Ch.3:Gokoku・An-in Region
Another show girl off the stage ①
楕円の光がまるでスポットライトのように闇に沈むアスファルトを照らしてゆく。ソーラー充電式のフラッシュライトを使って先を照らしながら進んでいた私だったが、手が悴んで来たので、前を行くクロウタドリにライトを預けて両手に息を吐きかけて温める。
「あおちゃんって結構寒がりだよね」
面白がってライトをそこら中に差し向けているクロウタドリが言う。
「あなたは寒くないの。私より軽装でしょ」
私は彼女の服装に目を向ける。全身を漆黒で包む彼女は、ジャケットを羽織っていたりタイツを穿いていたりはするけれど、スカートは膝丈だし、外套も着ていなかった。気温はそこまで低くないが、吹き付ける風で身体の体温が奪われていく。そんな中でこの服装は、見ているだけで凍えそうだった。
「もう換羽して、今は冬羽だからね、全然寒くないよ。というか大抵のフレンズはコートなんか羽織らなくたってそんなに寒く感じないんだよ」
「換羽って言ったって、頭の翼の羽とかが生え変わるだけでしょ」
「いや、服もだよ。僕らの服はヒトが着る縫製品とは違って、サンドスターを基にしたプラズムで構成されているからね。元の生態に合わせて生地の厚みや色も変わるのさ」
なるほど、言われてみれば、異変以来まともに服を洗濯したことは無かったが、臭うことは一度も無かった。ほつれて毛玉が出来つつあるのは今着ている外套くらいなものだ。新世代たちは衣服のことを「毛皮」と呼んでいるが、その特性から考えると強ち間違っていないのかもしれない。
──いや、ただ、私は例外ではないか。夏も冬も、服の色や厚みが変わったところを実感したことが一度も無かったのだ。現に、元の生息域であるはずの温帯域が分布していたアーケード周辺でさえ、寒さで私はこの外套が手放せなかったではないか。
「――ああ、ただあおちゃんは多分例外だと思うよ」
私の考えを読み取ったかのようにクロウタドリが言う。
「今の君にはプラズムが無いだろう。翼や尾羽ほど顕著には顕れていないだけで、多分衣服の方も機能障害みたいなものが起こっているんだ。だから本来なら当然耐えられるはずの気温も、外套を羽織らないと寒くて仕方がないというわけ」
なるほど、確かにその説明ならば辻褄が合う。
私は彼女からライトを受け取る。再び強い風が吹いてきたので、外套をさらに掻き合わせた。ままならないが、そういうことなら今は我慢する外あるまい。
暫く無言で歩き続けているうち、ふとあることに気付いた。
月が見えない。
つい昨日までは煌々と光っていたことを考えれば、新月になったという訳でもないだろう。空を見渡してみても薄明りひとつ見当たらないということは、どうやらいつの間にか厚い雲が空を覆いつくしてしまったらしい。そう考えたとき、遠くの方から低く地を震わすような雷鳴が響いてきた。――さっきからやけに風が強かったのは、低気圧の接近によるものだったという訳か。
「一雨来そうだね」
クロウタドリが空を見遣りつつ言う。
「そうね――早く今日の寝床を探しましょう」
私はライトを、手元のガイドマップに向ける。地図によると、この先には以前パークの「警備隊」が使用していた拠点施設があるという。長年の風化により倒壊してしまったということでなければ、恐らく宿として使えるはずだ。ライトを再びアスファルトに向けると、クロウタドリと共に一路拠点へと歩を速めていく。
***
幸運にも、拠点は堂々たる佇まいで私たちを迎えてくれた。
そして更にいいことに、車軸を流すような大雨は私たちが拠点の中に足を踏み入れた直後に降り始めたのだった。
私は屋根越しに響いてくる激しい雷雨の音を聞きながら、胸を撫でおろす。そして、改めて拠点の中を見渡した。内装は拠点施設というよりは古風な駅構内といった趣で、初めはそのような意匠なのかと思ったが、奥にある引き戸越しには雑草の中に引かれた線路のようなものが見えていることを踏まえると、実際に元あった貨物線の駅を再利用したものなのかもしれない。当然暖房が効いているわけでもないため、私は外套を羽織ったまま室内の探索を始めた。
「なんか、やけに綺麗じゃない?」
私の背後からクロウタドリが言う。
確かに、言われてみればそうかもしれない。室内の調度品の多くは埃被っているが、20年が経過した施設とは思えないほど綻びが見当たらなかった。サンドスターによる保存効果もあるだろうが、それにしても、誰かが管理しているとしてもおかしくないような様相である。もしかすると、先の温泉施設と同じく、アニマルガール達が定期的に管理しているのだろうか。
暫くして、施設の奥まったところに二段式の寝台を見つけた。取り敢えずこれで二日連続雑魚寝で夜を明かすということは無くなりそうだ。クロウタドリが上段を希望したので、私は彼女に就寝前の挨拶を済ませると、下段に腰を下ろし、そのまま横になった。
一層激しくなる雨音を聞きながら、私は外套から取り出したガイドマップを枕元に広げ、フラッシュライトで照らしつつこれからの道程を確認する。この警備隊拠点の横から伸びる貨物線跡を辿って南東へと進んでいけば、ゴコク地方とサンカイ地方とを結ぶ連絡橋に辿り着くはずだ。サンカイ地方には広大な砂漠が広がっているが、相次ぐ砂塵嵐の影響で交通が寸断されないよう、地下バイパスが発達している。それを利用すれば難なく通過出来るだろう。サンカイ地方以南は温帯平原。何か慮外の事態が起こらない限りは、恐らく直ぐにパーク・セントラルへと辿り着ける。
私はライトを消して寝返りを打ち、宙を仰いだ。
道中で他のアニマルガールたちと関わっていけば、いずれ自分を知る日がやってくる――ジャコウジカとクロウタドリはそう言っていた。それは多分、他者との差異を知ることにより、相対的に自分自身が何者であるかを推し量れるようになる、というような意味なのだろう。実際、あの地下の部屋に籠り、自分の内面とだけひたすらに対話を繰り返していたあの頃よりは、なにか前途が開けてきたような気がしていた。澱のように沈滞し、上澄みに漂う新世代の彼女たちと関わることが罪悪そのものだと考えてきたけれど、度重なる出会いと交流の中で、どうやら必ずしもそういうわけではないということにも気付いてきた。
ただそれでも――それでも、まだ恐いのだ。
明るい方へと進んでいくことが、幸福へと近付いていくことが。
自分を知って、胸を張って生きてみたいという願望は確かにあるのだが、この20年間自分自身の心の中で肥大化させてきた罪悪感や抑うつ感といったものが、その願望を叶える上での大きな足枷になっていた。異変前よりも長い間自分と共に過ごしてきた陰鬱な気分の再生産が、最早習い、性となっているのだ。例え大きな幸せを手に入れたとしても、もしその後に強い絶望を味わってしまえば、その落差で立ち直れなくなってしまう。それが恐くて、私はずっとこの暗澹とした気分を手放せないできた。言わば深淵の一歩手前で揺蕩い、遥か上の水面で煌めく輝きと新世代たちを眺めていくことが、この変わり果てた世界における処世術となってしまっていた。
私はぼんやりと寝台の天板を眺めつつ、その奥にいる彼女、クロウタドリのことを考えた。彼女はそんな私の、負の連鎖を断ち切ってくれるだろうか。私に、幸せへと手を伸ばす勇気をくれるだろうか。重くなってくる瞼を感じながら、そう考える。突如として私の前に現れ、旅へと連れ出してくれた彼女。まだ出会ってから一週間も経っていないのか。――彼女のこと、まだ何も知らないな。
それでも、最近は傍にいると、心地いい。振り回されることの方が多いのに、何故だろう。以前にもこの快さを、味わったことがあるような気がする。――誰に対して? 瞼が視界を遮る。私を引き込むような、不思議な目。底の見えない活力。意識が完全に途絶えるその刹那、夢の中で見たあの彼女が過ったような気がした。
***
雨が降っている。
どういう訳か私は、傘も差さずにその中で立ち尽くしていた。
また、夢か?
でも、何か今までとは違う――そんな感覚がした。明晰夢であることには違いないが、雰囲気が異なっていた。
目の前には沼地が拡がっている。私が立っているのは葦が生い茂るその畔で、雨で増水したせいかブーツがすっかり浸かっていた。沼地は遥か遠くまで続いていて、降り頻る雨で遠くの方は霞んでいた。
そして、ふと視線を下ろした時に、気付いた。程近くの沼の中に、何かがある。私は水音を立てながら葦を掻き分けて進み、浅い沼の中へと足を踏み入れた。近付くにつれ靄が薄くなっていき、ようやくそれが何なのか判別できるようになった。
私は息を呑む。
――それは、紛れもなく、一羽のアオサギであった。
その鳥は、淀んだ沼地の中で身体を横たえ、その長い首だけを沼の上に出している。よく見ると、怪我を負っているのか、その周りの水が赤黒く濁っていた。アオサギは定期的に喘ぐように低くしゃがれた声をその長い嘴から洩らしており、その黄色い目は忌々しげに沼の縁へと向けられていた。
私は困惑する。これは明らかにこれまでの夢とは違う。明晰夢ではあるが、あの真っ黒なアニマルガールも、記憶の中にある景色も、ここには無い。――そう言えば、クロウタドリはこれまでの明晰夢は私たちを追跡するセルリアンが見せていると話していたが……とすると、今回の夢は、そのセルリアンとは関係がないものだということだろうか。
暫く沼の中に立ち尽くしていた私だったが、意を決してその鳥の方へと歩いてゆく。これまでの明晰夢のルールからすれば、自分の記憶を辿っていくことでいずれ金縛りが起こり、夢から覚めるはずだ。今回の夢にもその法則が当てはまるかは分からないが、とにかく行動しないことには始まらない。
私が程近くまで歩み寄ると、アオサギは苦しそうに頭を回し、こちらを睨め付けた。アオサギは元々、極めて警戒心の高い鳥。彼が手負いでなければ、これほどまでに接近することは出来なかっただろう。私は沼にしゃがみ込み、彼を引き揚げようと胴体の下の方へと両手を伸ばす。すると、拒絶するかのように彼が両の翼をばたつかせたので、ただでさえ雨で濡れていた体に水飛沫が浴びせられた。……アニマルガールは同族の動物に対しては難なく意思疎通が出来ると聞いたことがあったのだが、私じゃ駄目なのか。
先の羽搏きで力を使い果たしたのか、彼は間も無く、ぐったりとしてしまう。唯一持ち上げていた頭も、徐々に下がっていき、終いには水面へと浸かってしまった。
「駄目っ」
無意識的に私の口からは、そんな言葉が発されていた。
駄目――そう、駄目なのだ。
私の眼からは既に同族を見分ける力は失われてしまい、彼が以前に面識があった存在なのかすらも分からない。けれども、かつての仲間が目の前で力尽きていく様を、黙って見ていることは出来なかった。
私は彼を沼から引き揚げる。胴体からは、泥と血液が綯い交ぜになったものが滴り続けていた。これだけの出血ではもう長くはもたないだろう。岸へと上がった私は、周囲を見渡す。どこか治療を施せる場所は無いだろうか。明晰夢とは言え、以前の夢と同じく自分で展開をどうこうできるものでもないらしいから、自力で探しに行くしかない。ここがジャパリパークの中であるなら、近くに何らかの施設が必ずあるはずだ。そう考えて、降りしきる雨の中へと歩を踏み出そうとした――その時。
遠くに見えるひと際高い山の上。
そこから、光り輝く何かが、こちらに向かって飛んでくる様子が私の視界の中に入ってきた。相当な速さで進んでいるのか、見る見るうちにその姿が大きくなってくる。そのシルエットは、明らかに鳥の形をしていた。
それは、間も無くして程近い灌木の上に降り立つ。
絶えずこちらに差し込む眩い光。周囲は真昼のように明るく照らし出される――まるで、太陽そのものが地上に現れたかのように。
――生きたいか。
そう、声が聞こえたような気がした。いや、厳密には声そのものではなく、頭の中にそういった言葉が、思念が、直接浮かんでくるような気がした。この、輝く鳥がそう語りかけたのか? ただの直感ではあるが、私はそう感じた。
その時、腕の中にいたアオサギが突如として翼をばたつかせた。泥と血飛沫が顔に飛び散り、私は後ろへとたたらを踏んでしまう。地面に落下した彼は、その命の最後の灯を燃やすように、胴体を引き摺りながらも必死に光り輝くそれに向かって進んでいく。
「待って!」
私は駆け出す。
また自分だけが置いていかれてしまう――そんな気がして、恐かった。私も、光が差す方へ進んでみたい。もう取り残されたくない。
けれども、どれだけ走ろうとも、彼とその先にある輝く鳥のもとへは辿り着けなかった。全力で走っているのに、一向に彼らとの距離が縮まらない。それどころか、むしろ遠ざかっていくような感覚がする。光は遥か向こうへと行き、背後にはもう景色すら見えない純粋な闇が迫っていた。そして、彼が輝きのもとへと辿り着くその瞬間、蝋燭の炎が吹き消されたかの如く、全ては闇の中に飲み込まれた。
***
覚醒。そして、襲う強い拍動と寒気。
慣れたはずの目覚めだが、今日はとことん不快だった。張り付く前髪を掻き分けると、ぐるりを見渡す。時計は無かった。いや、あったとしても動いてはいなかっただろう。ベッドから身を起こして、服を扇いで汗を気化させつつ私は窓の外を確認した。既に空は白んでおり、それが分かるほどに雨雲は薄くなっていた。そして、不意に先の悪夢を思い出して強い不安感と孤独感に襲われた私は、背後を振り返りベッドの上段を見遣る。
「あれ……」
寝台の上にあるのは畳まれたブランケットだけで、そこにクロウタドリの姿は無かった。もう起きてしまったのか? そう思って、私は寝室を後にすると、まだ暗い拠点の中を歩いていく。しばらくして、初めに私たちが踏み入れた広間に辿り着いた。彼女を探して室内を彷徨する私。静寂の中で鳴り響く床の軋みが、胸を一層締め付けてくる。
片側の窓外には彼女の姿は無かったため反対側へと移ろうとした時、部屋の一角に置かれたいたやけに大きなテーブルが目についた。卓上にはパーク全体が載った巨大な地図が広げられており、ゴコク地方を中心に複数のピンが刺されている。加えて何やら書き込まれているようだが、暗すぎて判読出来ない。
と、そこで視界の端に私は何か閃くものを捉えた。その出所は、反対側の窓外。まだ雨で視界が利かない中に一つの人影――恐らくアニマルガール――が立ち尽くしていた。彼女は掲げた片腕から雨粒を滴らせており、それはもう片方の手に握られた何かに落着している。私が捉えた光輝は、その滴る液体から断続的に放たれていたものだったらしい。そして、再び雫が閃く刹那、彼女の顔が照らし出された。あれは――クロウタドリだ。
戸を引き開けて、私は拠点の外に出る。彼女の意識は雫が滴る先へと注がれており、私のことには気付いていないらしかった。
一体何をしているんだ?
怪訝に思いつつ声を掛けようとした時、その雫の出所が目に入り、息を呑んだ。
手首だ。手首から雫が滴っている。そこには遠目からでも分かるほど深い裂傷が刻み込まれており、私が雨粒だと思っていた液体は、紛れもなく、彼女の体内から溢れ出る鮮血に他ならなかった。
「ち、ちょっとっ!」
私が張り上げた声で彼女はこちらへと顔を向けた。すっかり不意を突かれたのか、彼女の顔には純粋な驚愕の表情が浮かんでいる。そして間を置かず片腕を背後に回し、その裂傷を隠した。
「何してるのよっ」
「あ――いや……」
クロウタドリはばつが悪そうに顔を背ける。彼女の傍まで駆け寄ってきた私は、後ろに回された腕に手を伸ばす。
「ちょっ」
「見せなさい!」
「いや、違うんだって」
「何が違うのよ」私は声を荒げる。「見てたんだから」
暫く押し問答を続けていた私たちだったが、やがて観念したのか、クロウタドリは眉根を寄せたまま溜息を吐いて抵抗を止めた。
「……本当は、隠しておきたかったんだけどな」
彼女はそう言って徐に私の方を見上げると、隠していた片腕を、手首を上にした状態で前に出した。痛々しい傷口が現れると思ってつい顔を逸らしかけた私だが、続いて現れたその様子を見て、再び言葉を失ったまま硬直してしまう。
確かに傷口はあった。しかし、予想していた生々しい裂傷も、多量の出血も、そこには無かったのだ。捲り上げた袖から伸びる白魚のようなほっそりとした腕の先には、こちらに向けてぱっくりと口を開けた紡錘形の割れ目と、そこをまるで金継ぎのように埋める虹の輝きが、私の顔を照らしていた。
「なに、これ……」
頤を解いたままだった私が辛うじて口に出来たのは、それだけ。
「だから言ったろ、違うって」
彼女は傷のある腕で頭を掻いたのち、今度は反対の腕を差し出した。軽く握っていた手を開くと、その中からは頭蓋に裂傷を持ったモノトーンの小鳥が姿を現した。この小鳥、見覚えがある。
「それは……クロツグミ?」
彼女は黙って頷いてみせると、提げていたショルダーバッグから例の黒く小さな棺桶を取り出だし、花が敷き詰められたその中に大事そうにクロツグミを横たえた。
「定期的にこうしてあげないとさ、ダメなんだよ」
彼女はそう言って、小鳥の頭を撫でる。俯いたその顔はひどく淋しげだった。
「フレンズ化が解けたツグミちゃんは、放っておけば普通の死骸と同じように腐敗が進んでしまう。でもこうやって僕がサンドスターを分けてあげれば、その保存効果で
クロウタドリは棺桶を紐で結い上げると、丁重に鞄の中へと仕舞い込んだ。
「……でも、サンドスターを分ける時にはそうやって傷口を作らなきゃならないんでしょ」
「そりゃあね」
「痛くないの?」
「痛いよ」彼女は傷口を見つめて続ける。「でも、ツグミちゃんが綺麗なままでいられるのなら、これくらいどうってことないよ」
その言葉を聞いて、私は不意にジャイアントの言葉を思い出した。
――でも多分、その内側は、すっごく不安定な気がしてならなくてさ。
言われた当初はあまりピンと来なかったが、今なら何となくその意味が分かるような気がする。いつだって、明るく強かに見える彼女。けれども、常に私に見せているその側面が、果たして本当の彼女なのだろうか。
私は、傷が入った彼女の腕を手に取った。予想だにしていなかったためか、彼女の身体がびくりと跳ねる。
「クロウタドリ」私は彼女の目を見据える。「こういうことは……やめた方がいいと思う」
私は改めて握った腕に刻まれている傷口を見下げた。相当な大きさの傷だ。これを作り出すのに一体どれだけの傷みが伴うのか、想像もつかない。
「あおちゃん……」
彼女は私の顔に一瞥をくれてから、少し俯きがちになって暫しのあいだ口を閉ざしたのち、言葉を継いだ。
「……心配してくれるのは嬉しいけど、こればっかりはやめられないよ。ツグミちゃんの身体は来たるべき時まで綺麗なままにしておきたいんだ」
「そう……」
私はゆっくりと彼女の腕を離した。彼女の意思は尊重したいのだが、そこに自傷が関わっているということはどうしても見逃せなかった。暫く彼女の片腕を見つめた後で、軽く嘆息し、言う。
「分かったわ。ただ、心配な気持ちは分かるけれど、サンドスターの保存効果はかなり高いものだから回数は減らしても良いと思う。それに、歩く場所を工夫して――出来るだけ寒冷な場所を辿ってパーク・セントラルに向かえば腐敗も進みにくいでしょうし」
彼女は私の提案を聞いて、驚いたように数度目をしばたたかせた。そして微かに笑みを浮かべると、ありがとう、と告げる。
「やっぱり、あおちゃんは優しいね」
その言葉に、別に、と返しかけて私は言葉を吞んだ。……ここで言下に否定するのは、違うか。躊躇ったが、少し顔を背けて自分の正直な思いを伝える。
「……ジャイアントに、旅のバディとしてあなたのことを気にかけてやれって言われたのよ。実際、私は守られてばっかりで……それに、ちゃんとあなたの気持ちを慮ってこなかった。だから、これからは、少しずつあなたのことを知っていきたいし、あなたの為になりたいと思ったの」
言い終わって、少し頬が熱くなる。らしくない言葉だとは分かっていたが、言わないことには伝わらない。
「ふふ、そっか。それは嬉しいね」
「だから、そろそろ私に話して欲しいわ。あなたと私、そしてクロツグミとの、詳しい過去の話を」
脳裏に過る、坂の上に佇み涙を流す漆黒のアニマルガール。――ごめんね。私が覚醒する直前に、彼女は確かにそう言った。あれが、クロツグミなのか、クロウタドリなのか、それとも他の誰かなのか。異変前の記憶を取り戻すためには、きっとあの光景は重要なものなのだと思う。
だから、私の学生時代の生き証人であるはずの彼女に聞いておきたい――そう思って訊ねたのだが、どういう訳か彼女の視線は、横の茂みの中に向けられていた。
「クロウタドリ?」
そう言った私を、彼女は片手で制す。彼女の視線を追って茂みの方へと目を遣るのだが、まだ日も昇らない暗い中ではそこに何があるのか分からなかった。
「――せっかくあおちゃんが嬉しいことを言ってくれたのに、そこを出歯亀とは良い趣味だね」彼女は茂みの中へと語り掛ける。「出ておいでよ。そこにいるんだろう?」
少しの静寂の後、茂みが揺れる。
まさか――私たちを追跡していたセルリアンか。そう思って身構えたが、そこから姿を現したのは一人のアニマルガールだった。
雨はいつの間にか止んでいたが、草木に残った露をまともに被ったのか、彼女は袖無しの白いシャツと斑模様のオペラグローブをぐっしょりと濡らし、またショートボブの頭髪とその上に載った二つの獣の耳から雫を滴らせていた。片手には折りたたまれた傘。そしてもう片手には恐らく防水カバーが装着されたビデオカメラが握られており、まだカメラが回っているのか、レンズの脇には赤いランプが点灯している。
「うぅ……なんでバレるのよぉ……」
彼女は恨めしそうに明るいヘーゼルの双眸をこちらに向ける。
間も無くして雲の切れ目から眩い朝日が降り注いだ。辺り一面を照らす光の中で、彼女と私たちは対峙することとなった。
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