恋文代筆屋
碧音あおい
あずみ古書店
その店は、静かな路地裏に入って奥に並んでいる小さな店のひとつだった。看板に描かれた片耳がない白い猫がふたつの尻尾を振っている。
襟の大きいセーラー服の少女は、濃い飴色の扉の前に立つと深呼吸する。はあ、と白い吐息が空に消える。それから金色のドアノブに手をかけて、引いた。
からん、からん。
上にある金色のドアベルが来客を告げる。室内は四方八方が、本棚とそこに仕舞われた本とそこに仕舞われてない本で出来ていた。ハードカバー、ソフトカバー、文庫本、小説、漫画、雑誌、教科書、事典、辞書──。室内の空気はどこか埃っぽく湿っぽい。紙の匂いだ。目を回しても客らしき人間は誰もおらず、入り口から見ていくつかの本棚の向こうに、誰かが座っているのが見えた。
「いらっしゃい」
机に向かって座っているのは、この『あずみ古書店』の店主だろうと少女は思う。声はハスキーだけれど若い感じがした。ざっくりと後頭部でまとめられた髪は雨の日の空のような重い灰色。丸い眼鏡の向こうにある、あざやかな緑の瞳が半笑いの形で少女を見てくる。
「……なんだい? お客じゃないのかい? なら早く扉を閉めておくれよ。風邪をひいてしまうじゃないか」
「すっ、すみません!」
少女は慌ててドアを押して閉めた。うっかり鞄を落として。からんからんと鳴っているドアベルの音を店の外から聞いて一瞬固まり続け、それから鞄を拾うとまたドアを開けて店内に入った。店主は肩を震わせていた。
「それでお嬢ちゃん。何をお求めだい? 過去問集ならアンタから見て左側の2つ目の棚のどこかだよ。あいにく漫画やラノベの類いはほとんど──」
「あのっ!」
勢いよく店主の声を遮ると、小走りで店主の机の前まで駆けた。埃がたったのか、店主が口許を押さえる。けほ、と控えめな咳。
「お姉さんは代わりにラブレターを書いてくれるんですよね!?」
「……ラブレター。ねぇ。なんとも時代錯誤だねぇ。今どきはSNSじゃないのかい?」
時代錯誤なのはこの人の言い回しの方じゃないのかなと思いながら机に手をついてしゃがみこんで、身を乗り出した。
「……わたし、知ってるんですよ。『片耳の欠けた白猫が貴女を迎える時、それは欠けた貴女の想いが終わる時』って都市伝説! それで恋を叶えてくれる人は女の人で、代わりにラブレターを書いてくれて、その人は白猫と同じ緑の目をしてるってことも、ここの看板の白猫の片耳が欠けてるってことも!」
「そうかいそうかい。それで?」
「だからラブレター書いてください! お願いします!」
「そうじゃなくて、証拠だよ。証拠」
へ? と拝んでいた少女が間の抜けた声を出す。店主は楽しそうに口端を片方持ち上げて笑っている。笑いながら、左手の万年筆でカリカリとカードサイズの紙になにやら書き詰めている。
「アタシがその妙な都市伝説の源だっていう証拠だよ」
「……え、その、だって目、緑じゃないですか。猫と同じで」
「目の色なんてカラコンで変えられるだろ。緑目の猫なんてそこらじゅうに居るしね」
「……片耳の欠けた白猫の看板なんてわたしここしか見かけたことないです」
「あぁあれねぇ。経年劣化でペンキが剥げちゃってさあ。わざわざ業者に頼むのも今更なんだかなって感じでねぇ」
こきこきと肩をほぐし始める店主を見て、少女はぺたりと力なくその場に座り込んだ。そして。
「……っう、うあ、うわあああああああん!! うわああああああああああああん!!」
大声で泣いた。
「……はあ、落ち着いたかい?」
「あい……ずみまぜんでじだ」
少女は謝りながら鼻をかむという器用なことをして、更に頭を下げた。そうすると視界には湯気のたっている紅茶のカップが入り込む。それは綺麗な琥珀色をしていた。ちゃぶ台の上で。
少女は店主に引っ張られて、店の二階に上がっていた。どうやら居住区のようだった。そこでふかふかの座布団の上に正座している。
用意されたティッシュを使ってもう一度鼻をかむ。側に置かれたゴミ箱に放り込んで、それでやっと本当に落ち着いてきて、今度は一気に恥ずかしくなってきて全身が熱くなる。いま鏡を見たらきっとどこもかしこも赤いだろう。背中がじっとり汗ばんできた。恥ずかしすぎてどこかに隠れたい気持ちでいっぱいで、とりあえず両手で顔を隠した。
「まぁまずは飲んで食べなよ。結構いい茶葉らしいから」
そう言って笑うのは向かい側で正座をしている店主だ。指の隙間から覗くと、手づかみでスコーンを割って食べている。長めの爪は形よく整えられていて、なにも塗ってなさそうなのにつやつやしていて綺麗だった。
「はい……」
返事をして紅茶に口をつける。フレーバーティーの類いではなく普通の紅茶だ。けれどストレートだからほんの少し渋くて、でもマスカットのような香りが後に残る、甘くないのに飲みやすい紅茶だった。
今度はスコーンに手をつける。銀色のフォークがあったのでそれを使った。もしかしてこれは店主の手作りなのだろうかと思いながら蜂蜜につけて食べる。──甘い。ふわりと独特の香りが鼻の奥につきぬける。けれど嫌な感じは全くなくて、後を引く香りと甘さ。ほんのり塩気のあるほくほくとしたスコーンにぴったりだと感じた。
「美味いだろう? その蜂蜜」
「はい! 蜂蜜も、紅茶も、こんなに美味しいの初めて食べました!」
「そうだろうねぇ。アイツは本ッ当にアタシとは合わないけど、作る蜂蜜だけは天下一品だ。料理に使っても紅茶に入れても美味いしね」
「は、はあ……?」
なにかしら含みのありそうな店主の発言に曖昧に相づちを打ちながら、少女はもぐもぐとスコーンと紅茶を食べていく。なんでこんなことになってるんだっけ? と思ってはいたが、美味しくて手が止まらなかったのだ。
そして店主がお代わりを入れたティーポットを用意してから、店主は「さてと」と口を開いた。
「ラブレターだっけ」
どきん、と少女の胸が強く鳴った。そうだ。わたしはこの人にそれをお願いしにきたんだ。なのに、違うって否定されて。じゃあ、わたしはどうすればいいんだろう。せっかくここまで来たのに。この恋を諦めるなんて出来ないのに!
「アンタ、メールの最後に名前書くタイプ?」
「へ?」
「それとも書かない?」
「メール……あんまりしたことないですけど、書かないです。だって書かなくても分かるじゃないですか」
「ああそっか。そういやそうだねぇ」
うーん、と店主が困ったようにこつこつとちゃぶ台を叩いている。いつの間にか左手に持った万年筆の後ろの方で。
「じゃあラブレターにも名前は書かない方向でいいね」
「はい? ……え? あれ? ええ?」
一応落ち着いていた頭が混乱してくる。この人は都市伝説の人じゃなくて、でもなぜかラブレターの書き方を話してくる。おかしい。あべこべだ。ということはもしかして。
「やっぱりお姉さんってあの都市伝説のひとなんですか?」
「……都市伝説のひと、ってのも妙な呼び方だねぇ。まあつまりラブレターの代筆の話だろう? そうだよ、アタシはそれも生業にしてる」
「なんでうそついたんですか!?」
「人聞きが悪いねぇ、嘘なんかついちゃいないよ。証拠はどこだって訊いただけじゃないか。肯定も否定もしてないだろう?」
「それ屁理屈じゃないですか!」
おおげさに首をかしげる店主を見て、少女はちゃぶ台に手をついて立ち上がる。店主は落ち着けと言わんばかりに両手の手のひらをこちらに向けた。
「はいはい。悪かったよ、だから座っておくれ。これじゃまともに話ができないだろう?」
もう、なんなんですか……と、しぶしぶ座布団に座り直す。正座は疲れていたので足を崩した。それを見てから店主は紅茶を飲みつつ話し出す。
「アンタ、いくつだい?」
「15です」
「中三? 高一?」
「中学です。あの、坂を登って降りてまた登ったところにある」
「ああ、あそこかい。そんな制服だったっけ?」
不思議そうな店主を見ながら、制服の大きい白い襟に触れる。
「去年、変わったんです。かわいいですよね。一年しか着れませんでしたけど」
「昔に比べりゃ随分と良くなったね。それで相手は、女の子かい? それとも教師かい?」
「──え?」
さらりと。世間話のように言われた問いに、少女は凍りつく。なんで。どうして。
「いやねぇ、これがよくあるんだよ。アタシみたいな得体の知れない──それこそ都市伝説に頼るような輩にはさ。相手が同性だったり、教師と生徒みたいに身分とかが違ってたり、それこそ相手に旦那や奥さんがいたり、まあ、色々ねぇ」
だから、アンタはどうなんだい?
そう、尋ねてくる緑の瞳から目を背けることが出来ないまま、少女はどこかぼんやりと答え始める。こくりと頷いてから。
「……女の人、です。先生っていうか、教育実習生さんなんですけど。初めて会ったのは中一のときで、家庭科で、料理が上手くて、わたし不器用なんですけど、その先生にケーキの作り方とか教えてもらって、それがすっごく美味しくて」
少女の瞳がどこかを見る。なにかを思い出すように。店主の左手は万年筆を持ったまま忙しなく動いている。そこに紙もインクも無いにも関わらず。
「先生も、わたしくらいの年のときはケーキなんてぜんぜん作れなかったって笑ってました。「薄力粉と強力粉ってなにが違うの? お砂糖ってどれも一緒じゃない? って思ってた」──なんて笑ってて、それが、すごく、かわいくて……」
たぶん、ひとめぼれ、でした。
それからは、予習や復習ですって口実で職員室や家庭科室に行って教えてもらったり、たまに飛び入りで部活に参加して一緒に料理をしたり、SNSやアドレスも交換してチャットで色々お話したりたまに会ってご飯食べたり……でも、実習生さんだから学校からは数ヶ月でいなくなっちゃったんですけど。そしたらこの間、来年度からうちの中学に配属されるって教えてもらったんです。
でも、わたしは「高校生」になるから、中学にいる「先生」とは会えないんです。
わたし、一応受験生で、でも一応推薦決まってるんですけど、でもやっぱり忙しくて、先生も忙しいみたいで最近はほとんど話せなくて。もしかしたらこのまま高校生になったら、本当の先生になったら、きっともっと話す時間がなくなっちゃうかもしれないって、会うことも出来ないんじゃないかって思って。でもそんなのすごくつらくて、悲しくて……それで気づいちゃったんです。わたしは先生が好きなんだって。
「……だから、ネットで都市伝説を見かけたとき、すごくホッとしたんです。わたしの恋が叶うかもしれないから」
「恋、ね」
冷めてしまった紅茶のカップを見下ろしながら言うと、店主がぽつりと呟いた。その声が紅茶よりも冷めた温度に感じて、少女は思わず顔を上げる。──店主は少女を見て苦笑していた。その苦い笑みの意味が分からなくて、少女は不安になりながら問いかける。
「……あの、それで、書いてくれるんですか?」
ラブレター。と続けると店主は苦笑を解いて肩を竦めた。
「あんなにも泣かれちゃあね。断れるわけないだろう?」
「う……」
思い出してまた恥ずかしくなってくる。顔が熱い。誤魔化すように冷めた紅茶をごくごくと飲み干す。
「それにね、もうとっくに終わったよ」
「え?」
視線を店主に戻すと、目の前には紙が浮いていた。真ん中に片耳の欠けた猫が描かれた、それ以外はよく分からない精緻な紋様がびっしりと描かれた灰色の紙が。その紋様は緑色で描かれているのに、まるで脈動しているかのように、縁が紅く弱く光っている。
「これ、は……?」
「いわゆる呪符だよ。アンタの想いが込められた、ね。──アンタはこの白い猫がいる扉を開くことが出来た。それはつまり、欠けていたアンタを満たした想いが終わるときさ」
知ってるだろう? 都市伝説だよ。
店主が指を弾くと呪符は少女の額に張り付き、一瞬でかき消えた。同時に、少女の身体が一瞬だけ痙攣する。それからがくりと力が抜け、店主は少女が傷つかないようにとすぐにその身を支え、畳に横たえた。──仰向けにされた少女の胸元で浮かぶのは、ひとつの封筒。店主はそれを手に取ると封を開け、取り出した手紙の中身に目を通していく。はあ、とひとつ息をついてから、手紙を封筒に戻してちゃぶ台に置いた。
「さぁて……これはかなり美味そうだけど、一体どれがアタシとこの娘にとっての一番かねぇ」
腕組みしながら零した言葉は、店主以外の誰も聞いてはいなかった。
恋文代筆屋 碧音あおい @blueovers
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます