第2話 父さんの記憶

 父さんの部屋は、白と黒のみが存在するモノクロの世界だった。母さんの死で時が止まってしまったような、そんな錯覚を覚えて、思わず入り口で立ち止まってしまう。

 それでも少しして、動き出す。ベッドの上の、父さんに向かって。


 静かに眠る父さんは、人ではなく人形のように見えた。ただ安らかに、眠っていた。ベッドすら、白と黒で統一されていた。

 唯一白黒以外の色を持つのは墓前に置かれた母さんの写真と、その側に供えられた母さんの好きな向日葵だけ。写真の中で微笑む母さんが眩しかった。

 幼い頃は、休日になると必ず遊んでくれる、いい父親だった。公園で走り回って転び泣きじゃくるボクを宥めておぶって帰るような、優しい人だ。

 関係が変わったのは、いや変えたのは、中学生の夏だった。

 きっかけは、弟との些細な口喧嘩だった。


「……ねぇ父さん。貴方はボクを、どう思っていたの?見せてほしいな---」


 父さんの胸へと突き立てた鍵がズプリと音を立てて肉へ食い込んだ。ボクはそれを右へと回した。

 白い光が溢れ、ボクを優しく包み込んだ。


 子供の泣く声がする。

 あぁ、これはきっとーーー。


 ※※※


 怪我した足を掴んで、小さなボクがワンワン泣いている。

 小さな自転車が転がっていて、近くで父さんがあわあわしているのが見えた。情けない姿だ。

 自転車の練習を行うため、近くの自転車を借りられる公園まで来て、そして当たり前のように転んだ。で、泣いた。それだけだ。

 怪我をした膝が痛くて、情けなくて、ボクは泣いている。もう何年も前なのに、鮮明に覚えている。

 父さんは泣いているボクを必死に宥めるけど、ボクは泣き止んでくれない。


(どうしよう。きょうちゃん泣き止まないなぁ)


 父さんの声が、頭に響く。なるほど、こういう風に、回した対象の声が聞こえるのか。


「きょうちゃん、きょうちゃん。大丈夫だよ〜。痛いの、すぐにどっか行っちゃうから、ね?」

「もうやだ!れんしゅうしたくない!かえりたい!かえりたい!」


(今日はもう、練習してくれそうにないなぁ……。おんぶして帰ったら、ご機嫌直してくれるかなぁ)


「うーん、しょうがないなぁ。じゃあ、ちょっと待っててね、きょうちゃん。父さん、自転車返してきちゃうから」


 困った顔で白旗を振ってしまった父さんはすごく情けなかったけど、幼いボクは自分の意見が通って満足気な一方、まだ痛みでぐずっていた。

 そんなボクを見て父さんはまた困った顔をしたけれど、膝についた土を水道で流しハンカチで拭き終わると、ボクをぐいっと持ち上げて、おんぶをしてくれた。

 痛みを忘れて無邪気にはしゃぐボクの声を聞きながら、ずるい大人の顔で笑っていた。


(作戦成功!ちょっとずるかったかなぁ)


 家までの道のりを、ボクは父さんの背で揺られて過ごす。父さんの背中は居心地が良くて、何度も何度も船を漕いではびくりと飛び起きる。

 父さんは「寝ていいんだよ」と笑って言う。


「やだぁ……。こわいゆめみるもん……」

「恐い夢かぁ。どんな夢だい、父さんに話してごらん。もしかしたら、話したらなくなるかもしれないよ」

「ーーーおとうさんがね、しらないひとになっちゃうの。さいしょはおとうさんなのに、くろくなって、ぐにゃくにゃになって、しらないひとになるの。それでね、きょうちゃんおいで、おいでっていうの」


(それはーーー)


 たどたどしく話すボクの見えない前で、父さんの顔は少しだけ、青くなったように見えた。

 この頃見ていた夢の内容を、ボクは綺麗に忘れてしまっていたけれど、でも、この頃のボクにとって眠ることは恐怖でしかなかった。と、いうことは覚えている。


(まだ僕たちを苦しめるんですか、天沢さん……!)


 父さんの考えた名前に、聞き覚えがあるような気がした。その人とボクの見る夢にどういう関係があるかは知らないけど、あとで調べたほうがよさそうだ。


「……大丈夫だよ、きょうちゃん。今度そのおじさんが夢に出てきたら、お父さんを呼びなさい。お父さん、必ずきょうちゃんを迎えにいってあげるから。お父さんはいつだって、きょうちゃんの味方だからね。約束だよ」

「うん!やくそく、やくそく!」


(そうだ、僕がこの子を守るんだ。味方でいるんだ。たとえ、この子は僕の子なんだ)


 言葉が、ボクの心を締め付ける。

 そうだ、いつだって、父さんは味方だった。弟と、口喧嘩した時だって。ボクと父さんは、血が繋がっていないのに。

 ボクに父さんに思われる資格はない。この約束だって、今見るまで忘れていたのだから。

 安心して眠るボクを背に乗せたまま、父さんは家に向かって、夕焼けの中を歩いていく。

 河原では、男の子と女の子が指切りげんまんをして、遊んでいた。遠くて見えなかったけど、その周りは血で真っ黒に汚れているように見えた。

 そうして深く、眠りにつく。

 記憶と暖かさが薄れ、現実へと引き戻されていった。


(きょうちゃんがたとえ、僕のことを憎もうと、嫌おうと、そんなことは僕には関係ないんだ。自分の子供を守ることに理由なんて必要ないんだから。だからきょうちゃん、はやく戻っておいで。きょうちゃんは、一人じゃないんだよ)

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