ふっとんだ布団と絶体絶命の僕

チャタロウ

第1話


「俺はこの時をずっと待っていたんだ…!今こそ死ね……!」


此方に向けられたナイフが朝の陽射しに照らされ冷たく光る。

随分と気合いが入っているのだろう、それを手にした男は歌舞伎役者顔負けの睨みを僕に対して利かせた。ナイフを持つ手が震えているが、恐怖からというよりは武者震いに近いのではないかと自分でも驚く程落ち着いた思考で考える。

昔から、何かピンチが起こると焦るより先にクールダウンしてしまい、どこか他人事のように客観視してしまうのは悪い癖だった。そのせいで何度か母親と父親に心配された記憶が蘇る、それも今考えれば良い思い出だ。今秋田は既に雪景色だろうか、この冬はちゃんと里帰りしよう。いつも僕が顔を見せるだけで両親は手放しに喜んでくれるのだ。


「おい!何ニヤけてんだよ…!」


男の怒鳴り声で現実に引き戻される。優しい両親の温もりと対照的にナイフは尚も冷たそうだ。刺さったらさぞ痛いことだろう、血が沢山出てそして最悪処置が遅れれば死ぬのだろう。悲しむ両親の顔が思い浮かび、次に病院の固いベッドに寝かされた僕の顔に嫌に白い布がかけられているのを想像する。昔から白って何故か似合わないのに、ヤダなあ。

これまでの二十二年間の人生、こんな風に殺されそうになるほど悪いことをした記憶はない。良いことを沢山したかというとそんなこともないけれど、それでも恨みを買った憶えはないのだ。しかし、今まさに僕を殺さんとしている男は僕に対して明確な殺意を向けて来る。

ナイフから恐る恐る視線を外し、改めて確認してみた男の顔は全く記憶になかった。正真正銘の初対面である、おいお前誰だよ。


「あ、あ、あの……どなた…ですか……。」


この状況で流石にお前誰だよとはいえないかった。僕も案外気が弱いのである。乾いて上下がくっついた唇を引き剥がし絞り出した声は妙に裏返っていて、こんな自分でも今とてつもない恐怖を感じているのだと嫌でも自覚させられた。

こんなか細い声ではいくら壁の薄いオンボロアパートだとしても届かない上に、叫んだ途端グサリで終了だろう。生憎とこのアパートの目の前は電車が多く運行している線路で、絶え間なく走り去る音が聞こえ続けるので勇気を出して大声で叫んでも掻き消されてしまうに違いない。


「お前の布団が吹っ飛んだんだろうが!」

「……は…?」


突然男が落窪んで血走った目を見開いて喚いた。一瞬なんのことか分からずに思考が停止するものの、数秒遅れて先程の問いかけの返事だと気が付く。誰だと聞いたのに布団が吹っ飛んだと返されるとは思いも寄らず間抜けな声が喉から漏れるが、男の怒りはどうやら依然として収まる様子がない。


「だからお前の布団がぁ…!吹っ飛んだだろうがよぉ…!覚えてもいねえのかよぉ…!」


奥歯を鳴らしながらどすの効いた声で訳の分からないことを怒鳴る男に呆気に取られるものの、よくよく考えると確かに僕の布団は三ヶ月前になくなっていた。

天気が良いのでベランダに天日干しして出かけていたのだが、外から戻るとなくなっていたのだ。泥棒かと思ったが、四階のベランダに干された布団を盗難するのは不可能であるため当時は不思議に思っていた。


「布団…た、確かになくなりました……でもそれが一体どういう……。」

「自分のやったことの重大さも分かってねえのが気に入らねえんだよ!ああ良いさ、教えてやる。お前の布団はな、線路まで吹っ飛んで落ちたんだよ…!」


風一つで意外と重い布団が吹っ飛ぶものだろうか、そう考えてから今はそんな悠長なことをいっている場合ではないと思い直す。


「俺はな…その日一秒も遅刻出来ない大事な商談があったんだよ、だから電車にもいつもより早めに乗ったってのに『線路内に布団が落ちているため運転を見合わせます。』だと!?ふざけるのも大概にしろと思ったね、そのまましばらく車内で待ちぼうけさせられ遅刻したせいで商談はおじゃんだ!上司にも部下にも責められ俺は精神を病み仕事を辞めて無職なった!俺の人生がお前の布団でめちゃくちゃになったんだ…!」


身振り手振りを加えて政治家の演説さながらに恨み辛みを吐き出す男は、目尻にうっすらと涙を溜めていた。他人を殺そうなどと思い詰めるほどに精神的に追い込まれているのが様子から見て取れる、きっと真面目で猪突猛進な性格なのだろう。

しかし、そんな彼に僕は今から非情な事実を突きつけなくてはならない。ごめんな、おっちゃん。いつでも正直であれと両親にいわれて育ったんだ。


「だから今からお前を殺す…!」

「それ、僕の布団じゃないです。」

「…え?」


先程より幾分か潤った僕の唇は、あまりにもあっさりと真実を紡ぎ出した。男の動きが一瞬止まるのをみてすかさず次の一手を捩じ込む。


「お隣の401号室の布団です。」

「嘘をつくな!」

「…嘘じゃありません。僕の布団は飛ばされて向かいの一軒家の庭に落ちていました。」

「証拠はあるのか!」

「その家の奥さんに聞けば分かりますよ…!」


ピンポーン。


大声でそう叫んだ途端チャイムが鳴る。何を思ったか男は僕の首根を掴み背中にナイフの刃先を軽く押し当てたまま玄関の扉の前まで引きずりまずは自分がスコープを覗いた。次に僕にも覗かせる。

スコープの先には手にビニール袋を下げたふくよかな女性が一人で立っていた。


「この女は誰だ。」

「…向かいの家の奥さんです。」

「今の話を証明してみろ。ただし、助けを求めたりしたら殺すぞ。」


刃先がゆっくりと背中から首へと移動したのが分かり、多少緩み始めていた自分の中の緊張と恐怖がもう一度溢れ出す。僕は一度咳払いをしてから努めて明るい声色で扉の向こうの相手に声をかけた。


「…こんにちは!御用ですか?」

「ああ良かった、居たのねえ。これ蜜柑なんだけど、沢山あって食べ切れないから貰ってくれる?」

「あ、有難う御座います!今風呂上がりなので、そこに引っかけて貰っておいて良いですか?それと四ヶ月前、僕の布団が庭まで飛ばされてしまいすみませんでした。」

「あら!そんな随分前のこと、良いのよ。あの日は風が強かったからねえ。それじゃ、かけておいたから食べてね。」


更に礼を述べると朗らかな笑い声と共にガサガサとビニール袋が擦れる音がしてから奥さんは去って行った。あのまんまるく膨れた白いパンのような笑顔を思い出し、もしこの世に女神がいるのなら彼女なのではないかと思う。

ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、僕の足元にナイフが硬質な音を立てて落ちた。落とし主は想像に難くないがおっかなびっくり視線を向けてみると、そこには絶望を滲ませているにも関わらず泣くに泣けず唖然としている男の姿があった。


「そ、そんな……俺はこの四ヶ月必死に機会を伺って…お前のことだけを考えて……それなのに人違いだったなんて…。本当に、線路に落ちたのは隣の部屋の奴の布団なのか…。」

「ええ、そうです。しかも、残念ながらもう二ヶ月前にここを引っ越してます。」


男が力なく玄関の床へとへたり込んだ。顔を腕で覆って子供のように泣いている。

僕は今の今まで自分を殺そうとしていた相手だというのになんだかとても可哀想に思いつつ、足先を使って落ちたナイフを手繰り寄せ万が一にも男が拾えないように隠していた。可哀想だと思うがそれ以前に自分の命は惜しい。


「…ソイツは、どこに引っ越したんだ。」


鼻を啜り震える声で男は聞いた。まだ闘志は燃えているのだろうか。…いや、今の衝撃で鎮火されているのは間違いなさそうだ。きっと、これは男なりの意地なのだろう。


「……復讐はなにも生みませんよ。」

「…教えろ。」

「考え直した方が良い。」

「…良いから教えろ馬鹿野郎!ソイツはどこに引っ越したんだ!どこに居ようがとっ捕まえて殺してやる…!」



「ホンジュラスです!!」



今まで、こんな表情の人間を見たことがあるだろうか。拍子抜けも度を過ぎると人はこんなにも間抜けな顔をするのだ、ひょっとこを五百倍ほど腑抜けにしたような男の目の奥にはもう怒りに燃える炎はなかった。


「ホ、ホン……?どこ……?」

「さあ……。」


崩れ落ちたままの男を放置して僕はいつもよりもちょっぴり重いドアノブに手を掛ける。


「あの、良かったら一緒に蜜柑でも食べませんか?」


ガタンゴトン、電車が線路を走り抜けるあの音がなんだかやけに侘しく聞こえた。


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