ホワイトデマゴーグ

ジム・ツカゴシ

第1話 プロローグ

 塚堀敦彦はその場に釘付けになった。画廊の床に無雑作に置かれた大きな油絵。そこに描かれた艶やかで妖しげな乳房を露にした胸。

 まぎれもない。この胸を抱いたことがある。窓の外は粉雪が舞う銀世界であった。甘酸っぱい昔の記憶から浮かび出てきた白い乳房。いく筋かの血管が透けて浮き出ていた。

 油絵に描かれた女は、その三分の一を濃い緑色が占める白い面を着けている。細面の顔立ちに大きく開いた両眼。碧眼がこちらを見つめている。形のよい鼻と紅色の唇が見る人を惹き付ける。仮面の背後から亜麻色の髪をなびかせつつ、右手で三色旗を掲げ、左手には銃を引っさげて、足元に積み上げられたバリケードを踏み越えようとしているところだ。

 目の前の仮面の女と、忘却の彼方から蘇るブラウン色の髪で灰色の瞳を持つ女とが重なり合って揺れ動く。

 食い入るようにして目を凝らした塚堀は、仮面がしきりになにかを訴えているのに気付いた。各地から蒐集した仮面を集めた国立博物館が日本に存在するほど、古代から人々は仮面の魔力に魅せられてきた。この画家も仮面になにかを秘めたに違いない。


 塚堀がその油絵に遭遇してから三十年ほどになる。

 クリスマスが間近にせまった日曜日の朝のことであった。

 塚堀は米国に住むようになって以来、毎週末早朝のランニングを欠かさない。テキサス州のダラス近郊に住んでいた頃に頻繁に参加した十キロレースでは、一時間未満でゴール・インすることを目標にしていた。レースで米海兵隊員たちといっしょになったことがる。彼らは隊列を組んで十キロをちょうど一時間で駆ける。

 米国の中央部に位置するケンタッキー州に移ってから二十年近くになり、今では年齢も七十歳に近い。小一時間に走る距離は七キロほどだろうか。ジョギングと呼んだほうがよいかもしれない。薄っすらと汗がにじむ。

 三十軒ほどのアパートが入る四階建てのビルが五棟並んでいる。塚堀のアパートはそのひと棟の最上階にある。階段を上りながら建物の前にある駐車場に目を遣ると、塚堀の車のすぐ隣に駐車していた小型のSUVが見当たらない。

 「スー!」

 ドアーを開けるなり呼びかけた。

 が、室内はひっそりと静まり返ったままだ。ワン・ベッドルームの寝室にも女の姿はない。クロゼットにかかっていた女物のジーンズやブラウスが消えている。金曜日に女が持参して居間の壁に吊り下げた陶製の仮面が遺されているだけだ。

 車で二時間ほど離れた地に女の両親が住んでいる。日頃から高血圧気味で血圧降下剤を欠かさない母親になにかあったのだろうか。携帯電話のボタンを押す。だが、この番号は使われていません、という録音されたメッセージが返ってくるだけだ。

 

 翌日の月曜日の朝、いつもより早い時刻に事務所に到着した塚堀は、女が勤める非営利団体の始業時刻になるや電話を入れた。

 スーザン・トンプソンと話したいのですが、と告げると、

 「トンプソンという名の職員はこの事務所にはおりませんが」

 「えっ! そんな馬鹿な。所長のシェリル・スミスは?」

 「スミスは席にいます。スミスに代わりましょうか?」

 「そうお願いします。トンプソンの知人のジムからと伝えてください」

 しばらくして、「ジム! 久しぶりね、お元気?」聞きなれたシェリルの声が携帯から伝わる。

 「シェリル、きのうの朝以来スーを探しているんだ。先ほどの女性はスーは退職したような口ぶりだったが、なにかあったのかい?」

 エッ! シェリルの驚いた声に続いて短い沈黙が。

 「ジム、あなたは知らなかったの? スーザンは二年ほど前に交通事故で亡くなったのよ」続けて、「ご両親から伝わっているとばかり思っていたわ。葬儀は家族だけの密葬だったので、事務所でお別れの会を開いたの。でもあなたの姿はなかったわね」

 「シェリル、これは悪い冗談ではないだろうね。スーとはきのうの朝までいっしょだったんだ。ところがいつもの朝のランニングから帰るとスーが姿を消していた。携帯もつながらず、それでそちらに電話したんだが」

 「ジム、もちろん冗談ではないわよ。あなたこそ夢でも見たんじゃないの」

 「どんな事故だったのだ?」

 「この事務所からスーのお宅に向かう片側一車線の道。途中に右に曲がる急カーブがあることはあなたもご存知よね」

 「ああ、知っている。左側に急カーブ注意のサインがあったはずだが」

 「そう、あのカーブをスーのSUVは曲がり切れなかったようね。私は翌朝に事故を知ったのだけど、サインのすぐ脇にある楓の大木に激突して、即死だったそうよ。警察では、あの近辺に時折出没する鹿かワイルド・ターキーを避けようと、ハンドルを左に切ったためだろうとしていたわ。瞬時のことだったようで、急ブレーキを踏んだ跡もなかったそうよ」

 事故があったとは信じられない塚堀は、

 「シェリル、両親はどうしている? 母親は高血圧気味だったはずだが」

 「スーは一人っ子だったから、お母さんには事故死はショックだったようね。軽い脳梗塞を起こしたとかでしばらく入院していたそうよ。それで歯科医のお父さんは診療所を閉めて、冬も暖かい南部に引越しをしたの。リハビリ療養の備わった老人ホームにご夫婦で入所するとおっしゃっていたわ」

 電話から伝わるシェリルの話はなにからなにまで塚堀には初耳のことであった。

 ひとつ思い出したわ、とシェリルが、

 「スーが事務所の壁に飾っていた陶製のマスク。あなたとニューオリンズにいっしょした時に買い求めたものだ、と大切にしていたあのマスクが助手席に置かれていたそうなの。あのような激突では、陶製のマスクはダッシュボードにぶつかって粉々になるはずが、無傷だったそうよ。不思議なこともあるものだ、と警察も首を傾げていたわ」

 「シェリル、その仮面が僕のアパートの壁にかかっているんだ」

 「エッ! そんな。だれが持ってきたの?」

 「金曜日の夕方にスーザンが持参して、ふたりでアパートの壁にかけたんだ」

 「実はね、一年ほど前のことだけど、職員のひとりが出先から帰る途中のルート75で、反対車線を走るスーのSUVを見たといってきたことがあったわ。あのハイウェーは分離帯が広いから見間違いだろうとそれ以上は問い質さなかったのだけど、その職員は、運転していた女性はスーザンに違いないといっていたわ。それにもうひとつ不思議なことがあるの。歯科医の診療所を兼ねていたあのスーのお宅ね。先日、所用であの近辺に出かけたのだけど、お宅は影も形もなく消えて牛が放し飼いの牧場になっていたわ。お宅があったと思われる場所には時代を経た大きな納屋が建っているのよ。ジム、どれも不可解なことばかりね。損傷が激しかったというお父さんの説明だったけど、だれもスーの遺体を目にしていないの。まるで犯罪映画に出てくるシーンね。FBIが協力者とその家族を隠す手にあるでしょう。でも、スーとFBIは結び付かないしネー」

 ふとシェリルが、「以前に、スーザンがどこかに行ってしまうかもしれない、とお伝えしたことがあったわね。あの予感が的中したのかしら?」

 近辺に所用の際には必ず立ち寄って欲しい、というシェリルのことばを最後に塚堀は受話器を置いた。


 スーザンがどこかに行ってしまう。シェリルのことばを反芻する塚堀であった。

 土曜日の夜は満月であった。青白い月光の下、裸体を横たえた女はいつになく激しく愛を求めてきた。交わりを終えたとたん、どこからか流れてきていた、バイオリンによる”G線上のアリア”が鳴り止んだ。このG線だけで奏でるバッハの曲を女も好いていた。

 塚堀が座る机の真向かいの壁にかかった大きな油絵。マンハッタンで手に入れたあの油絵だ。電話を終えた塚堀を、そこに描かれた亜麻色の髪をなびかせた仮面の女が見下ろしている。


 クリスマスまであと数日。南半球では真夏だ。その真夏の陽が降り注ぐアルゼンチンの首都ブエノスアイレスの空港にふたりの女が降り立った。初老の女と、歳が離れた妹とも思われるふたり連れだ。

 入国窓口で初老の女はウクライナのパスポートを、年下の亜麻色の髪を後で束ねた女はアイルランドのパスポートを提示した。ふたりの入国目的欄には観光と記載されていた。

 税関を出たふたりをすらりとした容姿の中年の女性が出迎えた。初老の女の両頬にキスをしたその女は亜麻色の髪の女に向かって、

 「スーザンですね。ナターリア・チャイコフスカヤです」と手を差し出した。

 「ナターシャ、ターニャからあなたのことはうかがっていたわ。楽しみにしていたのよ」と女は微笑みながら、中年の女性の手を握り返した。

 ナターシャが運転する大型のSUVは、空港を出ると南西方向に向かった。やがて車のフロントガラスには夏でも雪をいただいた高峰が連なるアンデスの山並みが広がり始めた。

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