第16話 ゴブリン襲来2

 どれくらい経ったのか。

 恐らく一時間程度はそうしていた。

 ふと雨音に何かの音が混ざっているように感じた。

 その違和感はちょっとずつ大きくなり、近づいてきている。

 音。これは足音?

 途中で、何か甲高い音が混ざっている。

 ガラスを引っ掻いた時のような不快な音が。

 徐々に迫っていた。

 マリーと母さんの震えが大きくなる。

 みんなも気づいているようだ。

 父さん達ではない。

 合図がなかった。

 そして音は玄関の方に移動して、そこから動かなかった。

 何をしている? 何がそこにいる?

 連想はしている。

 だけどそれが現実だとは思いたくなかった。

 数分の空白。

 もしかしてどこかへ立ち去ったのかと思った時、


 ガンガンガンガンガン!


 扉が何かに叩かれていた。

 小さな悲鳴が辺りから聞こえる。

 みんなが震えて、耳を塞いでうずくまるなか、僕は耳を澄ませた。

 数分間音は聞こえていたが、扉は破壊されなかったようだった。

 音は鳴りやむ。

 しかし足音がまた移動を始めた。

 家の脇に移動したそれは、再び足を止めると、気持ちの悪い鳴き声と共にけたたましい音を鳴らす。

 パリンという音。

 それは間違いなく窓をたたき割った音だった。

 再び、ガンガンという音が響き渡る。

 途中で軋む音が混ざり、やがてもっとも聞きたくない音が響いた。

 明らかに木材が破壊されると音と共に、何かが一階に入ってきた。

 間違いない。

 もう確実に、これは魔物。

 ゴブリンだ。 


「ギィイイイイイギャアアッ!」


 金切声。

 それは一階から二階に届き、僕達の恐怖を促した。

 みんな泣きながら震えて、縮こまっている。

 音を鳴らさず、じっとして、そうやって危機が去るのを待つことしかできない。

 しばらく一階で暴れるような物音が聞こえていた。

 そして変化が訪れてしまう。

 トン。

 トントン。

 階段を上る音が響き渡った。

 少しずつ、確実に何かの気配は近づいている。

 それが階段を上り切り、廊下を進み、やがて立ち止まった。


「ギイィ、ギギギィッ」


 近い。

 すぐそこにいる。

 恐怖が身体を縛る。 

 震えが止まらず、僕はただ扉を見つめる。

 マリーは僕に縋る。

 母さんは僕を守ろうと抱きしめる。

 ローズはマロンを抱きしめながらも泣いていた。

 マロンも同じように恐ろしさから涙を流す。

 そんな状況は長くは続かず。

 一枚の薄い扉は激しく揺れた。 


「ひっ……!」


 誰かの悲鳴が上がる。

 それを責めることはできない。

 これほどの状況では仕方がなかった。

 だが、その声が魔物には聞こえてしまった。

 扉を叩く力は一瞬にして強くなる。

 叩かれる度に扉は歪む。

 すぐに破壊されることは間違いなかった。

 でも僕達には対処しようがない。

 扉と、その前にある机が何とか耐えてくれることを祈るだけ。

 だが。

 その願いは脆くも崩れ去る。

 破壊音と共に、扉の上部が壊れ、何かの手が部屋に伸びていた。

 緑色の何か。

 蠢くそれには鋭い爪が生えており、明らかに何かを殺すためのものだった。

 隙間から顔が覗く。

 醜悪な。恐怖を体現したような顔。

 形は歪で、不快感を催す。

 赤黒い目がぎょろっとこちらを覗き、そして口腔が歪んだ。

 笑ったのだ。


「ギイイギィギギッギギッギッ!」


 嬉しそうに叫びながら、ゴブリンは扉を狂ったように殴った。


「や、やめてえええぇっ!」


 マロンが叫ぶ。慟哭だった。

 泣きながら、恐怖に怯えながらの叫びは辺りに響き渡ったが、助けは来ない。

 扉の上部はほぼ破壊されてしまった。

 ゴブリンが。

 入ってきた。

 猫背で腹は気持ち悪く膨らんでいる。

 ゴブリンというよりは日本の餓鬼のようだった。

 手には何も握られていない代わりに、太い爪がある。

 口腔には牙が伸びており、噛まれればひとたまりもないことがわかった。

 魔物が目の前にいる。

 僕が研究したいと思っていた魔物が。

 そう思っていたはずなのに。

 今は、そんな考えが微塵もなかった。 

 ただただ怖かった。

 こんな相手を研究したいなんて思っていた過去の自分を蔑む。

 こんな恐ろしい存在を軽視していた。

 魔物なんて大したことはない。

 そんな風に思っていたはずだ。

 ゴブリンならなおのこと。

 だって雑魚として扱われている魔物なのだ。

 弱いに決まっている。

 そう思っていたのに、目の前にいるその雑魚は。

 絶望そのものだった。

 絶対に抗えない。

 僕達は殺されてしまう。

 それを全員が理解していた。 


「こ、来ないでぇ、来ないでよぉっ!」

「や、や、やめ、こ、殺さないで……っ!」


 マロンとローズは泣きながら叫ぶ。

 しかしゴブリンにそんな言葉が通じることはない。

 いや、通じていた。

 だから。

 ゴブリンは嬉しそうに笑ったのだ。

 命乞いをする獲物を見て、圧倒的な強者であると自覚し、優越感に浸ったのだ。

 それは、つまり僕達を決して逃がさないということ。

 もう手段はない。

 殺されるしかない。

 そう思った時、マリーが突如として立ち上がった。

 鞘から剣を抜き、構えた。

 彼女は僕達を守るように、背中を向けていた。

 ゴブリンと対峙する、剣士。

 しかしその肩は異常なほどに震えていた。


「あ、あたしが、あ、相手に、な、なるわ」


 ああ、無理だ。

 絶対に勝てない。

 殺されてしまう。 

 その勇気はとても尊く素晴らしいものだ。

 でも、現実は非情なのだ。

 この魔物を相手にしては、何もできはしない。

 不意に、何の脈絡もなく。

 ゴブリンが手を振るとマリーの剣が宙を舞い、壁に刺さった。


「え?」


 マリーが素っ頓狂な声をあげる。

 ゴブリンが軽く腕を振るっただけで、武器を手放してしまったのだ。

 相手は魔物。知性はないだろうが、戦闘能力は圧倒的にあちらが上だ。

 背丈はマリーよりも多少高い程度。

 小柄だ。

 でもその身体には圧倒的な力が秘められている。

 ゴブリンが腕を掲げる。


「あ、あ……あ」


 マリーは恐怖から動けない。

 僕は反射的にマリーに向かい駆けだそうとした。

 だが、その前に、僕の視界を誰かが覆った。

 見えない。

 何かの音が響いた。

 誰かが倒れている。


 二人。


 姉さんと……母さん。 


 血が、出ている。

 溢れている。

 母さんの背中には深い裂傷が走っていた。 

 母さんがマリーをかばったのだ。

 マリーは母さんの下敷きになっているが無事のようだった。

 でも動揺から目を泳がせて、母さんを見ていた。

 母さんは半身を起こした。


「け、怪我は……ない……?」

「あ、あたしは、だ、大丈夫。か、母さんが」

「い、いいの。あなたが、無事なら、そ、それで」


 かなりの重症であることは間違いなかった。

 出血の量が多い。

 身体中の熱が奪われていく気がした。

 母さんが死ぬかもしれない。

 そう思うと、怖くて怖くてしょうがなかった。

 ゴブリンが母さん達の方へ歩く。

 悠然と。まるでいたぶるように。

 状況を愉しんでいるかのように。

 母さんはマリーを抱きしめて、庇うようにゴブリンに背を向けた。 

 ダメだ。ダメだダメだダメだ!

 二人とも殺されてしまう。 

 家族が大事な人達が殺されてしまう。

 絶対に嫌だ!

 そんなの絶対に受け入れられない!

 僕は衝動的に床を蹴る。

 誰も僕の行動は予測できなかっただろう。

 だから誰も声を出すことさえできなかった。

 そしてそれはゴブリンも同じだったようだ。

 ただの子供。

 それが突然、襲いかかってくるなんて考えもしなかったようだ。

 だから。

 僕は簡単にゴブリンに触れることができた。


 目があった。

 赤い目が僕を見ていた。

 なんておぞましい顔をしているのか。 

 そしてゴブリンは僕を見るとニタァと笑う。

 当然だ。

 相手は子供。武器もない。何もない。何もできない無力な子供だ。

 それが腕を掴んだからといって何になるのか。

 僕もわかっていた。

 僕は何もできない。

 でも何もしないままではいられなかった。

 対策はない。何もない。


 なかった――はずだった。


 ゴブリンの身体に淡い光が宿っていることに気づくまでは。

 近くで目を凝らして初めてその事実に気づいた。

 魔力の放出。

 急激に、僕の頭は冷静になる。

 ふと思ったのだ。

 今までのことをすべて思い出した。

 なにがきっかけなのか自分でもわからない。

 でも確かに、すべては繋がっていた。

 僕が今まで培ったそのすべてが。

 そして僕は瞬時に結論を出す。

 魔力の性質。

 魔力の反応。

 そこから導き出される答え。

 僕は反射的に帯魔状態になり、集魔を行う。

 ゴブリンに触れている右手に魔力が集まった。

 ゴブリンが僕に向かって爪を伸ばす。

 魔力が一気に高まる。

 ゴブリンの爪が瞳に触れそうになる。

 瞬間。


「ギャアアアアアアアアアアッ!!」


 ゴブリンが叫びだした。

 焼け焦げるような悪臭が部屋に充満する。

 ゴブリンの腕は蒸気を発しながら、焼け焦げていく。

 火傷が侵攻し、腕は抉れていく。

 僕の手が触れている場所から、まるでウイルスが侵食するかのように、ゴブリンの身体が黒く変色していった。

 火は存在しない。だが火傷のような現象が起こりながら、ゴブリンの腕は削れて、やがて床に落ちた。

 あまりの激痛からか、ゴブリンは床をのた打ち回る。

 だが生きている。

 殺さなくては。

 でなければみんなが殺される。

 僕はすぐにゴブリンの頭に右手を当てて、再び魔力を放出した。 

 頭部から蒸気が上がり、臭気と共に、ゴブリンは悲鳴を上げる。

 しかしそれも長くは続かなかった。

 十秒。

 それだけの時間で、ゴブリンは絶命し、動かなくなった。


「はっ、はぁ、はぁ……」


 僕は必死だった。

 だから自分がしたことを認識する暇もなかった。

 魔力を持つ者は魔力に反応する。

 魔力に触れると熱を感じ、感触を得る。

 それが弱い魔力であれば温かい程度。

 では練りに練った強く魔力ではどうか。

 僕はそこに賭けた。

 一年ほどの魔法の研究と、魔力鍛錬。

 それにより僕の一ヶ所に集まる放出魔力はかなりのものになっていたらしい。

 あくまで仮定。半ば実験的。

 でも成功はした。

 僕の魔力で、ゴブリンは死んだのだ。

 ゴブリンが魔力を持っていなければ勝てなかった。

 魔力を与えても、体内魔力がなければ反応しないのだから。 

 僕は荒い息をそのままに死体から後ずさる。

 気持ち悪い。

 吐きそうだ。

 ニオイと、自分がしでかしたことに。

 仕方がなかった。 

 でも人型の生物を殺したという事実に、僕は激しく嫌悪した。

 マロンとローズから受ける奇異の視線。

 マリーは驚いたように僕を見ていた。


「お、お母様!?」


 マリーを庇うように抱いていた母さんは、地面に倒れてしまう。

 マリーは泣きながら母さんを揺さぶった。


「だ、だめだ、動かしたらいけないっ!」


 僕は急いでマリーの近くに移動した。 

 マリーはかなり混乱している。

 でも今は、母さんから引きはがさなくては。

 しかしそれも仕方ないことだ。

 実の親が死にかけている状態で冷静になれるはずがない。

 僕は、どうして冷静なんだろうか。

 いや、怖い。怖いけど、大人の自分がささやくのだ。

 冷静にならないと大事なものを失ってしまう。

 だからゴブリンを倒せた。

 今も冷静でいられる。

 落ち着かないと、誰かが死んでしまうと思ったから。

 暴れるマリーを羽交い絞めにしていた僕だったけど、ローズが慌てて手伝ってくれた。


「わ、私が」

「お、お願い」

「お、お母様! お母様ぁっ! 離して、離してよっ!」


 マリーを引きはがずローズ。

 彼女は比較的冷静になっているようだった。

 マロンは呆然としたまま動向を見守っている。

 僕は母さんの顔色を確認する。血色が悪い。明らかに出血が多すぎる。

 脈拍は……まだ大丈夫。でも安全なわけじゃない。

 背中には裂傷が走っている。

 まだ出血している。止血しないと。

 あまり動かさない方がいいけど、床で治療すると体調が悪化する。

 せめてベッドに移動させたい。

 しかしマリーは半狂乱。

 ローズはマリーを羽交い絞めしている。

 僕は七歳で小柄。

 マロンは呆然としている。

 どちらにしても子供だけでは無理だろう。

 大人一人を運ぶことはかなり大変だ。

 他にゴブリンはいないはず。物音はしない。


「誰か! こっちにきて手伝って!」


 叫ぶと、他の部屋から誰かが出てきた。

 女性や老人達が部屋の様子を見て驚き、ゴブリンが死んでいるとわかると、駆け寄ってきた。


「い、一体、何が?」

「今は母さんをどうにかしないと! ベッドに運んで!」 


 大人の女性達が協力して母さんをベッドに運んでくれた。

 あんなに元気で優しかった母さんが、今はまったく動かない。

 呼吸はしている。大丈夫、きっと助かる。

 マリーも少しずつ落ち着いてきたのか、泣きながらも暴れることはなくなっていた。


「誰か医学や薬学に詳しい人はいますか!?」


 誰もが顔を見合わせるだけだった。

 小さな村だ。そんな知識のある人間はいないだろう。

 どうする。このままだと危険なのは間違いない。

 誰もできないなら、僕がするしかない。

 落ち着け、冷静にならないと母さんが死んでしまう。

 何をすべきか、きちんと考えれば、きっと大丈夫だ。


「じゃあ裁縫が得意な人、いますか!?」


 何人かが手を上げてくれた。

 その中で一番腕がいいと言われる人を選ぶと、ベッドの脇に移動してもらう。

 若い女性。多分、十五、六程度。

 普通の女の子で髪は三つ編みにしていて、そばかすがあるのが特徴的だった。


「あ、あの、な、何をするんですか?」

「ちょっと待ってて。他の人、母さんの寝室に裁縫道具があるからとってきて下さい。

 それと台所にお酒があるから、濃度が高い奴を持ってきてほしいです。

 あとは井戸から水を汲んで、湯を沸かして。蝋燭を用意して火をつけてください。

 清潔な布をできるだけ持ってきてください! それぞれ分担して用意してください!」


 僕が言うと、理由はわからないだろうが、急いで行動を始める。


「残った人は……その、ゴブリンの死体を廊下に出して欲しいです。

 嫌だろうけど……お願いします。

 終わったら廊下に出ていて。何かあったら呼びますから」


 みんな僕の指示通りに動いてくれた。

 誰も指揮をとらないから、余計に動きやすかったんだろう。

 死体の移動も思いの外、円滑に進んだ。

 慣れてるのかな……。

 部屋にはマリーとローズ、僕と三つ編みの女の子だけが残る。

 僕はすぐにマリーの近くに移動し、話しかける。


「姉さん、今から母さんの治療をする。だから落ちついて。

 そうじゃないと母さんが助からないかもしれない」

「た、助からない、って、い、嫌っ、し、死んじゃうなんて」

「だから落ち着くんだ。姉さんが暴れると母さんが危なくなる。わかった?」


 僕はマリーの手を握り、じっと目を見つめる。

 それが彼女を少しは冷静にさせたらしい。

 マリーは何度も頷いた。


「よし。それじゃ、そこで見ていてね。それと短剣か何かある?」

「え、ええ、そこに」


 棚にあるようだ。

 手のひらサイズのナイフがそこに入っていた。

 はさみなんて便利なものはない。

 僕はベッドに戻り、三つ編みの女の子に話しかけながら、母さんの様子を確かめる。


「名前を聞いてもいいかな?」

「リ、リアです」

「敬語は良いよ。年下だし。普通に話して。僕はシオンっていうんだ」

「え、うん、わ、わかった。シオン、くん」


 緊張しているようだ。この状態はちょっとまずいな。

 彼女の役割はかなり重要だ。

 僕は母さんの服をナイフで寸断し、背中の傷を露出させる。

 どくとくと血が溢れていた。


「ひ、ひどい傷……」

「……でも思ったよりは傷は深くないみたいだ。肩から背中かけて傷が伸びている。

 ゴブリンの爪に毒があったりはする?」

「な、ないと思う。聞いたことがないもん」

「よかった。毒に関してはどうしようもないし」


 だけど放置していたら危険なのは間違いない。

 この世界には病院なんてないのだ。

 ちょっとした怪我でも命取りになる。

 毒はなくとも何かしらの感染病になる可能性だってある。

 昔の人は風邪で死亡したことも少なくない、と聞く。

 比較的、充実した生活ができているので、それはないとは思うが。

 油断はできない。


「も、持ってきましたよ! シオン坊ちゃん!」


 村の人達が僕が言ったものを全部用意してくれた。

 もう一人、器用そうな女性だけ残るように言って、他の人達には外に出て貰った。

 一応、他のゴブリンがいるかもしれないので、廊下での見張り。

 もし現れたら、すぐに部屋に戻るように指示した。


「じゃあ、始めよう」

「あ、あの、何をするんです?」

「縫合だよ。傷を縫うの」

「は、はい!? ど、どうしてそんなことを?」


 参ったな。やっぱり、縫合術自体がないのか、浸透していないらしい。

 外科手術とか、当時はかなり批判を浴びたり、迫害を受けたりとかしたらしいし。

 まあでも、身体を傷つけるという印象は薄いだろうし、きっと大丈夫。

 メスを入れたりすれば、さすがに問題になるだろうけど。


「傷口を縫合しないと出血が止まらないし、傷が開いたままで危険だからだよ。

 だから縫って、疑似的に傷がない状態にする。

 そうしたら傷の治りも早いし、出血も抑えられる。

 感染を防ぎやすいし……と、とにかく僕の指示通りにして、いいね?」


 なぜそんなことを知っているの、という視線を受けて、僕は慌てて言い切った。

 自分がしていることの重大さに気づきかけていたが、今はそんな場合ではない。 

 大事なのは母さんを助けること。それだけだ。


「よ、よくわかりませんけど……そ、その、でも奥様の身体を傷つけるわけには」

「傷つけて救うか、傷つけないで見捨てるか、どっちがいい?」


 僕は最低なことを言っている。

 でも必死だった。

 こうしている間も、母さんの状況は悪化している。

 それに僕では上手く縫えるかわからない。

 だから彼女に頼んでいるのだ。

 僕の言葉に、リアは迷っていたが、緩慢に頷いた。


「わ、わかりました。やります」

「何かあったら、全部、僕の責任だから。じゃあ、まずは――」


 僕は指示を始めた。

 応急処置的なことだから、そんなに難しいことじゃない。

 まず清潔な布で血をぬぐって、アルコールで消毒し、両手をきちんと洗って、針を火で炙って、傷口を縫う。これだけだ。

 しかし、初めてのことだし、相手は領主の奥さん。

 リアからすればかなり緊張しただろう。

 それでもここまで抵抗なく、やってくれたのはありがたかった。

 ただの縫合だ。それほど難しくなく、十数分で完了した。

 傷口を縫うと出血は止まった。

 かなり綺麗な縫い目だ。

 言うだけあって、裁縫技術は大したものらしい。

 見た目とは違い、度胸もあるようだった。

 本当に助かった。

 包帯を巻くと、母さんを上向きに寝かせた。


「ありがとう。助かったよ」

「う、ううん。でも、これで奥様は助かるの?」


「安静にしていれば、多分。出血量は多いけど、死に至るほどじゃないと思う」

 輸血できればいいんだけど、そんなものはない。

 注射器を作るなんて技術はこの世界にはないだろうし、それだけの腕ある人間がいても、まず作成に時間も費用もかかるだろう。

 そんなものができるまで待つ時間はない。

 母さんの脈拍と顔色を見ると、一先ずは安定している。


「シ、シオン。お母様は?」

「もう大丈夫だよ」

「ほ、本当?」

「うん。しばらくは様子を見ないとだけど、大丈夫。治るよ」

「う、ううっ、ああ、うわああん! しおんぅっ……お母様がぁ、お母様がぁ……っ」


 マリーはくしゃっと顔を歪ませて、僕に抱き着いてきた。

 僕は何度も大丈夫大丈夫と背中をさすってあげる。

 彼女の気持ちはわかる。

 だって僕も同じ気持ちだったから。

 気づけば、僕も泣いていた。

 ずっと我慢していた感情があふれ出る。

 怖かった。とても。

 怖くてしょうがなくて、そして安堵して、力が抜けた。

 すべてが終わったのだと実感したのは、それから数十分後。

 父さん達が帰ってきた時だった。

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