第30話【第六章】
部屋に戻った俺は、軽い荷物を隅に置き、すぐに冷蔵庫に向かった。ウーロン茶を用意し、どすんとテーブルの前に腰を下ろす。
『アキは一旦アメリカに帰ることになった』などと嘘をついていたが(神崎救出に間に合ったのは奇跡だったのだろう)、どうやら本当にしばらくは現れないことになったらしい。
やることのない俺は、意識を漂わせる。幽体離脱ってこんな感じなのだろうか。
ぼんやりしてしまって、どうにも『何かを考える』ことができない。集中力も欲望も、意識さえも失ってしまったような気がする。そんな中、一つだけ思うことがある。
「麻耶、元気かな……」
俺は腰を上げた。そうだ。いまからでもキラキラ通りに行ってみよう。しかし、カーテンを開けてみると、とっくに陽は昇っていた。麻耶たちはもう眠ってしまったかもしれない。叩き起こしてまで会うのは迷惑甚だしいし、第一、話すネタがない。アキの正体を明かしていない限りは。
「仕方ねえな、俺も寝るか」
※
夜八時。
真夏と言えど、とっくに陽は沈んでいる。これなら話し合いに行っても構わないだろう。俺は軽いバックパックを担ぎ、キラキラ通りへと向かった。
「おお! 旦那、お久しぶりっす!」
「麻耶姉に伝達! 旦那がおいでになったぞ!」
ツナギ二人組は元気なものだ。こいつら、これでヤク中なのか? と思うほど。そんな二人のお陰で、俺はあっさりと裏通りを闊歩する権限を得た。もちろん、向かうのは麻耶の部屋。しかし、麻耶は既に広場におり、ソファに腰を下ろしていた。
「あっ、俊介!」
立ち上がり、たたたっ、と寄ってくる。な、何だよ、かわいいじゃねえか。
初対面の時の、お互い猜疑心に見舞われていた時の姿が冗談のようだ。麻耶の目元はパッチリとして、理由は分からないが瞳が輝いている。
俺も片手を大きく挙げて、駆け寄ってくる麻耶を受け止めるようにして抱きしめた。
俺は麻耶の頭を軽くくしゃり、と撫でながら尋ねた。
「昨日は何かトラブルなかったか?」
「うん! あたいたちがいるからね、誰にも手出しはさせねえよ」
うーん、その男勝りな口調がなければもっと魅力的なんだが……。でもまあ、こうして俺のことを好いてくれる人の善意に対し、とやかく言う筋合いはあるまい。
麻耶の頭を撫でながら、ふと広場の反対側を見ると、
「美耶?」
あのおさげ姿は間違いなく美耶だ。身を隠す様子もなく、こちらを見つめている。その瞳は、何故か俺や麻耶よりも年長者であるかのような風格を漂わせていた。何故そう感じたのかは、全くもって分からないのだが。
「美耶、テキーラ持ってきてくれよ! 皆で一杯やろうぜ!」
しかし。
「おーい美耶、なければラムでもいいぞ?」
その呼びかけに、美耶は動こうとしない。
「何だよ、どうしたんだよ美耶?」
麻耶は俺から離れ、美耶の方へとずんずん歩を進めていく。喧嘩腰で近づいていく麻耶の肩を、俺は軽く掴んで止めた。
「おっと、ちょっと待て」
そう言って、麻耶に代わって美耶の方へと一歩を踏み出す。
「美耶、どうかしたのか? 何かあったのか?」
美耶は首を振ろうとも、何らかのジェスチャーを取ろうとするでもなく、ただただ突っ立って俺たち二人を見つめている。瞼を半分閉じた、細くて遠い目で。
俺はゆっくりと美耶に近づいた。
「酒の場所が分からないのか? もし高いところに置いてあって取るのが面倒だ、ってんなら俺が代わりに」
と言おうとしたところ、美耶はささっと廃ビルの隙間に身を潜めてしまった。俺は振り返り、麻耶に向き合う。
「なあ麻耶、お前、美耶と喧嘩でもしたか?」
「いんや。ただ、最近ちょっと調子がおかしいっていうか」
俺は麻耶たちのアジトとなっている部屋の情景を思い出した。入って左側に、仲良く並べられた二台のベッド。あれが、月野姉妹の仲のよさを体現しているように思えて、俺は安堵感に浸っていたのだが、麻耶はやや困惑した様子で
「美耶の奴、一緒に寝たがらねえんだ」
と一言。まさか。
「それって、いつからだ?」
俺は麻耶の前に回り込んで、その両肩を掴んだ。
「おっと! 何マジになってんだよ?」
「いいから、教えてくれ。できるだけ正確に!」
すると麻耶は人差し指を顎に当て、上目遣いで答えた。
「ここ一週間のうちであることは間違いない。あんたたちが来てから、だね。でもこんなにあたいらを避けてる美耶を見るのは……うーん、二、三日前くらいからかな」
「そうか」
俺は腕を組んで考えた。三日前は分からないが、二日前、つまり一昨日のことなら思いあたりがある。
もしかして、俺と麻耶がキスするところ、美耶に見られたんだろうか?
まあ、美耶は麻耶の身内だし、見られたところでどうということはないんだが、しかし……。
俺は手を顎に遣って考えた。
「なあ麻耶」
「あん?」
「美耶ってどんな子だ?」
「ど、どんな、って言われても……。あんな感じだ。普通はもっと愛想いいけどな」
「愛想が悪い時ってどんな時だ?」
「なっ、んなこと知らねえよ! 本人に訊いてみるしかねえだろうさ」
ふむ。直に訊くしかないと。だが、美耶は元々無口な方だし、一筋縄ではいかないだろうな。
しかし、もしも俺の予測が当たっていたとしたら。
「厄介なことになったかもしれないな……」
俺は麻耶にすら聞こえないような小声で、そう呟いた。
メガホン越しの大音量が響き渡ったのは、まさにその時だった。
《警察だ! 君たちは完全に包囲されている! 無駄な抵抗は止めて、我々の指示に従え!》
「!?」
警察? 麻耶たちの悪事がバレたのか? どうして急にこの場所が分かってしまったのかは分からないが。などと悠長なことを考えている場合ではない。
「おい、俺たち逮捕されちまうのか!?」
「ハッパを隠せ! 早く!」
「どうにかして追い返せ!」
不良たちは必死に声を張り上げたが、その程度で治まるような混乱ではない。
《繰り返す! 無駄な抵抗は止めて警察の指示に――》
怒号と、多くの人間がぶつかり合う騒音。それらが相まって、状況は手に取るようにして分かった。
やがて、通りの向こうから、ヤク中たちの姿が見えてきた。と思ったら、呆気なく突き飛ばされた。代わりに俺の視界に入ってきたもの。それは、強化透明プラスチックの盾と警棒、それにヘルメットで武装した機動隊員たちの姿だ。
「麻耶姉、こっちへ!」
広場に面した廃ビルのドアのうち一枚が開き、俺たちに向かって手招きする。
「駄目だ、あたいは戦う!」
「何言ってんだ!」
俺は麻耶の頬を引っ叩いた。二度目だ。
「モデルガンじゃなくて実銃を使おうとしてるんだろ?」
「ああそうだ!」
するとアキはホルスターから拳銃を抜こうとする。しかし俺は、無理矢理それを止めた。
「何するんだよ!?」
「あの盾は、対テロリスト鎮圧用に開発された最新式だ。拳銃の銃弾なんて通すはずがない。それにお前がこの拳銃を所持しているとバレたら、銃刀法違反まで喰らっちまう」
俺はぐいっと腕を伸ばし、麻耶の愛銃に手をかけた。
「何すんだよ!?」
「この拳銃がお前の所有物ではないように、指紋を拭きとって誤魔化す」
「できるのか?」
「やるしかねえだろう!!」
俺はツナギ二人組たちが必至に機動隊を喰い留めているのを見つめながら、ハンカチを取り出し、偶然所持していたウーロン茶をかけ、グリップや弾倉を中心に磨いた。
それから、フェンスの後ろ、粗大ゴミ置き場に向かって放り投げた。
「そりゃっ!」
「あーーー!!」
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