第85話 たまには慌てることもある

 早朝6時ほど。

 仮の処置室となっている大部屋で僕は大きく息を吐いた。

 すべてのベッドには患者が横になっている。

 家族達も連れ添っているが、大半は寝ているか、眠そうに目を擦っているだけだった。

 日が昇ってしばらくして、ようやく500人の治療が終わっていた。

 ここまで一睡もしていない。

 一日くらい寝なくても死にはしないけど、体力がかなり奪われる。

 ほぼ休憩もしていないため、かなり疲弊している。


「あ、あのシオン様、そ、そろそろ少し、お休みになった方が……」


 ウィノナがおずおずと提案する。

 彼女もずっと起きたままだ。

 休んでいいとは言っているけど、僕が休まないと一切休憩しない。

 侍女だから、と本人は言っている。

 いつもならウィノナのことが気になり、休憩をしていると思う。

 けれど今は時間との戦いだ。

 彼女には悪いが休憩時間はできるだけ削りたい。

 少しずつ両手での治療もできるようになった。

 治療を始めて約17、8時間くらいだろうか。

 これからペースを上げるにしても、かなり厳しいな。

 そこまで考えるとバランスを崩してふらついてしまう。


「シ、シオン様! だ、大丈夫ですか!?」


 ウィノナが咄嗟に支えてくれた。 

 自分でも思っている以上に疲れているらしい。

 前世で徹夜で仕事をした時も、こんな感じだったな。


「あ、ありがとう、ウィノナ」

「い、いえ。と、とにかく少し休みましょうっ!

 シオン様が倒れてしまわれてはどうしようもないですっ!」


 今までで一番強い口調だった。

 何とかなるという考えが、彼女の一言で薄れる。

 焦りのせいで、まともな思考ができなくなっていたのかもしれない。


「……そうだね。ここの人達を治したら、少し寝よう」


 僕が言うと、ウィノナは安堵したように小さく息を漏らす。

 自分が休みたかったというよりは、本当に僕のことを心配しているように見えた。

 ウィノナのためにも休むべきだろう。

 とにかく現時点で待っている人達だけは治療して、それ以外の人達には少し待ってもらうことにした。

 部屋にいた十数人の患者さんを治療すると僕とウィノナは医師達に休憩する旨を伝えて、部屋を出た。

 第二収容施設の構造は入口から入り、正面にホールがあってそこから六つの廊下が伸びている。

 ホールには受付と関係者用の通用口があり、その奥には仮眠室や医療用具やらが置かれている倉庫がある。

 各廊下の途中には入院部屋と診察室があり、三階建てになっている。

 収容人数は200人。

 三階建ての割には多いが、それは大半は大部屋で、個室は手狭なためである。

 僕の指示で、第二収容施設には常に200人以上の患者が入院している。

 治療に関しては、僕の指示に従うようにというお達しがあるためか、基本的に無駄な時間をかけることも、お伺いをたてることもなく円滑に進んでいる。

 僕達は大部屋を出るとホールに向かった。

 ここから仮眠室へ向かう。

 僕達が休憩する時のために専用の部屋が用意されている。

 休むと決まったからか、どっと疲れを感じた。

 早く眠りたい。 

 そんな欲求に気づいた僕だったが、不意に気配を感じて玄関入口に視線を移した。


「おやぁ? 大丈夫ですか? 顔色が悪いですが。まさか徹夜をして治療をしていたんですかぁ?」


 ねちっこい口調。

 嫌味な言葉。

 フリッツだ。

 彼は背後にいつもの部下達を連れていた。


「あなたには関係のないことです」

「確かに、僕はただの護衛ですから? 関係ありませんねぇ。

 しかしほぼ平民たち相手であるというのに、そこまでするとは。

 はなはだ理解に苦しみますねぇ。

 とにかく困るんですよ、オーンスタイン卿。自宅へも帰らずこんな場所にいられると。

 僕達は護衛なんですから、居場所は教えて頂かないと」

「昨日、あなたは途中で帰りましたよね? 護衛というならば職務放棄では?」


 思わずこちらも皮肉めいたことを言ってしまった。 

 しかし言っていることは事実のはずだ。

 僕の返答にフリッツは僅かに眉を動かしたが、見下すような笑みは崩れなかった。


「おやおやあなたは僕達に帰れと言ったはずですよ。

 僕達はそれに従っただけ。護衛任務中は『あなたの命令に従うように』と言われていますので。

 その命に従ったまで。しかしそれは前日の話。

 翌日になった今日、また護衛に参ったというわけです」


 言われたから、という免罪符を盾にして、自分のやりたいようにやっているだけのように思えた。

 しかし僕も、確かに彼らに帰れと言った。

 釈然とはしないが、これ以上、追及する気にもなれなかった。


「……では今日も同じです。護衛は必要ありません。

 施設内で物々しい人達がいると患者さんや医師達が怯えますので」

「そうですか。

 いえね、僕達もあなたをお守りしたいんですが、あなたがそう言うならば仕方ないですね。

 では僕達はこれで失礼しますよ」


 これ幸いとばかりに、フリッツは仰々しく一礼をすると僕達に背を向けた。

 僕の護衛がそんなにいやなのか、それとも仕事自体が面倒くさいのか。

 どっちにしても彼等に対して好印象を抱ける気がしなかった。

 フリッツは僕に対する敬意なんて微塵もない様子で、外へ出て行った。

 別に敬意を払ってほしいわけじゃないけど、見下されていることは気に入らない。

 正直、いなくなって清々した。

 僕は負の感情を吐き出すようにため息を漏らす。

 疲れから苛立っているのかもしれない。

 こんな感情は表に出さないようにしないと。

 周りの人達に気を遣わせたらダメだ。

 笑顔で、余裕のある態度でいないといけない。

 僕は背筋を伸ばし、疲労を吹き飛ばしたように自分を思い込ませる。


「あ、あの、シオン様……大丈夫、ですか?」

「うん? ああ、大丈夫だよ。まだまだ元気だからね」


 相好を崩すと、ウィノナは困ったようにおろおろとしだした。

 あら? そういう意味じゃなかったのかな。

 僕も思わず苦笑を浮かべる。

 とにかく仮眠室へ移動しよう。

 休みたいという欲求が強くなって、段々頭が働かなくなってきている。

 すれ違う医師達や家族達と挨拶をしながら、僕達は仮眠室へ移動した。

 関係者入口を通り、廊下を進むと、左右に部屋があり、そこの一室が仮眠室だ。

 シオン様用というプレートが掲げられた部屋に入ると、簡素なベッドが目に入った。

 六畳くらいだろうか。

 思ったよりは広い、かな。

 とにかく、軽く身体を拭いて寝よう。

 振り向いてウィノナに挨拶をしようとしたら、彼女も部屋に入ってきていた。

 僕は首を傾げる。

 彼女は別の仮眠室で寝る予定だ。

 挨拶をするだけで、後は別れるものだと思っていた。

 まだ何かあるのだろうか。


「もう大丈夫だよ。ウィノナは仮眠室へ行って休んで」

「え? よ、よろしいのですか……?」


 窺うように上目遣いとするウィノナ。

 彼女は何やらもじもじとしている。

 どうしたんだろう。


「あ、あの……その……」


 声が小さい。

 何を言っているのかわからず、僕は思わず耳を寄せた。


「うん? 何?」

「そ、その……夜伽を……しなくても……よろしいのでしょうか……?」


 夜伽。

 病人の世話などの意味もあるが、この場合は恐らく違う。

 つまりあれである。

 男女の同衾(どうきん)的なあれである。

 あまりに予想外の言葉に、僕の頭は凍った。

 ウィノナが顔を赤らめている姿が余計に僕の理性を崩壊させる。

 まさかこんなことを言われるとは思わなかったのだ。


「い、いいいっ!? い、いや!? え? なんでそんなことを!?

 す、するわけないでしょ!? え? 普通はするの!?」


 意味がわからず、思いのままに疑問を投げかけてしまう。

 しかし普通はするのかどうかという質問も結構、無神経かもしれない。


「す、すすす、する場合も、な、なきにしもあらずと言いますか」

「なきにしもあらずなの!?」


 あるんだ。

 ご主人様と侍女のあれやこれやというのはあるのか。

 いやいや、落ち着け。

 深呼吸をしろ。

 すー、はー、すー、はー。

 あ、落ち着いた。

 思えば、僕は数十年間を童貞として過ごしてきたわけで。

 免疫がないため、こういう時にはすぐに動揺してしまう。

 しかしそれだけではない。

 また落ち着くことも早いのだ。

 なぜならそんなことは自分に起こるはずがないという思い込みにかけては、他の追随を許さない程だからだ。

 長い間、そうしていると諦めの境地に至るもの。

 いや違う。そういう設定じゃなかった。

 僕はあえてこの童貞を守ってきたのだ!

 そうしないと魔法が使えないと思ったからね!

 三十年間童貞、交際経験なしだったのはそういう意味だったんだよね!

 忘れてたね!


 閑話休題。

 とにかく落ち着いた僕は、冷静に現状を受け入れる。

 侍女という立場になると、どうやら主人の夜の世話もする場合もあるらしい。

 そういう考えは一切なかった、というか僕に起こるはずがないと無意識に思っていたらしい。

 そのため動揺はしたが、冷静になると大したことじゃない。

 別に彼女は僕に好意があるとか、そういうことがしたいとかじゃないわけで。

 ただ侍女として、そういう命を受けるかもしれないと思っていただけのことだろう。

 ウィノナの過去や経歴は知らないけど、明らかに動揺し、怯えている彼女のことだ。

 恐らく今回のようなことは初めてなんだろう。

 ほら、きちんと考えれば動揺することはないじゃないか。

 それが事実であれ、どうであれとりあえずは筋道は通っている。

 一先ず、無言のままではまずい。


「え、えと、そういうのはいいよ。うん。かなり疲れてるし。

 それに、そういうのはほら、好きな人とするべきじゃないかな」

「…………え?」


 え、ってあなた。

 なんで、何言ってるのみたいな顔してるの、この娘。

 僕としては良いことを言ったつもりなんだけど。

 若干引いたような表情をされてしまったような気がする。

 変なことを言ったのだろうか。

 しかし吐いた言葉は飲みこめない。

 僕はしたり顔をし続けてしまう。

 踏み出したからにはもう後戻りはできないのだ。

 僕はそのまま行くことにした。


「と、とにかくそういうことだから!

 ウィノナはそういうことはしなくていいから!

 今日は早く寝ること! いいね!?」

「で、では、せめて……お、お身体を洗わせていただけませんか?」

「お身体も自分で洗いますので結構です! お互いに早く休んで、体力を回復しましょう。

 以上! おやすみなさい!」


 僕はまだ何か言おうとしているウィノナを無理やり追い出して、扉を閉めた。

 なぜか息が荒くなり、動悸が激しくなっている。

 一体なんだったんだ。

 こんな展開、今まで経験したことがなかった。

 ただの言葉の応酬。

 でもそれだけでも動揺が強い。

 つまり童貞には刺激が強すぎる、というやつだ。

 女性がらみだと、たまに姉さんがぐいぐい来ることがある程度だったからなぁ。

 他には色気のある出来事はなかった……こともないけど、ほとんどなかったし。 

 免疫がない分、だめだな、こういうのは。


 ……もしも了承していたらどうなっていたんだろうか。

 本当に夜のお世話をして貰っていたのだろうか。

 それはそれでなんというかかなり淫らで、思わず頭を掻き毟りたくなるような衝動に駆られるけど、なんか違うな。

 義務的な関係で、そんなことをしても嬉しくもないだろう。

 ウィノナは命令だからあんなことを言ったのだろうか。

 もしそうなら悲しいことだと思った。

 侍女とはそういう仕事なのだろうか。

 もやもやする気持ちを整理できず、僕は強引に思考を切り替える。

 とにかく寝ないと。

 治療はまだ続いている。

 患者が待っているのだ。

 僕は扉の外の気配を探り、誰もいないことがわかると、湯桶を借りるために外に出た。

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