Blackbird singing in the dead of night ③

「久しぶりだね、あおちゃん」


 目の前の謎のアニマルガールからそう言われて、私は思わず眉根を寄せた。

 久しぶり?

 『久しぶり』とは暫く会う機会がなかった知人に対して使う言葉だ。少なくとも彼女と以前に会ったことがあるという記憶は一切無いし、気安く『あおちゃん』などという渾名で呼ばれる間柄ならば流石の私でも失念してしまうことはない。よって恐らく彼女は──


「人違いをしてるんじゃないかしら」

「おいおいおいおい」

 彼女はオーバーリアクション気味に両手を広げて非難の色を見せる。いや、そんな反応されたって知らないものは知らないのだけど。

「僕だよ、僕、ほら覚えているだろ、女学園のさ」

 女学園という言葉が出て、私は眉間の皺を更に深くした。ジャパリ女学園──異変前に私が通っていた、初等から高等までの一貫教育を行うアニマルガール専用の教育機関だ。卒業したのはもう20年近く前になるため、流石に学校に在籍していた頃の記憶は曖昧になっていた。もしや、その記憶の曖昧さを奇貨として金を巻き上げてやろうという新手の詐欺だったり──は流石に無いだろうか。よく考えれば異変後のパークにおいては貨幣経済などとうに廃れている。巻き上げられるとするなら今パークで一応の貨幣的存在として流通しているジャパまんだが、あれは食品であるため貯蓄や大量取引に向かない。だが、念の為探ってみる。

「もしかして、詐欺だったり」

は君だろ。というか、僕を疑うにせよもうちょっとオブラートに包みなよ、あおちゃん」

 彼女は呆れたように肩を竦めた。そして、矢庭に私の背後に回ったかと思うと、目線を上下に動かして私の姿態を観察し始める。

「きゃっ、ちょ、ちょっと何なの」

「いや、君も昔と変わらないなと思ってさ」

 私は急いで体を翻し、再び彼女に正面を向ける。彼女にとって私は懐かしい旧友なのかもしれないが、彼女のことを覚えていない私にとってみれば、彼女は依然、夜中に他人の住処に断りもなしに入ってきた闖入者である。私は警戒を解かず、じっと彼女の方を見据えた。もし何かがあれば、今手に持っているこの燭台を投げつける外ないだろう。私にそれだけの勇気があればの話だが。


「……はぁ、分かったよ。じゃ、改めて自己紹介するからさ」

 私の態度に折れたのか、彼女は軽く溜息を吐いてそう言った。

「僕はクロウタドリ。どういう訳か君は忘れているようだけど、君の女学園時代の旧い友人だ。改めてよろしく頼むよ」

 彼女が右手をこちらに差し出してくる。未だに彼女のことを何処か怪しく思っている私だったが、流石に握手を断るのも気が引けて、ついその手を握ってしまった。

「……よろしく。同じ生き残りのアニマルガールに出会えたことは素直に嬉しいんだけど、生憎、今の私は酷く疲れているの」私はわざとらしく目を擦って見せる。「同窓の会なら明日に日を改めてくれないかしら」

「申し訳ないけど、それは出来ないんだ」

 クロウタドリは間を置かず私の提案を却下した。突然真夜中に押しかけてきてそれはないだろう、と流石の私も少しむっとしてしまう。

「本当に眠いのよ。それに、こんな夜中に人の家を訪ねてくるなんて、流石に非常識じゃないかしら」

「クロウタドリは真夜中に囀るもんだぜ、あおちゃん」

 答えになっていない答えを返すと、彼女はカウンター席に向かいつつ、別の燭台は無いのかい、と私に尋ねた。少し間を置いて、キッチンにあるシンクの横に掛かっているわ、と返す私は、お人好しが過ぎるんじゃないのか、と軽く自分を詰る。

 クロウタドリはマッチを擦ってもう一つの燭台に火を灯すと、それをカウンターの上に置き、最初と同じ様に背の高い席に腰掛けた。彼女はカウンターの上に置いておいた三冊のうち一番上の本を手に取ると、外側のケースを幾度か振って中身を取り出す。そのままぺらぺらと何頁か手で繰りながら、彼女は徐に切り出した。

「実は、君に折り入って頼みがあるんだ」

「頼み?」

「そうだ。君には初等課程から高等課程に至るまでずっと一緒だった幼馴染がいるだろう」

「え――いや、幼馴染なんていたことないけど」

「それがいるんだよ、君はまた忘れているようだけど」

 頭の中が混乱してくる。普通の友人ならまだしも、幼馴染のような縁深い存在を忘れるということがあり得るのか? いや、それは無いと信じたい。もし実際に私に幼馴染がいて、それを忘れてしまったというのなら、私は高確率で記憶喪失か若年性健忘になっていると言えるだろう。というか、あれだけ重大な異変の内容を所々忘れていることも相俟って、そうなってしまっている心当たりがありすぎる。私が不安を感じてどぎまぎしていると、それを見かねたのかクロウタドリが助け舟を出す。

「彼女の名はクロツグミ。どうだ、思い出せないかい」

 その名前は僅かにだが懐かしい響きがするような気もした。しかしこれが錯覚なのかどうかすら判然としない。暫く考えたのち、私は正直に「ごめんなさい、分からないわ」と返した。

 クロウタドリは私の返答を聞いて、そうか、とだけ言うと、そのまま顎に片手をあて、沈思し始めた。別に私から始めた会話ではないのだが、こうも思い出せないとなると何かばつの悪い気がする。この気まずい雰囲気を取り敢えずどうにかしようと、今度は私から彼女に質問した。


「……あの、それで今、クロツグミ、さん? はどうしているのかしら」

「死んだよ」

「あぁ、そう――え?」

「亡くなったんだ。2年前にね。だから僕だけがここにいる」

 クロウタドリは表情を崩さず、何でもない事のようにそう言った。

「僕も彼女に良くしてもらっていた。君を含めた三人で遊んだことだって何回もある。でも、彼女にとって一番大事だったのは君だろうから、そのことを直に伝えたかったんだ」

 彼女は本から顔を上げると、改めてこちらを見据えた。彼女の目は、訴えるようで、しかし私を糾弾するような色ではない。何やら決意めいた意志が、黄金の輪を湛えたその双眸にあるようだった。

 クロウタドリは体を少し捩って袈裟懸けにしていたらしい黒色のショルダーバッグを手前に持ってくると、中を少し探し、同じく黒色の直方体を取り出した。結んであった紐を解き、慎重な手つきでその箱を開けた。箱の中身は少し萎れたイベリスの花で埋め尽くされており、その上には翼を畳んだ状態で横たえられた、小鳥の姿があった。恐らく、この小鳥こそが、クロツグミなのだろう。

「ツグミちゃんは、セルリアンに輝きを全て奪いつくされてしまったんだ。その上、頭を酷く傷つけられて、それが生物としての彼女の命をも奪ってしまった」

 クロウタドリは愛おしそうに小鳥の遺骸を撫でながら言う。よく見てみると、確かに頭蓋に深い裂傷があるのが見て取れた。私は彼女とその遺骸を交互に見比べてみるのだが、感傷的な思いは湧いてこなかった。かつての幼馴染の遺骸であるということが、やはりピンとこない。

「あの、それで頼みっていうのは」

 私は緊張しつつ彼女に訊ねる。金銭ではなくとも、何らかを要求する不平等な契約を持ちかけられる可能性もまだ消えていない。同情を掻き立てる話や仕草は、詐欺師の典型的な手口ではなかったか。

 クロウタドリは小さな棺桶となっている箱から顔を上げると、真剣な眼差しで私にこう告げた。


「僕と一緒に、探しに付き合って欲しい」


 暫しの沈黙があって、私の口から出たのは、はあ、という間抜けな相槌だった。

 「骨を埋める場所」や「終の住処」ではなく、死に場所──則ち、自らの命を終わらせる場所。それを一緒に探して欲しいと、たった今彼女は私に申し出たのだ。仮に付き合って死に場所を見つけたとして、私はどうする? 彼女が空に昇るところを見送るのか? それとも私も一緒に身を? 後者はあり得ないとして、前者でも自殺幇助だ。頭の中の整理が終わってようやく私は言葉を返した。


「えっ、いやっ、いやいや、し、死ぬってこと? その、幼馴染のことも覚えていないような薄情な私が言えることではないかもしれないけれど、後追いはやめた方が、それに私だって法に触れることは」

「いきなり何言ってるんだ君は」

「それはこっちの台詞よ! 死に場所探しって、要するに、えっと……あなたが自害──する場所を探す、そういう意味でしょ」

「そんな訳ないだろう。この子の死に場所探しだ」

 クロウタドリは手に持っていた箱を軽く持ち上げて見せた。それは他でもない、クロツグミの遺骸が入ったものだ。

「……それなら、死に場所じゃなくて、墓、だとか、弔う場所、とかの方が適切でしょ」

 少し冷静さを取り戻した私は、クロウタドリに落ち着いてそう指摘する。しかし彼女は、至って真剣に返答した。

「いや、死に場所で合っているよ。僕はね、あおちゃん、しっかりと弔ってあげるまでツグミちゃんは死んでも死にきれていない気がするんだ」

 クロウタドリはそう話しつつ、箱を閉じて紐を結い始める。

「魂が宙ぶらりんになってしまってるんだな。あの子の輝きが、還る場所を求めて彷徨っている」

 随分と観念的な話だな、と私は思う。どちらかと言うと唯物思想の方がしっくりくる私としては、魂や輝きと言われても困惑するばかりだった。

 クロウタドリは箱をバッグに仕舞い終わると、席を立ち、再び私のもとへとやってきた。

「……ずっと探していたよ。こんなところにいたんだね」

 彼女は僅かに目を細めて、微笑を湛えつつそう告げる。

「僕はこの喪の仕事を終えなくてはならない。その為には彼女と最も関わりが深かった、君の助けが必要なんだ」

 再び彼女は右手を差し出す。今度は私の意志を確かめるために。


「どうか、手を貸してくれないか」



***



 差し出された手を見て、私は少し考える。

 いや──別に考えるまでも無いではないか。

 間も無くして腹を決めた私は彼女の前へと進み出て、でその手を握った。


「よし、これで――」

「これで交渉ね」

 私の言葉を聞いてきょとんとするクロウタドリ。私は手を引き抜くと、呆けている彼女を尻目にベッドに腰掛ける。

「ちょっ、いやいやいやいや!」

「何よ、騒がしいわね」

「今のは完全に協力してくれる流れだったろう! というか、握手までしたのに」

「左手での握手は物別れを示す。知らなかったの?」

 慌てふためく彼女を尻目に、私は軽くシーツを整え、下にずり落ちていたドレープを上に引き揚げた。そのまま体を横たえ、それを頭まで被る。

「なんで寝ちゃうのさ」

「疲れてるってさっきも言ったでしょう。というか、まさか本気で私があなたの提案に乗るとでも思ってたの?」

 それに、と私は付け加えて言う。

「そもそも、あなたの話はどうも胡散臭いし、魂だの輝きだの、内容も抽象的でよく分からない。第一、あなたが本当に私の友人なのかどうかすら怪しいんだから──誘いに乗る理由が何一つ無いわけだし」

 私は一気にそうまくしたてると、目を閉じて入眠の準備に入る。眠りが浅いとまた嫌な夢を見るかもしれないが、寝不足になるよりはマシだ。クロウタドリも諦めたのか、返答をよこすことは無かった。前日からの疲れの蓄積も手伝って、あっという間に睡魔が襲ってくる。そしてそのまま、眠りの底へ落ちていこうとして――


 突如として私の顔を覆っていたドレープが引き剝がされた。

 漫画やアニメでよく寝覚めの悪い子供を両親が無理やりたたき起こすというシーンがあるが、まさにそんな感じだった。睡眠妨害をしたのは勿論クロウタドリで、憮然とした表情で引き剥がしたドレープを抱えている。

「な、何するのよっ」

「あおちゃん――」

 クロウタドリはドレープを置くと、燭台の明かりを私に差し向けた。一度暗順応した目にはまぶしすぎて、つい目を細めてしまう。

「河岸を変えるぞ」

 彼女はそう言ったかと思うと、私の両手を掴んでベッドから起き上がらせた。文句を言う暇もなく、そのままずいずいと出口の扉がある方へと私を引っ張っていく。クロウタドリが扉を開けると、寒風が足許を潜り抜けた。見た目に反した強い力で彼女は私を階段の上、未だ暗いアーケードの中まで連れ出すと、ふと東に当たる吹き抜けの広場の方を一瞥し、そちらを指差して溌剌とした声で言った。

「そら見ろ、あおちゃん、もう夜明けだ」

 灰で厚く塗り固められた地面を眺めていた私は、重々しい頭を上げる。地平線は見えないが、確かに天蓋の向こうに夜明け前の薄暮が見えた。

「いつもはこんな早い時間に起きないのよ」

 私は苛立ちを隠そうともせずに刺々しい口調でそうぼそりと呟く。対するクロウタドリはそれを意にも介さず、私を置き去りにして広場の方へと歩き出した。彼女は途中でこちらを振り向くと、一緒に来い、と言わんばかりの視線を投げかけてくる。別に無視して部屋に戻っても良かったが、戻ったところで先程のように再び上へと連れ出されることは分かっていたので、私は嫌々ながら彼女の方へと歩き出した。昨日に続いて今日も厄日だ、と私は寒さに身を強張らせながら心の中で独り言つ。

 広場に至るまで、私たちは無言で歩いた。数メートル先にクロウタドリ、その後ろをおずおずと付いていく私、といった感じに。太陽が昇り切っていない為まだアーケードの中はかなり寒く、せめて外套を持ってこさせて欲しかったと私は思った。凍てつく澄んだ空気の中に固結して砂利のようになった灰を踏み締める音だけが反響している。クロウタドリは寒くないのか、両手を頭の後ろに組んで悠々と前を歩いている。時折頭を傾げてこちらの様子を確認するので、その度に私は抗議と非難の色を目に浮かべてやった。


 間も無く広場へと辿り着く。いつもは勢いよく水を吐き出している中央の噴水も、今朝の寒さにより噴出口付近が一部凍りつき、水をちょろちょろと垂れ流すだけになっていた。私が視線を上に移すと、そこには藍とも紺ともつかない明け方の晴れ空が広がっていた。空は東にかけて淡い青へと遷移し、天蓋付近では朱色も差しているのが見えた。稜線から日が出たのか、僅かに浮かぶ積雲に鮮やかなハイライトが掛かる。明るい星も未だに視認できるが、太陽が昇るにつれ間も無く見えなくなってしまうことだろう。

 普段見慣れない朝ぼらけを観察していた私がふと地上に視線を戻すと、クロウタドリが広場の周縁に沿って奥へと歩いていくのが見えた。広場に向けて口を開ける一つ目の入口を横目に見ながら通過し、そして二つ目に差し掛かった所で、彼女は足を止めた。そして、彼女はそのままふらりと吸い寄せられるように右へと進んでいった。

 不意に脈が早まるのを感じる。


 。私はその先に何があるのか知っている。


 私はクロウタドリのあとを追って反時計回りに広場を進むと、夢の中でそうしたように入口の前で立ち止まった。

 大丈夫、これは現実、現実だ――私は胸に手を当ててそう自分に言い聞かせる。夢の中より鮮明に聞こえる鼓動の音を聞きつつ、何とか心を落ち着かせようと深呼吸をする。しかし、早鐘を打つ音はそう簡単には止まらない。滲む嫌な汗を感じて耐えられなくなった私は、思い切ってアーケードの入口の前へと飛び出した。


 私の目に飛び込んできたのは、アーケードが退廃していることを除いて、殆どが夢の中で見た景色と同じであった。

 入口から少し進んだ先でクロウタドリがこちらに背を向けて立っており、その奥には巨大な穴――あの夢で、そしてあの日に悍ましい黒塊が現れた――が口を開けていた。大穴の向こう側には日の当たらない深淵が続いている。私が立てた足音に気付いたのか、彼女がこちらに振り向く。当然ではあるが、彼女の顔がしっかりと視認できたことに私は少し安堵した。

「ちょうど良かった、あおちゃん。この穴は何だい」

 クロウタドリは大穴を指差してそう訊ねる。私は返答に窮した。というのも、事実を伝えたとして、彼女が信じてくれるかどうか不安だったからだ。何せこの穴の直径はアーケードの端から端まである。仮に私があの日見たものが本当にセルリアンなのだとしたら、あれが規格外の個体であることは間違いないだろう。そんなものが地中から出現する――荒唐無稽だ。しかし他の上手い話が頭の中に浮かぶわけでもなかったので、私はおずおずと彼女に事実を告げた。

「巨大セルリアン……と思しきものが空けた穴、よ」

「巨大セルリアン?」

「そう。幅がアーケードの端から端まであって、頭があの天井まで届くくらいの」

 私は両手で山を作るようなジェスチャーをして、セルリアンを形容して見せた。稚拙だがこれ以外にあれを表す方法がない。私の説明を聞いたクロウタドリは、笑い飛ばすようなことはせず、先程と同じように口元に片手を当てて何やら考え事を始めた。一笑に付されなかったことはありがたかったが、そう考え込まれるとそれはそれで困るものだ。

 1分と少しばかり経っただろうか、クロウタドリははたと気付いたように顔を上げると、私に視線を向けて口を開いた。


「あおちゃん、もしかして君は──」


 彼女が何かを言いかけたその刹那、私の背筋に俄かに悪寒が走るのを感じた。何か──何か嫌なものがやってくる予感がした。

 そして、間を置かずしてその予感は的中した。足許に兆す微かな揺れ。正に夢の中で感じたのと同じ感覚だ。揺れは次第に増幅していき、それに従ってアーケード全体から軋む音が鳴り始めた。


 考えるより早く足が動く。そう、これは夢じゃない。現実だ。現実だから──ちゃんと体を動かせる。私はクロウタドリのもとに駆け寄ると、揺れに気付いて周囲を見渡していた彼女の腕を掴んだ。

「ちょっ、どうしたんだよ」

 クロウタドリが驚きの声を上げる。それに応えることなく、私は彼女の体を出口の方へと引っ張っていこうとする。

「あおちゃん、痛い、痛いって! 急にどうしたんだ」

「来ちゃうからっ」

「何が」

「出て来るのよ──あの穴から」

 私は説明するのももどかしく、ただそう言って背後の大穴の方を指差した。もしあれが予知夢だったのなら、同じことが起こるはずだ。穴の前に立つ彼女を見て既視感を感じた時にどうしてそれに思い至らなかったのかと、私は内心後悔する。

 揺れは未だに収まらず、流石に看板が落ちたり天蓋の板が外れたりといったことは起こらなかったが、軋む音は大きくなってきていた。危機感が増す私と対照的に、クロウタドリは背後を注視しつつ中々前に進もうとはしない。それに苛立ちを感じたが、とは言え出口はもう目前に迫っていた。あと少し、と思い渾身の力で彼女を引っ張ろうと思った時、突然腕の感覚が軽くなる。驚いて背後を振り向くと、そこには私の手を振り払い、穴の方へと向かっていくクロウタドリの姿があった。バランスを崩した私は揺れる地面に尻餅をつく。固まった灰と砂利が臀部と腕に食い込むが、状況が状況なので痛みを感じなかった。

 穴の方へと向かっていく彼女は、体幹が強いのか体の軸が揺らがない。そして、穴へと至る手前で、突如としてその両手が微かに光り始めたのが見えた。その不可解な光景を私が呆然と眺めていると、彼女は自らの両翼を展開し、上へと飛び上がった。天蓋の少し下で静止したのち、彼女は下、則ち穴の中を覗き込む。私も再び視線を穴の方へと転じたが、何かが飛び出してくる様子は無い。

 

 そして──そのまま何事もないまま、揺れは静かに収まっていったのだった。

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