どうして連絡先を聞いておかなかったんだ。
どうしてだ?女なんて他に幾らでもいる筈だ。ヒトでもフレンズでも星の数ほどいる筈なのに。どうして…
「どうして私にこだわるんだ?」
俺は地面に両手をつき荒い呼吸を繰り返していた。顔から流れ落ちる汗が地面に染みを作る。いつの間にか辺りが明るくなっている。もう夜が明けたのか。
俺は立ち上がると彼女と向き合う。どれだけ走ったんだ?目の前のタイリクオオカミは普段通りのクールな仕草を崩さない。悔しい。だが、惚れ惚れする。
「…分からない。分かっているのは、君が好きだって事だ。」
「そう言ってくれるのは嬉しいよ。でも私って、嫉妬深いし、面倒臭いし、あと実はちょっと獣臭いし。」
冗談ともつかない口調で彼女が言う。自覚があったのか。
「俺だって、要領が悪いし、執筆中はズボンを脱ぐし、この前は街中でゲロを吐いたし。」
「私はネイティブフレンズだ。元は動物だったんだ。ヒトの君とは。」
「俺の両親はどちらもネイティブだ。」
二人が出会ったから俺が生まれた。
「誰かを好きになるのに、いちいち理由が要るのか?」
理由なんて必要無い。好きだから好きだ。
「智也、私はまだ君の気持ちに応えられそうにない。もう少し時間をくれないか?」
「…オオカミ、ひとまずこの勝負は引き分けでいい。勝負は預けておく。」
そう言っていつの間にか脱ぎ捨てていた上着を拾うと俺は歩き出す。
「俺は決して絆を諦めない。君との絆を。あの夜、あの場所で出会った。出会いは奇跡だと言うだろ。なら、あの
振り向いて告げると彼女は顔を綻ばせた。
今はまだ向かう先は別々だ。でもきっと俺と彼女は一緒に歩ける筈だ。その時は本当のパートナーとして。
アナタ達は忘れてしまったでしょう。彼女のことを。でもワタシは忘れない。彼女の記憶、彼女の存在、彼女の意思を。
知っているかしら?ジャパリポリスの地下にはワタシ達にとって、とても大切なモノが埋まっているのよ。フフ、ついに見つけたわ。
次回 『Apocalypse』
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