雅歌、あるいは蛾の歌

紫之宮 衣沙陽

喫茶店にて

 圧して倒す、と書いて圧倒という。周囲のすべてを傅かせて、独りそびえ立つ。圧倒的。彼の美を言葉で表現するならば、そんな言葉が一番似合っていた。彼をひとめ見たその時確かに、私の心には今までなかった炎が灯り、世界は新しい炎でよりよく照らされ始めた。私の精神は彼こそ我が人生の主人と跪いた。


 私はほんの少しの空いた時間を埋めるために、初めて入る小さな喫茶店で熱い紅茶を飲んでいた。昼ながらにして店内は薄暗く、色グラスを通した光が赤い紅茶に紫を投げかけている。また一口を運ぼうという時、私は店の奥に彼を見とめたのだ。彼はゴブランを張られた重厚な椅子に深く腰掛けている。その膝の上には赤いブックカバーをかけられた本がのせられていた。先ほどまでは他の客に遮られて姿が見えなかったが、客が店を出て、私と彼の間には柔らかな空気だけが残されていた。引き寄せられた私の視線に気づく素振りもなく、彼は手を伸ばしてテーブルの上の彼のカップを取り上げる。


 光のシャワーが彼に向かって降り注ぐ。否、そんな陳腐な表現は相応しくないだろう。彼のためにこそ光はあるのだから。光は彼の瑞々しくも完成された頬をなぞり、艶やかなまつ毛の滑り台を流れて先から溢れ落ちていく。彼の頬は高い頬骨に支えられ、シルクのような肌がその上にテントとして張られている。そこにかかる一房の髪は黒く描線を描き、先端に向けて収束を見て、頬の白を背景に翼のようにひらめいている。


 彼は具象化された光の神だろうか? すべての光は彼に向かって頭を垂れる。否、それほどには純粋ではない。彼は光の持たない危うさを兼ね備えている。彼は闇さえも従僕とするだろう。彼の肢体にはあらゆる妖艶さがまとわれている。


 とうとう私は言葉を尽くし終えてしまった。美しいということを美しい以外の言葉で表すことは出来ないものだろうか? 彼を讃えるには言葉はあまりに貧弱だ。むしろ彼を表すにおいて言葉ほど邪魔なものはないのではないか。ああ、なんという徒労、我が人生よ! 私はついにその結論に至った。私のこれまでの下らない生でそれでも積み重ねてきたすべては、彼に差し出せるものではないということを。……あぁ、無こそが彼の目前にはふさわしい。


 思考すら放棄して呆然と彼に虚ろの瞳を向ける人間に、彼は最後まで気がつくことはない。それは窓の外で蟻が一匹死ぬことに注意を払う者はいないことと同義だった。

彼はその顔を少し上向かせ、その視線と心は彼へと臆すことなく向かう青年へと向けられていた。青年に向かって彼はその唇を開き、白い歯列をのぞかせた。青年もそれに対して笑みでもって答え、彼に手を差し出した。彼は当たり前のことかのようにその手を取って立ち上がり、そして彼と青年は、青年と青年になって雑踏に紛れていった。


             後にはただ、心を奪われた人間が独り残るばかり。

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雅歌、あるいは蛾の歌 紫之宮 衣沙陽 @Perle_Mond

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