第4話

「この街にいる心理的弱者を救うため……?」

《そう! そうなのよ!》


 棒読みの俺に構わず、アキは興奮した様子でホワイトボードをぶんぶん振り回した。

 パニックが一周して平常心に立ち返った俺は、ようやくこちらから喋りかける気になった。


「何なんだ、この『心理的弱者』って?」

《いいところに気づいたわね》


 アキは顔面どアップの状態から少し離れ、画面奥でさして大きくもない胸を張った。


《その『心理的弱者』っていうのは、今大変な思いをしている人たちのこと。ストレスで押し潰されそうになっていたり、何か怖い思いをしていたり、誰かに助けてほしいのに自分から言い出せなかったり。そういう人たちの総称ね》

「ふうん……。って、それじゃあ全世界の人間全員が、その、なんだ、『心理的弱者』ってものになっちまうんじゃないか? ストレス感じない人間なんていない、って聞くぜ」


 真っ当な質問が自分の口から出たことに、我ながら少し驚いた。


《一理あるわね》


 アキは勝気な姿勢のまま、しかし素直に認めた。


《でも、国によって幸福度が違ったり、鬱病になる人もいればならない人もいたり、世界はアンバランスなのよ。それに加えて、個人的なメンタリティも計算に入れて考えなくちゃならないから、もうフクザツ! ってわけ》


『だから個人的なケアが必要なのよ』と続けるアキ。


「なるほどなあ」


 俺は無意識に呟いていた。


《だから手助けしてほしいのよ。あなたみたいな人に》

「そうか……って、何だって?」

《だから手伝ってくれと》

「どうして俺が!?」


 するとアキは、画面の向こうでコホン、と空咳をした。


《思う節はあるんじゃない? あなたには》

「む」


 俺は、言葉に詰まった。確かに俺は、病気ではないにしろ、まともな生活を送ることができているわけではない。このグダグダした感覚は、体験者にしか分からないものだろう。

 眠たいけれど寝たくない。空腹だけれど食べたくない。何かをしなければと思うけれども、その『何か』が分からない。

 そんな話を、その『心理的弱者』さんとやらにしてやればいいのだろうか。確かに、そうやって話をするというのは、俺にとっても有益かもしれない。世の中にいる人間でこんな状態に陥っているのは自分だけではない、と思うこともできるだろうし。


《おーい、俊介くーん》

「ん? あ、お、おう」


 気づけば、俺は頬杖をつき、画面の左下あたりを見ながらぼんやりしていた。慌てて顔を画面に向ける。そこではアキが、片手を振って俺の正気を確かめるようなことをしていた。

 そうだ。俺には他の人にはない、そして体験させたくはない過去があるのだ。どうして忘れていたのだろう。いや、意図的に忘れようとしていたのかもしれない。

 そんな思いをする人を、減らすことができるのなら。

 とにかく、大学の講義に出るよりは気の進む話ではある。


「まあ……お前の片棒担ぐの、構いやしねえけど」

《あら、話が早いわね! 最初はどうなることかと思ったけど》

「わっ、悪かったな」


 俺は落ち着いた風を装って、画面から目を逸らした。照れ隠しの気持ちがなかったといえば嘘になる。

 しかし、まだ懸念事項がサッパリ払拭できたわけではない。


「なあ、その前に質問、いいか?」

《なんなりと》

「お前、どうしてそんな人助けをしようと思ったんだ?」


 するとアキは、少し口をすぼめ、視線を逸らした。


《私を開発してくれた学者さん、女性だったんだけど……。死んじゃったのよ、お産の時に》


「え? そ、そりゃあ……」


 悪いことを訊いちまっただろうか。


《だから私、せめて自分の命を絶つようなことは防がなきゃ、って思ったの。だって、事故や病気で突然死んでしまう人がたくさんいるのに、その上自分で自分を殺してしまう人がいるなんて、悲しすぎると思わない?》


 ふむふむ。俺は数回頷いた。


《だから私は研究所を抜け出して、こうしてあなたに出会ったわけ》


 その時、もう一つ質問、というか不安が頭をよぎった。


「お前、半年間逃亡生活してるんだろ? 経路をトレースして、誰か追いかけてきたりしないのか? 殺し屋とか……」

《まあ、その可能性は多分にあるわね》


 と言いつつも、アキは余裕の態度だ。


《でも、ちゃんとログ消しながら移動してるから大丈夫じゃない? 軍事用の人工衛星も使ってるし》


 あ、そ、そうですか。


 すると、ピコンと音がして、パソコンが通常のデスクトップに戻った。


「あれ? アキ? 消えちまったのか?」


 俺はディスプレイに鼻先を近づけて問いかけた。しかし、


「消えちゃいないわよ」

「うわ!」


 横合いからの突然の声に、俺は今日何度目かになる跳躍を披露した。

 パソコンに見入ってしまっていたが、アキの端末となる身体はここにあるのだ。インストール完了に伴い、発声機能も物理的な方に移行したらしい。

 思ったよりは背が低く、中学生くらいかと見当をつける。


「ふうーーー」


 息を吐き出すと、


「やっと実体化できたあ~! うーん!」


 パキパキと首を鳴らし、腕を水平に伸ばす。そんなことをしていると思ったら、今度は蹴りを繰り出すような形で足を伸ばし始めた。


「よっ! ほっ!」

「お、おい、暴れんなよ! ここ俺の部屋だぞ!」

「俺の部屋、ねぇ?」


 アキはあたりを見回し、両腕を腰に当てた。


「だったらちゃんと掃除したら?」

「余計なお世話だ!」


 と言ってアキに近づいたその時、


「どわ!?」

「きゃっ!」


 酒瓶を踏んで、俺は前方に倒れ込んだ。慌てて右腕を伸ばし、掌をつく。

 ん? 掌をつく?

 

 俺が、自分の腕が何かに触れたと感知するまで〇・一秒。

 それが柔らかいものであると認識するまで〇・三秒。

 これは倫理的に問題があるのではないか、という考えに至るまで〇・五秒。

 何か言うべきことを考えなければ、と思うのに〇・一秒。

 それを考えつくまでに、四・〇秒。

 計、五・〇秒の時間が経過した。


 一陣のエアコンの冷風が、俺たちの間を通り過ぎる。


「……あ、あのな、アキ?」

「……」

「こ、これは不可抗力ってやつでな? 別に俺が意図してやったわけじゃない、っていうか……」

「……」

「だ、だって、そんな偶然、こんなところに手が当たるわけないだろう?」

「……」

「ごめん、なさい」


 すると一瞬、部屋全体が揺れるような振動が、轟、と通り抜けていった。


「このド変態があああああああ!!」


 強力かつ残忍なハイキックが、俺の側頭部を直撃した。なるほど、人工知能にとっても、足は飾りではないらしい。

 この一発で気が済んだのか、アキはデスクの椅子に腰かけ、足を組んで


「何か飲み物! 急いで!」


 と俺に下命した。どうして俺が、と思いつつ、またハイキックを喰らう恐れがあることを考慮して、俺は素直に廊下に出た。お星様が見えるよ。もう午前七時は過ぎただろうに。

 クラクラする頭で冷蔵庫を開けた俺は、しかし、


「あ、しまった」


 現在この居住地に、ろくな飲み物がないことを思いだした。一週間前に牛乳を買い、それを放置したままで炭酸ジュースを飲みふけり、そのジュース類・酒類がなくなったのが昨日の夕方、まだ日が出ていた頃。これじゃあ仕方がない。

 俺はガラス製のコップを二つ持って、部屋に戻った。

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