泥濘の中から産声を

@1041

第1話鉄格子

 トロリとした生温い、水飴のようなものに全身を包まれ、

ゆっくりと沈んでいく。

これ以上なく穏やかで、そこに雑音はなく、

喜びもないが悲しみもない。

ただ穏やかに、それに、向かう。

安らぎと静寂が、全てを飲み込み、受け入れてくれる。


人が死にゆくとき、聴覚は最後まで残っているというけれど、

それは本当かもしれない。


香歩はこの数ヵ月、まず食べられなくなり、少し歩けば意識を失って倒れるようになり、

焦点が合わなくなり、次第に視界がテレビのザッピング画面のようにー

ー要は目が見えなくなったが、

意識がある時間には、耳は聞こえていた。


最後に気を失ってから、

意識が戻ったのは、たったの二日後だった。

香歩は簡単に、安らぎから引き戻された。

左手の肘から先には包帯がぐるぐる巻いてあり、

両腕は点滴と機械に繋がれていた。

(酸素マスクは、ないんだな)

そう気づく余裕があることが、

自分があちらに拒否されたことを物語っていた。

そう、あちら、だ。

目覚める前は、そこ、だったのに。

また遠くなってしまった。


視界は少しぼやけていたが、見えた。

普通の病室ではないようだが、病院だった。

初夏の陽射しがカーテン越しに差し込んでいた。


「起きないで!」

怒りを含んだ男性の声。

バタバタと動き回り、どこかへ連絡を入れている白衣の男性には、

見覚えがあった。

香歩の最初の、主治医だった。

とすると、ここは香歩が中学から通った一貫校の近くの、

国立病院に違いなかった。


「すみません…」

掠れた、間抜けな声が喉を押し分けて絞り出された。

(すいません、だなんて、なんて薄っぺらい台詞なの。)

(まるで、机や電柱にぶつかって、モノ相手なのに謝っている人みたい)


なぜか、保険屋さんの担当女性も来ていた。

香歩はまた、

「すみません」

と無意味な言葉を横に滑らせた。


そこでまた、意識が遠退いた。

薄れる意識の中で思った。

(いいや…。どうせ駄目だったんだから、焦らずに眠ろう…)





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