第23話

 その言葉に、神崎は一歩、退いた。


「あっさり死ねるわけ、ない……?」

「ああそうだ! それに、そんなことを考えながらここに来た、ってことは、まだこの世に未練があるってことだ。そうだろ!?」

「……」


 初めて、神崎の顔から感情が消えた。生を投げ出そうという気持ちと、麻耶から伝わってきた気持ち。その二つがぶつかり合って、相殺し合っているかのように見えた。


「だったら、生きろよ! あんたはもう大人だ。過去に何かあったとしても、それを乗り越える力はある! だから、だから……」


 そこまで言って、麻耶は唇を噛みしめた。


「自殺はしないと、彼女たちに約束してください」


 その言葉の続きを、俺が引き受けた。神崎の瞳が僅かに揺らぐ。


 誰もが息を詰まらせる、その時だった。

 ギイッ、と不吉な音が、頭上から降ってきた。同時にボルトのようなものが、俺の足元に落ちる。何事だ? 見上げると、


「げっ!」


 高さ十メートルほどのところに走っていた太いパイプが、ミシミシと音を立てて落下するところだった。ちょうど、俺たちの頭上に。全員が目を見開いてその様子を見つめる。


 最初に動いたのは、麻耶だった。


「美耶!」


 慌てて妹の手を取り、奥に逃げようとした。が、


「ぐっ!」


 急に無理な角度で足を捻ったらしく、


「お姉ちゃん!」


 麻耶は美耶を投げ出すようにして倒れ込んだ。


「あの馬鹿!」


 反対側に逃げていた俺は、


「ええい、ったく!!」


 再び落下しかけているパイプの真下に向かって突進。


「麻耶!!」


 半ば引きずるようにして、麻耶に肩を貸す。美耶は既に安全なところに立っていた。しかし、


「美耶、来るんじゃねえ!」


 飛び出して来ようとする美耶を、俺が怒声で留まらせた。しかし、片足しか使えない人間の身体は重い。体勢を崩しながら何とか前進するが、間に合わない。


 このままここで、お陀仏か――。そう思った次の瞬間、


「どはっ!」

「きゃあっ!」


 俺たちの背中が、とんでもない勢いで突き飛ばされた。振り返るまでもない。そこに立っていたのは、


「神崎さん!」


 明後日の方向に、俺は叫んだ。

 その直後、背後からズシャアアア、と金属の擦れ合う轟音が響き渡る。神崎に突き飛ばされた勢いで、俺と麻耶は頭からアスファルト上に倒れ込んだ。


「姉御!」


 真っ先に振り返ったのは麻耶だ。


「姉御! 神崎の姉御!」

「待て、麻耶!」


 俺は麻耶の肩を掴んで引き戻した。


「おい、まだ何か降って来るかもしれないぞ! お前まで巻き込まれる!」

「でも姉御が!」


 直後、俺は自分の右手に痛みを感じた。同時に、左頬に手を当てた麻耶の姿が目に入る。俺は、麻耶を引っ叩いたのだ。しかし、麻耶は怯まなかった。


「だって、姉御はずっとあたいたちの面倒を見てくれたんだ! このまま見捨てろっていうのかよ!?」


『ああそうだ!』とは言えなかった。ここで神崎の死を容認してしまったら、俺は何か、自分の生きる価値を見失ってしまうような気がする。かつて自殺に関わったことがある者として。たとえ神崎が、本気で自殺を考えるような奴だったとしても。


 もし生きているなら、助けなければ。

 俺は踵を返し、『神崎さん!』と連呼した。あたりはまだ、濛々と砂塵が舞っている。視界が効かない。だが、それでも『諦める』という選択肢はなかった。


「神崎さん! 神崎さん!」

「いいんだ、俊介くん……」

「姉御? 姉御なのか!?」


 俺のそばに駆け寄ってくる麻耶。

 俺はビルの壁面を見上げながら、ゆっくりと声のした方へと向かった。どうやら、これ以上の崩落はないらしい。


「神崎さん、聞こえていたら答えてください! 神崎さん!」

「……ここだよ」

「うわ!」


 ちょうど足元から、神崎の声が聞こえた。見下ろすと、煤で汚れたような神崎が、うつ伏せの状態で横たわっていた。彼女自身も脱出を試みたのだろう、頭から膝のあたりまでは無事だった。問題は、膝から下だ。


「大丈夫ですか!?」

「どう見える?」

「ど、どうって……」


 俺が狼狽している様が面白かったのか、神崎は脱力したように表情を和らげた。


「なるほどな、君たちの言う通りだ」

「ちょっ、喋らない方が――」

「私は今、君たちを助けたいと思った。助けなければと。そのためなら……まだ死ぬのも早いかもしれないな……」


 それからゆっくりと、神崎の瞳が閉ざされた。


「神崎さん?」


 俺は神崎の肩や頬を叩いた。


「ちょっと、神崎さん!」

「姉御!」


 俺の言葉を無視して、駆け寄ってくる麻耶。


「俊介、姉御は!?」


『大丈夫だ』と言ってやりたかったが、神崎が目を閉じてしまったので安易に答えるわけにもいかない。


「姉御……!」


 気を失った神崎に泣きすがる麻耶。振り返ると、その様子を心配げに見つめる美耶と目が合った。しかし、その表情からは何も読み取れない。

 俺は前方に視線を戻した。


「まずはこのパイプをどかさねえとな……。麻耶、お前はそっちだ。持ち上げられるか?」

「んっ……」


 びくともしないので、俺も


「ふっ!」


 パイプの下に手を入れ、力を込めてみる。が、やはりぴくりとも動かない。

 すると、騒ぎを聞きつけたのだろう、不良たちが広場になだれ込んできた。


「おい、パイプが落ちてるぞ!!」

「広場の方だ!!」

「誰か怪我人はいないか!?」


 パイプを挟んだ反対側から駆けてくる。


「動ける奴は返事してくれ!」


 俺は手でメガホンを作り、


「俺だ、俊介だ! 麻耶と美耶もいる! 神崎の足が下敷きになった!」

「分かりやした! 皆、一気に持ち上げるぞ! せーのっ!」


 と言った直後、


「あ、兄貴!?」


 ん? 兄貴だって?


「皆、どいていろ」


 この声、間違いなく変身した時のアキの声だ。異常を察知して駆けつけてくれたのか。しかしアキとて、こんな太いパイプを一人で持ち上げるのは――。

 と思って見ていると、何の掛け声もなく、唐突にパイプは端から持ち上がり、アキの声がした。


「神崎を引っ張り出せ!」

「あ、お、おう! 麻耶、右手を!」

「うん!」


 俺と麻耶は、二人で神崎を引きずった。十分離れてから、


「アキ、もういいぞ!」


 するとパイプを両手で支えていたアキは、ゆっくりとこちら側に身体をずらし、慎重に置いた。ちょうど、パイプの下を潜ってくるように。俺は慌てて駆け寄り、アキに尋ねた。


「アキ、神崎の容体は!?」

「上半身は異常ない。骨も無事だ。だがやはり、膝から下が酷いな」


 俺は、屈み込んだアキの背中から顔を出し、その先の神崎の足を見た。


「うっ……」


 一言で言えば、決してテレビでは映されないような大怪我だった。関節はあらぬ方向に曲がり、血だまりが広がって、アスファルトが神崎の気力を吸い取っていくかのように見えた。


「三十分以内に病院に連れていく必要がある」

「じゃ、じゃあ一一九番を……」

「駄目だ」


 スマホを取り出した俺を、アキが手で制した。

 そして俺は気づいた。こんなところに救急車は呼べない。公共機関の侵入を許せば、ここに集っている皆が、後日一斉検挙される可能性がある。


「アキ、神崎を病院に運べないか? あるいは、ここから離れてから救急車を呼ぶとか」

「よし、その手でいこう。後は任せてくれ。随時連絡する」

「分かった」


 俺はしっかりとアキの目を見つめ返した。アキは頷き、神崎を背負って颯爽と駆け出していった。

 それにしても、何故俺はここにいる連中の味方をしているのだろう? いつの間にやら『旦那』と呼ばれるまでになって。

 

 もしかしたら、俺はここに集う若者たちに共感しているのかもしれない。

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