Once the girls were here ⑥
私が読んだ通り、ジャイアントは先程と同じくドリッパーを用いて一杯ずつ丁寧にコーヒーを淹れていった。私が任されたのは配膳係であり、淹れたてのコーヒーと一緒に手渡されたコースターを持って、三度隣室との間を行き来した。
「最後はわたしの分だからさ、アオサギちゃんはこれ持って先に戻ってて」
ジャイアントはそう言うと、私に角砂糖がいっぱいに入った壜とマドラー二本を手渡してきた。もし二人の内どちらかが苦いのが苦手なようだったらこれを勧めてあげて、と彼女は言い加える。私は頷くと、彼女からそれを受け取り、同室を後にした。
隣室に戻ると、流石に連続でライブ映像を見続けて疲れたのか、ハネジロはPCの前から離れ、クロウタドリと共に未だ湯気の立ち上るコーヒーを啜っていた。
「お帰り、あおちゃん」
「あなたね、手伝う素振りくらい見せたらどうなの」
「僕は頼まれてなかったし~」
クロウタドリは口を尖らせつつそう言った。
「はあ……まあいいわ。ハネジロ、コーヒーを飲むのは初めてよね?」
「あっ、はいっ――こんなに温かくて良い香りのする飲み物を飲んだのは、これが初めてです。でも、ちょっぴり苦いかも……」
「なら、この角砂糖を入れるといいわ。きっと飲みやすくなると思う」私はそう言って、ジャイアントから受け取った壜の蓋を開けると、縁にかかっていたシュガートングで中の角砂糖を一つ摘み、彼女の方へと差し出した。ハネジロが出したカップの中にそれを落とすと、マドラーで数回混ぜてやる。カップの中のコーヒーはまだだいぶ温かかったため、程無くしてその砂糖の塊は全て溶け切った。私が手ぶりで勧めると、彼女はもう一度コーヒーを啜った。
「わ……ほんのり甘くなって、飲みやすくなりました!」
ハネジロは頬を紅潮させてそう言う。私は壜を彼女の前のデスクに置くと、足りないようだったら自分で調整して、と声を掛けた。その後ちびちびとコーヒーを飲んでいた彼女だったが、最終的に更に2個、角砂糖を加え入れていた。
「遅れてごめんよ〜」
それから数分後、片手にコーヒーと、もう片手にジャパまんの載った器を持って部屋に戻ってきたジャイアントが席に着いた。器に盛られたジャパまんは、普段見るものより外皮の色合いが鮮やかに見える。
「あれ、なんかこのジャパリまん、何だか色が綺麗ですね」
「お、よく気付いたね。水辺エリアのジャパまんは他のエリアと比べて色鮮やかなものが多いんだよ。異変前にここがアミューズメント・エリアだった名残なんだろうけどね。コーヒーに合うような甘いやつをチョイスしてきたから、好きなのを選んでよ」
ジャイアントにそう進められて真っ先に手を伸ばしたのはクロウタドリだった。鮮やかな桃色の饅頭を取り、私の横で頬張る。対する私は、腹が空いているわけでもなかったので、コーヒーだけを啜っていた。
「ハネジロちゃんは?」
ジャイアントにそう訊ねられた彼女からは、返答が無かった。私が彼女の方を振り向くと、何か考え事でもしているのか、心ここに在らずといった感じでカップを持ったままぼうっと下に目を伏していた。
「……ハネジロちゃん?」
「えっ、あっ、はい、すみませんっ。えっと――わたしも頂きますね」
彼女は慌てた様子で器に手を伸ばしたが、何を取るか決めていなかったのか、少しの間器の上で手を泳がせる。その様子を見てジャイアントが彼女に、これがおすすめだよ、と器の中を指差しつつそう声を掛けた。
「お魚のすり身が入ってて、ペンギンの子達に人気なんだよ」
「あ、じゃあ、これ頂きますね」
ハネジロは勧められたジャパまんを手に取ると、その小さな口で饅頭にかぶりついた。そして暫く、静寂が訪れる。コーヒーを啜りながら横目で再びハネジロを見た私は、彼女がまた伏し目がちになって暗い表情を浮かべていることに気が付いた。その様子は、明らかに先程までの彼女とは異なっている。とは言え、掛ける言葉を私が何か持ち合わせているわけでもなく、そもそもそういった誰かを気遣うこと自体自分が得意とするものでもないため、私はただ黙って、また視線をカップの方へと戻す。
ふとハネジロとは反対側に視線をやると、クロウタドリが足を組んだまま雑誌をぺらぺらと捲っていた。どうやら壁沿いに山積みにされていた雑誌類から一冊を取り上げたらしい。この空気感の中で部屋の持ち主であるジャイアントの目すら気にせずにくつろげる彼女の神経の図太さには最早感嘆するばかりだ。誰かと一緒にいる時に必ずと言っていいほど訪れる沈黙、気まずさ、居心地の悪さ。私はそういったものに耐えられない。かと言って沈黙を破る勇気もない。だから私はずっと一人で――。
その時、不意に脳裏に見覚えのない情景が浮かんだ。
家族向けレストランでよく見られるような横長のソファが向かい合ったテーブル席。左横には大きめの窓があり、夕方なのか、眩い橙の西日がこちらに差し込んでいる。目前にはテーブルを挟んで、誰かが座っているのだが、逆光で顔は見えない。
これは、何だ? 見覚えのないはずなのに、頭の奥がじんと痺れるような、強烈な懐かしさ、郷愁のようなものを感じる。その情景は一瞬で過ぎ去り、もう仔細な様子は思い出せなかった。
***
――それから更に数分後。
手持ち無沙汰になるのが嫌で、コーヒーを飲み終わらないようにカップをちびちびとやっていた姑息な私だったが、沈黙を破ったハネジロの言葉に顔を上げた。
「……あ、あの」彼女は両手で持っていたカップを膝上に下げ、おずおずといった感じで切り出す。
「ジャイアントさん、わたし、どうしても気になる事があって」
「何だい?」
「えっと……」
ハネジロは言葉に詰まる。ジャイアントは急かすようなことは言わず、彼女が再び口を開くまで待っていた。
「えっと……PPPの皆さんって、元々は4人、だったんですよね」
「えっ――うん、そうだけど……コガタちゃんから聞いたのかな」
「あっ、はいっ、そうです。それで……それで、あの……良かったら、良かったらでいいんですけど、5人目の方が加入した時のライブが見てみたいなって……」
「えっ」
ジャイアントはハネジロの申し出に、カップを置こうとして横のデスクへと伸ばした手を止めた。
「……そう思ったのは、どうして?」
ジャイアントはハネジロを見据えて静かに訊ねた。
「コガタちゃんが、教えてくれたんです。5人目のメンバーが加わってPPPが結成されたときのステージはこれまでにない程凄かったらしい、って。でもコガタちゃんはチケットが外れたうえに、DVDも直ぐ売り切れてしまって手に入らなかったそうで、結局見ることは叶わなかったって言っていました。そう話すコガタちゃんの残念そうな顔が、わたし、どうしても忘れられなくて……だから、もし映像が残っているのなら、お空にいるコガタちゃんにも見せてあげたいんです」
「なるほど、ね」
そう言ったジャイアントの顔には、私が初めに彼女にPPPのことを訊ねた時と同じような動揺の色が浮かんでいた。口元に片手を当てて眉根を僅かに寄せるその様子を見れば、彼女がハネジロに件のDVDを見せることを逡巡しているのは傍目に明らかだった。
「見せてあげたらいいんじゃないの」
そこで、クロウタドリが文字通りに
「そのライブを見ることは、コガタちゃんにとっての大きな願いだったんだろう。生きているうちにそれが果たされなかったのは、彼女にとっても相当無念なことだったはずだ。それなら、ライブを見てその無念を晴らしてあげれば、彼女の供養になるんじゃないかな。だよね、ハネジロちゃん?」
「はいっ、そうですっ」ハネジロは両の拳を握りしめてそう強く返事した。
クロウタドリの言葉を聞いても、ジャイアントはまだ少しの抵抗があるような素振りを見せていたが、最終的に何か折り合いが付いたのか、目を閉ざしたまま何回か頷いて見せた。
「……分かった、今回は特別に、だよ。少し待っててね」
ジャイアントはそう言って立ち上がると、私の右を横切り、部屋の奥に建て積みにされていた段ボール箱の中をごそごそやり始めた。
「そこの中にあるんじゃないの?」私は先程覗き込んだラック下の折り畳みコンテナを指差す。
「ああ、いや、特別なやつはこっちに分けてあるんだ」
彼女はそう言って箱の中を漁り続ける。間も無くして一枚の無機質なクリアケースを取り出すと、その中に入っていたDVDをモニタの下に備え付けられたプレーヤーに挿入する。程無くして、PPPのロゴを中央に据えた華やかなスクリーンセーバーの上にプレーヤーの画面が立ち上がった。
暫くして再生の準備が整ったのか、ジャイアントは手招きでハネジロをディスプレイの前に呼ぶと、席に座らせる。そこで、僕らも見ていいのかい、とクロウタドリが訊ねたので、彼女は、もちろん、とにこやかに頷いてみせた。
「こういうのもあるけど使う?」ジャイアントはラックから引き出した収納ケースの中にこれでもかというほど詰め込まれているサイリウム類を見せる。それらを嬉々として矯めつ眇めつしているクロウタドリとハネジロの二人を私は横目で見ていた。
「あおちゃんは箱推しのブルーでいい?」振り返ったクロウタドリの手の中には青いサイリウムが握られている。
「私は別にいい」未だに温くなったコーヒーをちびちびやっていた私はそう言う。
「折角なんだからさ、ほら」彼女は私の手からカップをもぎ取ると、代わりにサイリウムをねじ込んでくる。
「あなたね――」
「そうですよ、アオサギさんっ」
ぶつけようとした抗議の言葉は、横から差し挟まれたハネジロの声で遮られた。
「皆で明るく笑って見た方が、きっとコガタちゃんも喜んでくれるはず――そうですよね?」
……はあ。彼女の言葉を聞いて、私は軽く溜息を吐いた。そういえば、明るく笑って送り出そう、と提案したのは他でもない私だったか。墓穴を掘ってしまったな、と思いながら、私は重い腰を上げた。
ディスプレイの前に三羽が腰掛けたのを見たジャイアントは、よし、と言って手元のマウスを操作し、画面内のプレーヤーの再生ボタンを押した。そして映像が始まらないうちに、直ぐ体を翻した彼女は、ドアの方に向かって行ってしまう。
「ちょっと、何処行くのよ」
「あー、いやさ、何回も見返したせいでわたしは大体の流れが分かっちゃうんだよね~。君たちの盛り上がりに水を差すのも悪いかなと思ってさ。ちょっくら散歩でも行ってくるから、自由に見ててよ」
ジャイアントはそう言うと、間も無く部屋から出て行ってしまった。まあ確かに、いくら金字塔と呼ばれる小説・戯曲であっても、何度も読んでいくうちに流石に飽きが来てしまったという経験は私にもある。きっとそれと同じことなのだろう、と考えているうちにディスプレイから音声が流れてきたため、私は視線をドアから画面の方へと移した。
画面の中には、ライトに煌々と照らされるステージ上に立つ一人のアニマルガールの姿が映っていた。ステージ後方の少し引いた場所にカメラが設置してあるため、観客席の様子も良く見えるのだが、観客は皆一様に、どういう訳かざわついている。ステージ上にいる彼女はハネジロやジャイアントと同じ様な服装をしているので、恐らくペンギンのアニマルガールなのだろう。しかしながら、声援が聞こえる訳でもないため、どうやらメンバーの一人という訳でもなさそうだ。暫くして彼女がピンマイクを通して話を始めたため、場は水を打ったように静まった。
《……皆さん、本日はPIPライブinナカベチホーにご来場いただき、誠にありがとうございます。開園に先立って、皆様に会場での注意事項を――》
なるほど、開演前に良くあるアナウンスという訳か。クロウタドリもそれを察したのか、背凭れに身を預けてリラックスしている。一方で――ハネジロは違った。彼女は早くもサイリウムとうちわを固く握りしめ、画面を凝視していた。
「ハネジロ、多分まだ始まらないと思うわよ」
「……スさんだ」
「え?」
「この方、PPPメンバーの、プリンセス――ロイヤルペンギンさんですよっ」ハネジロは興奮した様子で私の方を振り向いてそう言った。
「でも、雰囲気的にそうは見えないんだけど」
「きっと、最後に加わった5人目のメンバーがプリンセスさんだったんです。みんな、この時にはまだ分からないから反応できていないだけで」
なるほど、確かにそういうことならば辻褄も合う。5人組でのライブ映像を先に見ていたハネジロだから分かったことなのだろう。
「そして、最後に登場するんじゃなくてわざわざ最初に出てくるってことは……きっと、何か、すっごい演出がこの後にあるってことじゃないでしょうか?!」
ハネジロはちょっと前までの興奮を取り戻したかのように、頬を紅潮させて言う。対する私は、彼女の熱に少し圧倒されていた。
《……と言っても》
画面から聞こえたロイヤルペンギンの声に、ハネジロは再び視線を前に戻す。
《PIPのライブは初めてっていう子も結構いると思うの。どんな風に応援すればいいのか分からないって子も、きっといると思う。ライブは常連だよっていうフリッパーもこんな大きなステージは初めてじゃないかしら。けど、今日のライブを楽しみにしていたのはここにいるみんなが同じはず! だから、ここにいるフリッパーの皆さんが全力でPIPを応援できるように……少しだけ練習をしたいと思います!》
「おーっ!」ボルテージが上がってきたのか、ハネジロが両手に持った応援グッズを掲げて歓声をあげた。
「うおーっ!」そして、何故かクロウタドリも大声を出す。
「ちょっ、急に叫ばないでよっ」
「いいじゃんかあおちゃん、こういう時は一緒に盛り上がらないと逆に恥ずかしいもんだよ」
「こういうの苦手なんだってば!」
「いいからいいから、ほらっ」クロウタドリは肩を組むようにしてサイリウムを持っていた私の右腕に腕を回すと、無理矢理腕を上げてサイリウムを振らせる。別な意味で顔が熱くなってきた私を尻目に、画面の中のロイヤルペンギンは、会場を盛り上げるべく
《私、一生懸命歌いますから! 聞いてくださいっ!》
***
――結論から言うと、ライブが閉幕するまで、私も含めてなかなかに盛り上がった。
勿論、流石にハネジロやクロウタドリのように歓声を上げたりサイリウムやうちわを振ったりということはしなかったが、演目が一つ終わるごとに自然と拍手が出る程には彼女らのパフォーマンスに感銘を受け、気分が高揚した、ということだ。
初めの方は何やら正義対悪の所謂ヒーローショーのようなものがステージ上で繰り広げられ、正直途中で何を見せられているのか分からなくなりそうだったのだが、前座を務めた二つのアイドルグループ――名前は忘れてしまったが――はPPPに比肩する、とまでは言えないが、彼女らに準ずるくらいには歌と踊りに秀でており、正直見入ってしまった。
そして、前座が終わった後に始まったPPP(どうやらロイヤルペンギンが加入する前はPIPと名乗っていたらしい)のメインステージは、なかなかどうして壮観であった。単純な歌と踊りの練度の高さだけではない。パフォーマンス時の表情の作り方、演出、観客席に向かっての細やかなファンサービス、そして要所要所における盛り上げ方。どれをとっても、傑出していた。それらが渾然一体となって生まれる熱狂的な雰囲気は、今まで賑やかな場所を忌避していた私にとって初めて目にするものであったのだが、しかし、不思議と嫌なものではなかった。熱気に飲まれ、興奮の坩堝のなかへと駆り立てられ、駆け抜けた後は程好い達成感と疲労感が残る。その感覚が、一言で言ってしまえば、心地良かった。
と、そのような感想というか批評のようなものを、見終わった後に二人に感想を求められた際に話したのだが、何故かきょとんとした顔をされてしまった。
「え、私、何か変なこと言ったかしら」
「……いや、そんなことないけどさ」
「興奮しっぱなしで、そんなに冷静な見方は出来ていませんでした……アオサギさん、凄いですね」
何か妙なところで感心されていることを悟った私は、何とも言えない苦い顔をした。別に私は純粋に感じたことを述べただけなのだが。
と、そこで、背後のドアのロックが外れ、押し開けられる音がした。私が振り返って見てみると、丁度ジャイアントが部屋の中に入ってくるところだった。
「やあやあ、鳥の子達。ライブはどうだったかな?」
「すっごかったですっ」
ハネジロは目を輝かせてそう言った。実際、私も感銘を受けたことは確かなので、頷いて同意を示した。
「それは結構。ま、あのステージを見て興奮しない子はこのパークには一人たりともいないと踏んでいるからね」ジャイアントは腰に手を当て、自信ありげに胸を張ってみせた。
***
「そういや君たち、今日は泊っていくでしょ?」
ジャイアントにそう呼び掛けられたのは、ライブ映像を見終わってから数時間後のことだ。流石に体力を使い果たしたのか、ハネジロは壁際に置かれたカウチで横になって静かな寝息を立てていた。そもそも彼女は夜行性なので、もともと無理をして起きていたという部分もあるのだろう。クロウタドリは起きてはいたが、ジャイアントからヘッドホンを借りてプレーヤーでPPPの曲を聞いていた。結果として、彼女の問いは自然と読書をしていた私へと向けられる形となった。私はちらりと壁時計に目をやる。時刻は既に17時になろうとしていた。元々倉庫として使われていたらしいこの部屋には窓が無く外の様子を覗き見ることは出来ないが、昨晩の経験と今の季節とを踏まえれば、恐らく既に日は沈み、残光も無くなって完全に暗くなる時分であると容易に推測が付く。私は視線をジャイアントの方へと向けた。
「そう出来るととても助かるのだけど……いいかしら」
「勿論大歓迎だよ。ただ、全員分のベッドは無いから、何人か雑魚寝になっちゃうかもしれないけど」
「ベッドは何人分あるの?」
「2つ隣の部屋が仮眠室になっていて、シングル上下二段のベッドが三つある……んだけど、部屋の半分を倉庫代わりに使ってしまっているから、実質一つしか使えないんだよね。だからベッドで寝れるのは二人だけかな。それと、今ハネジロちゃんが寝ているソファも使えるけど」
「なら、あおちゃんとジャイアントちゃんがベッドを使いなよ」
背後から聞こえた声に私が振り返ると、いつの間にかクロウタドリが片耳のヘッドホンをずらした状態でこちらを振り向いていた。
「私、寝心地が悪いのなら慣れているわよ」
「だからこそだよ。君、ずっとあのベッドとは言えない代物で十年以上も寝ていたんだろう? たまにはちゃんとしたベッドで睡眠をとった方が良い」クロウタドリはヘッドホンを外しながらそう言った。「それと、流石に
私は別に気にしないよ、とベッドを譲る素振りを見せるジャイアントだったが、彼女がベッドを使うことに関しては私も賛成だった。クロウタドリの言うように、家の持ち主を差し置いて私たちがベッドで寝るのは流石に良心が痛む。私自身については別に床で寝ても良かったのだが、実際慣れない長距離移動をしたことで肉体的に疲弊しており、加えてベッドでの睡眠を遠慮しようとしたときに明日も長距離を移動するけどそれでもいいの、とクロウタドリに軽く脅されたため、素直に彼女の提案に従うことにした。
ジャイアントが貰ってきてくれたジャパまんで夕食を済ませたのち、彼女にシャワーを浴びるように勧められた。フェイスタオルにバスタオル、そして石鹸を受け取った私は、彼女の案内に従って階下に降りた。どうやら昨夜私がブランケットを失敬するために立ち入った楽屋の奥にシャワールームがあるらしく、彼女は壁際に押し込まれた機材類や楽屋内の幅広の鏡台を横目に通り過ぎ、突き当りにあったドアを押し開けた。彼女が照明を点けると、コンパクトな脱衣所が眼前に現れる。更に奥の扉を開けた先にはタイル敷きのシャワールームがあり、パーテーションに仕切られた三つ分の半個室があることが見て取れた。廃墟同然の楽屋の奥に存在することが信じられないくらい、脱衣所もシャワールームも清潔だった。
「見ての通り古いシャワールームでさ、不便だと思うけど勘弁してね~。ナカベにあるPPP専用のステージならもっと良い設備が整ってるんだけどね」
「いえ、シャワーが浴びられるだけでもありがたいわ」
彼女が脱衣所を出ていったのち、私は服を脱ぎ、シャワールームへと足を踏み入れた。定期的にジャイアントが手入れをしているのか、水回りはとても綺麗だ。タイルのひんやりとした感覚を足裏に覚え身震いをした私は、急いでシャワー室まで行き、混合水栓の温水バルブを捻った。暫くして温水が出てきたので、私はそれを頭から流した。全身に染み渡るようなその温かさに、つい声が洩れてしまう。
温かいシャワーを浴びたのなんて、一体何時ぶりだろうか。異変後は専ら、身体は石鹸を溶かした水に漬けたタオルで拭き、髪は常温の水で洗い流すしかなかった自分にとって、まさにこのシャワーは極楽だった。
シャワーを浴びた後は、脱衣所に備え付けられていた櫛とドライヤーを使って入念に髪を乾かした。これぞ電気や文明の利器により齎される愉楽。それに浸りつつも、私の頭の中にふと疑問が湧いてきた。
――ハネジロは、自らの願いを本当に叶えられたのだろうか。
異変後においてPPPのライブを直接見ることは叶わないので、その代替案としてライブ映像の視聴を彼女に勧めたわけだが、果たしてそれが本当にコガタの供養になっているのかという点については、甚だ疑問であった。勿論のこと、最も彼女のことを想っているハネジロがあれで満足できたというのなら、それで一件落着なのだろう。しかし、昼間に見た彼女の浮かない表情を見る限り、どこか引っ掛かるところがあった。
と、そこまで考えて、私は首を左右に振った。止めよう、こんなことを考え出すときりが無い。何より、あまりいい言い方では無いが、そもそもハネジロへの協力は慈善的な側面が強い。彼女が満足したなら、これ以上の深入りをする義理も無いという訳だ。私はドライヤーの電源を切ると、電気を消し、同室を後にした。
***
仮眠室へ行くと、ジャイアントが既に二段ベッドのメイキングを済ませていた。確かに仮眠用の簡易なベッドだったが、長年使っていたあの椅子を並べてその上にドレープを敷いただけのものと比べれば、十分すぎる程だ。
「アオサギちゃんは、上と下、どっちがいい?」
「私はどっちでも構わないわ」
「うーん、じゃあ君は、上ね」
彼女にそう言われて頷いた私は、横に架かっていた鉄製の梯子を使って、上段へと昇った。体をベッドの上に横たえてみると、シーツの肌触りの良さと、厚めのマットレスの柔らかさを感じた。当たり前だが、ちゃんと寝る為に作られたものの上で睡眠をとることが出来るという事実に、少しの感動を覚える。クロウタドリにアーケードから連れ出されてからというもの後悔が絶えなかったが、今回ばかりは彼女に感謝しなくてはならない。
「あなたはシャワー、浴びないの」
「わたしはクロウタドリちゃんが浴びてきてからにするよ~」
ジャイアントはそう言うと、二段ベッドとは反対側に設えられていた本棚から適当な漫画を抜き取り、下段に寝転がって読み始めた。私も横になって、頭を柔らかい枕に預ける。それから数度寝返りを打ってみて、身体が痛くならないということに再び感動を覚える。仰向けに戻った私は、ぼうっと天井を眺めた。公共施設によく見られるようなトラバーチン模様が、眼前一面に広がっている。そういえば、あの地下室の天井も同じ模様だったっけ。けれど今は、それを眺めていたあの頃とは違って、少し心が安らいでいた。慣れない旅で体も心も疲れているはずなのに、何故だろうか。私は瞼を閉じて、そんなことをうつらうつらと考えていた。
どれくらい、経っただろうか。再び瞼を開けた時には、室内は薄暗くなっていた。左上に目をやると、消灯した電灯に塗られた蓄光塗料が青白く光っていた。どうやら、いつの間にか寝落ちしてしまっていたらしい。私は少し輾転としたのちに、横向きになり、再び眠ろうと試みる。と、そこで下から聞こえた声に、私は瞼を上げた。
「……アオサギちゃん、まだ、起きてる?」
私が上で動いた音で起きていることに気が付いたのか、ジャイアントがそう呼び掛けてきた。
「ええ」
「そっか……ごめんよ、真夜中に。――もし良ければ、ちょっとだけ、話をしても良いかな」
私は彼女の申し出を了承する。いつもなら他者との会話に抵抗がある私だが、依頼を聞いて貰った上にこんな素晴らしい寝床まで提供してもらっている身だ、今はそうするのは吝かではなかった。
「アオサギちゃんってさ」
「なに」
「アイドルとかその辺のジャンル、あんま好きじゃないでしょ」
図星を指されて私は言い淀む。その通りだった。
「……まあ、白状してしまえば」私はおずおずと言う。
「あはは、別に怒ってるわけじゃないから安心してよ」ジャイアントはそう言って、出会った時のように朗らかに笑った。
「言ったでしょ、わたしは誰かの考えていることを感じ取るのが得意だって。君、この部屋に来た時からずっと微妙な顔つきをしてたから、そうなんだろうな~って思ってさ」
それは、多分ハネジロに依頼された内容をどう解決しようか考えあぐねていたことに起因するものではないか。……まあ、実際最初に部屋の中を見たときに若干引いたというのは事実だけど。
「でも」取り繕う訳ではないが、私は先程兆した感情を率直に伝えた。「でも、知らなかった世界に触れて、感銘を受けたというのも事実よ。きっとこういうことが無ければ私はアイドルなんて知らなかったし、知ろうともしなかった」
少なくとも、あの隠遁的な生活を送っている限りは、きっと。クロウタドリが私に告げた「広い世界を知る」とは、こういうことなのかもしれない。
「それと、クロウタドリがあなたに言ったこと、代わりに謝罪するわ。……本人は悪気が無かったのかもしれないけれど、彼女はどうも無神経なところがあって」
「別に謝らなくたっていいよ――まあ、あの子の疑問も尤もなところがあるからね」
彼女はそう言ってから、独語を洩らした。
「推し変か……考えたことも無かったな」
それから暫く間が空いた。もしかして眠ってしまったのか、と思ってベッドの下段に声を掛けようとしたところ、ジャイアントの声が飛んできたので私は口を噤んだ。
「アオサギちゃん。もう一つだけ、聞いて貰ってもいい」
私が了承の返事を返すと、彼女は、ありがと、と短く言ってから静かに話し始めた。
「わたし、さ。ずっと後悔していることがあって」
その声色は先程とは異なって真剣みを帯びていたので、思わず先程よりも下に耳を傾けてしまう。
「昔は、わたし、皆より一歩引いたところでフレンズの皆のことを見るのが好きだったんだ。――ああ、一歩引いたって言っても、輪に入れなかったとか、偉そうに外から口出ししてたとか、そう言うんじゃないよ。フレンズの皆が成長を遂げて、自分たちの力で困難をどうにかしちゃうところを見るのが、好きだった。わたしもさり気なく皆のことをアシストしたりして、皆が成功に喜んでいる所を、陰から見たりしていたんだ」
「……縁の下の力持ち、みたいな感じかしら」
「ま、そういうポジションに憧れていた部分もあったかもね」ジャイアントは、そう言って微かに笑った。
「勿論、フレンズやパークそのものが危機に陥った時には、なるべく主体的に動き回ろうと心掛けていたよ。パークのグランドオープン前に起こった一連のセルリアン騒動や、その後の諸々の問題に対してもね。……でも、動く暇さえ与えてくれなかったのが、あの異変だった」
彼女は声のトーンを落としてそう言った。異変という言葉が出てきて、場の空気が少し張り詰めるのが分かった。
「あの日、わたしは試験解放区に居たんだ、少し野暮用があってね。わたしにはちょっと手のかかる後輩たちが居てさ、その子達が別の地方に出向く用事があって、勿論わたしも後から向かうつもりだったんだけど、いい機会だからわたし無しで一連の準備をしておくように話しておいたんだ――もうその子達も、一人前と言っていい程だったからね。勿論、彼女たちの助けになるように現地での諸々の手配は済ませておいた。要するに、いつも通りちょっとだけ手助けをしたうえで、皆が困難を乗り越えていくところを、見ようと思っていたんだよ」
そこで、彼女は少し言葉を詰まらせる。大丈夫、と声を掛けようかと思ったが、下手に言葉を挟むのも何か憚られて、私はただ黙って彼女が言葉を継ぐのを待っていた。
「そして、わたしが彼女たちのもとに向かおうとしたときに、あれが起こったんだ。パークはあっという間に混乱の渦に包まれて、解放区から出ようとしたわたしも、パークの職員に引き留められてしまった。シェルターに押し込められたあとで、必死に自分に言い聞かせたんだ。あの子たちは今まで沢山の困難を乗り越えてきたんだから、今回だって大丈夫、仮に彼女達だけではダメだったとしても、きっと他のフレンズ達や、探検隊、警備隊がいれば、前みたいに何とかしてくれる、って」彼女は一息にそこまで言うと、少し間を置いて、語を継ぐ。「……でも、駄目だった。何もかもが手遅れで、どうにもならなかった。あの異変は、躊躇うことなく、このパークの全てを奪い去っていったんだ。わたしは――わたしは無力で、ただ目の前で起こる惨状を見ていることしか出来なかった。縁の下の力持ちになんかなれなかった。先輩だなんて皆に呼ばれていたけど、論外だよ。姑息で、無力な傍観者──それが本当のわたし」
そこで、言葉は途切れた。暗闇と静寂の中で、私たちは共に暫く押し黙っていた。
「……その子達との関係も、PPPが繋いでくれたものでさ。だから、単純に好きっていう理由以外にも、そういう後悔もあって、簡単には推し変出来ないんだよ。嫌な言い方をしてしまえば、ある種の
そういう彼女は、力なく自嘲気味に笑いを零す。
「……そんな大事なこと、私なんかに話してよかったの」
「そりゃ、勿論」
「私、何も気の利いたことは言えないのよ」
「分かってるよ。アオサギちゃん、不器用だもんね」
私は少しむっとする。自覚している部分ではあるが。
「ふふ、ごめんね、ちょっぴり冗談。でもさ、こういうのって、聞いて貰えることが大事なんだよ。ずっと独りで抱え込んできたからさ、一度吐き出したいなって。君も生き残りなら、分かるでしょ」
私は今朝方したクロウタドリとの会話を思い出していた。生き残りのアニマルガール達は等しく孤独だ。確かに、こういった機会でもなければ、打ち明けられない気持ちも多いんだろう。
無言を同意と受け取ったのか、ジャイアントは再び軽く笑うと、シーツの上で数度輾転とする音が聞こえた後に、静かに言った。
「おやすみ、アオサギちゃん」
「……おやすみなさい」
私はそう言うと、再び仰向けになる。ふと電灯の方に目をやると、既に青白い残光は消え去っていた。
―――――――――――――――――――――
ロイヤルペンギンのセリフは、「けものフレンズ3」【メインストーリー シーズン1/5章/9話/バトル1】のダイアローグより引用。
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