第72話 失って初めて気づくこともある
すべての仕事を終え、看護師達に見送られるなら、迎えに来てくれた父さんと共に、第二の自宅と化したグラストさんの家に戻ると母さんが出迎えてくれた。
「おかえりなさい、シオンちゃん。どうだった?」
「ただいま、母さん。うん、みんな治したよ」
「そう、よかったわ……本当に。おつかれさま。
シオンちゃんは、とてもいいことをしたの。胸を張っていいのよ」
母さんがやんわりと僕を抱きしめる。
その所作から慈愛が伝わってくる。
父さんも母さんも、あの日から変わらない。
僕と血が繋がっていないと話した、あの日。
僕達は今まで通りの関係を続けられている。
元々、僕にとっては血の繋がりは大して大きな意味を持たないし。
「姉さんは、上?」
「ええ。部屋にいるわよ」
「毎日、シオンはいつ帰るのかと騒いで、大変だったんだぞ。
早く顔を見せに行ってやってくれ」
父さんが苦笑しながら言う。
この一週間、治療で忙しくて家に帰れなかったし。
出かける時も「シオン、どこに行くの?」って寂しい顔をされたし。
姉さんは病み上がりだから、初日には詳しい説明をしてなかった。
ただ、僕がいない間に父さんと母さんがきちんと説明はしてくれたらしいことを、帰宅途中で父さんから聞いている。
僕は母さんから離れると二階へと上がった。
姉さんの部屋。
何度も訪れた部屋だ。
いつも、扉を開くと、そこにはベッドで寝ている姉さんの姿があり、無言で天井を見上げていた。
声をかけても、触れても反応はなかった。
今でもその光景が瞼に焼き付いている。
あの時の記憶を振り払うように、僕は扉を開いた。
「あ、シオン。おか、えり、なさい」
ベッドに寝ている姉さんがパアッ笑顔を咲かせた。
彼女は僕を見つけると、一気に相好を崩し、嬉しそうに頬を紅潮させた。
僕は内心で安堵する。
姉さんはもう回復したのだとわかっていても、また戻ってしまうのではないか。
そう思ってしまった。
「ただいま。姉さん」
僕は笑顔を返し、ベッドの横にある椅子に座った。
「待って、た、んだか、ら……シオン、ずっと、いない、から」
途切れ途切れに話す姉の言葉を、僕は穏やかな心で聞いた。
姉さんは寝たきりだったためリハビリが必要だった。
しかしアルフォンス医師の診断では、通常の昏睡状態からの奇跡的な回復時に見られる、身体機能の後遺症は比較的少ないとのことだった。
恐らくは日中に無意識の内に目を開けていたこと、食事はゆっくりながらも自分で嚥下できていたことから、完全な意識喪失状態ではなかったのではないかということだった。
そのためか覚醒し、すぐに声が出せたと見られる。
しかし長い間、声を出してなかったので掠れていたのだろう。
ただ自分での寝返りを打ったりすることはなかったので、筋肉や関節の拘縮(こうしゅく)が起きるため、常に家族や看護師が患者の手足を動かしていた。
通常、一年の昏睡状態後――個人差はあるが――数年のリハビリが必要になる。
しかし怠惰病は特殊だったようで回復はかなり早い。
怠惰病の原因は魔力の喪失だ。
ただ魔力が喪失した原因は判然としない。
僕は恐らく、赫夜の影響によるものだと考えている。
赫夜は僕に過剰な魔力を供給し、魔力の増幅、循環を促した。
それに耐えきれなかった魔力を持つ人間が、大量の魔力をもてあまし、正常な状態に戻すために無意識の内に魔力を過剰に消費してしまった。
それが恐らく怠惰病患者の前兆である『妙に好調な状態』なのではないか。
その反応が著しくなり体内の魔力を費やし、そして怠惰状態になった。
通常は休めば魔力を回復できるが、身体がすでに赫夜の影響を受けた状態のままのため、魔力を回復しても即座に魔力を消費してしまう。
そのため怠惰な状態は維持されてしまい、自力では魔力を戻せずに回復しない。
それが怠惰病だと、僕は考えている。
赫夜前に怠惰病に罹った人達は魔力量が少なかった傾向にあったため、恐らくは赫夜の時が来る前に、怠惰病に罹ってしまったのだろう。
ただ姉さんに関しては少し特殊だ。
他の患者は快調ではあったが、身体能力が向上したりはしていない。
姉さんの場合、異常なほどに身体能力が向上され、大人顔負けの膂力を発揮していた。
あれは怠惰病の前兆だと思う。
姉さんの場合、僕との魔法の訓練で多少は魔力操作ができたし、魔力量が増えていた。
そのため他の患者達よりも顕著に魔力消費の反応が身体に出たのだろうと思う。
もしそうなら――今はその先のことは置いておくとしよう。
とにかく、この世界では医療機器は少ないし、医学レベルも高くはないが、リハビリに関しての考えは存在するようだった。
そのおかげか、回復から一週間で少しは話せる。
しかし自分で身体を動かすことはまだできない。
意識があるためずっと誰かが付き添うようなことはなくなったが、それでも頻繁に様子を見に行くようにはなっている。
姉さんは嬉しそうにしているが、話すのが辛そうではある。
できるだけ僕が話す方がいいだろう。
「父さん達から話は聞いた?」
「う、ん……あ、たしが、こんな、風になって、から、一年半も、経ってた、のね」
姉さんの声、顔を見ると心が温かくなる。
それと同時に心臓が締め付けられるような感覚が浮かび上がる。
思わず、抱きしめたくなるような衝動も。
ああ、本当に姉さんが戻ってきた。
そう思うと、涙が出そうになり、それが恥ずかしくて堪える。
僕は自分の心の内を誤魔化すように、話を続ける。
「うん。あの時、姉さんが突然倒れてから一年半。色々あったよ」
本当に色々あった。
本当に。
それでも僕達は乗り越えて、今ここにいる。
終わりない不幸だと思っていた。
不条理で理不尽だと思った。
けれど諦めずに僕達は進み続け、そして乗り越えた。
その達成感と共に幸福感を抱き、僕の周りにあるそのすべてが当たり前ではなく、そして大切でかけがえのないものなのだと実感している。
「全部、聞いた、わ。シオンが、頑張って、くれ、た、ことも。
危険な、魔物が、襲って、きた、ことも」
全部と聞き、僕は一瞬だけ、僕の身の上のことも含まれているのかと思った。
しかしふと思い出す。
父さんと母さんとの話し合いで『姉さんには僕がルグレであることや、僕と血が繋がっていないことはまだ話さない』と決まったのだ。
姉さんはまだ回復して間もないし、一年半に多くのことがありすぎた。
いきなりすべてを話しては混乱するだろうし、せめて身体が回復してから話しても遅くはないだろうということだった。
理由はそれだけではないけれど。
「ありがと、シオン。ずっと頑張って、くれた、のよね」
「大したことじゃないよ。僕がそうしたかっただけだから。
ほら、僕は自分がやるって決めたことは勝手にやるじゃない?
魔法研究もそうだし。だから、苦じゃなかったよ」
「…………シオン」
姉さんが瞳を潤ませてこちらを見上げる。
子供のような、少女のようなその視線を僕は逃げずに受け止めた。
しばらく見つめ合ってしまう。
無言の空間は、姉さんの声によって打ち砕かれた。
「シオン。手、握って」
「うん」
姉さんの手を握ると、温かかった。
体温は戻っている。
魔力も。
感触が僕に安心を与えてくれる。
そしてそれは姉さんも同じだったようだ。
笑顔だった姉さんは不意に視線を落とした。
「……あ、たし、ちょっと、怖かった。
記憶は、ほとんど、ない、けど、何となく、ある。
一人で、暗闇の中、閉じ込められて、ずっと何もできなくて……怖かった、記憶。
でも、ずっと、シオンの、声、が、母さん、父さんの、声が、聞こえてた。
だから、耐え、られた、記憶……夢、だったの、かも、しれない、けど」
夢に関して現代でも解明はされていない。
一説では記憶を整理するためなどと言われているが、それも確実ではなかったと思う。
姉さんが見ていたのは、五感で得た情報を脳が独自に解釈したものなのだろうか。
そんな夢、想像するだけでもゾッとする。
姉さんは弱い力でほんの少し、僕の手を握り返した。
その仕草だけでマリーの僕に対する、縋るような心情がわかった。
そうなって当然で、そしてそれは少しだけ危うさがあった。
けれど僕はその思いを拒絶するつもりはない。
ただ大切な存在を慈しみ、もう壊れないようにと願うだけ。
僕は両手で姉さんの手を握った。
「あったかい……」
姉さんは眠そうに何度も瞼を閉じかけていた。
少し、会話をするだけでかなり疲労するらしい。
「無理しないで、寝ていいから」
「で、でも」
不安そうに声を上げる姉さん。
「僕はここにいるよ。姉さんが起きる時まで」
僕がそう言うと姉さんは安心したように小さく笑うと瞼を閉じる。
そして、すぐに寝息が聞こえ始めた。
僕は姉さんの髪を軽く手で梳いた。
思わず泣いた。
手が震えてしまうほどに僕は安堵している。
こんな風になってしまうから、少しだけ時間を置いたのに。
この一週間、治療に専念していたのに、それでもダメだったらしい。
姉さんの前で泣いたりすると困らせるから我慢していたけど。
やっぱり僕にはできなかったようだ。
第二の赫夜の日から十日。
治療法が判明して一週間。
もうすぐ、王都から招へいの命が下るだろう。
そうなったら僕は姉さんを置いて、この地を離れなければならない。
その日は必ず来る。
そして拒否すれば多くの人間を見捨てることになるだろう。
なぜなら世界中で怠惰病が発症し、治療できるのは僕だけなのだから。
だったらこの僅かな時間を噛みしめよう。
この愛しくも儚げな姉との時間を。
僕は姉さんの頭を撫でる。
彼女は姉。
しかし血は繋がっていない。
その事実を知った時、僕は当惑し、意識を逸らした。
初めて考えたわけじゃない。
僕はあえて考えないようにしていた。
家族だから、大切な存在だから、簡単に考えられない。
だから僕は姉さんのことを、家族として好きなのか、女性として好きなのかという疑問を真剣に考えたことはなかった。
家族として大事なのは間違いない。
いままではそう思い込んでいた。
けれどもしかしたら一生、姉さんは目を覚まさないかもしれないと思った時、疑問が顔を出した。
マリーを本当に姉として好きなのかと。
血の繋がりがないと知り、しがらみはなくなってしまった。
そのせいで余計に考えてしまう。
どくんと心臓が高鳴る。
姉さんの顔を見ると、どうしても鼓動が早くなってしまう。
その気持ちの正体を僕はまだわからなかった。
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