06 二度と僕にそんな口を利くな
〈暁の湖面〉亭は、あまり少年の気には召さなかったようだった。
シュナードとしては、格安でそこそこ清潔なこの宿を結構気に入っているのだが、小さいながらもひとりで小屋を使っていたレイヴァスには、シュナードの一室がとてつもなく狭苦しく思えるらしい。
もっとも、それなら出て行って「ご立派な」宿を探すか、あの小屋に戻るか、それとも野宿でもしていろ、と言ってやれば意外なほどおとなしくなった。
(何だかんだと、心細いのかもしれんな)
(怖くはないと言い張っちゃいるが……たとえ間違いだろうと自分が狙われているかもしれんとなれば)
アルディルムの姓がただの偶然の一致なのか、それともレイヴァスが嘘をついている、または知らないだけで本当にアストールの子孫なのか、それは判らない。だが「何者かがアストールの子孫を殺すために獣人を放った」という考えは少年にとっても「合理的」だったようだ。
自ら納得いく考えであればこそ、身の危険を覚えることもあるだろう。
(どうやら自慢の魔術も心許なく感じて、俺様を頼りたいと思いはじめたか、うんうん)
部屋にただひとつある椅子に当然のように座ったレイヴァスは相変わらず可愛くないが、だからこそ彼は無理矢理、そんなふうに考えようとした。
「それで? これからどうすんだ」
相談をしておこうと、シュナードは声をかけた。
「とりあえず、本を取ってくる」
「……は?」
何を言われたか理解しかねて、シュナードは口をぽかんと開けた。
「貴重な書物が何冊かある。先ほどはあの女と話すのが嫌で離れてしまったが、本当はそれらを持ち出したかったんだ」
「ってことは、あの小屋にか?」
「そうだ」
さらりと少年は答えた。
「そろそろ連中も仕事を済ませただろう。あれらの本は常人には何の価値もあると見えないから、目も向けられていないはずだ」
言いながら――〈汚れ屋〉たちが何か盗むかもしれないということは考えたようだ――レイヴァスは立ち上がった。
「お前はどうする、護衛候補」
「まあ、待て」
シュナードは両手を上げて制するようにした。
「落ち着け」
「別に取り乱してはいないが」
「何も急いで行く必要はないんだろう? 飯でも食って話をしよう。俺は少々、休みたい」
「僕は空腹など覚えていない。こないならそれで一向にかまわない。僕ひとりで行く」
「いや、食べれば空腹だったと気づいたりするもんだ。休め。な?」
こんなふうに言うのは、どんなものだか知らないが書物など手にしたら、レイヴァスはまたそれを読むばかりでろくに話をしないと思ったからだ。書物を持っていなくても大して話さないが、少なくとも「こっちの話が全く聞こえていないんじゃないか?」とは思わずに済む。
「僕はあまり食べないんだ」
そんな発言がきた。
「一日や二日、何も食べなくてもどうってことはない」
「……いや、お前、それはおかしいぞ」
呟くようにシュナードは言った。
「大げさじゃないなら、小食なんて言葉でも済まないだろう。まあ、それでも平気だって体質もあるのかもしれんが、食べんと頭も働かんぞ」
「お前のようなここの」
と、彼は頭をとんとんと指した。
「鈍い者と一緒にしないでもらおうか」
「ああ、お前さんに比べたら頭が鈍くて結構だ。だがな、それならちゃんと食えばもっと働くぞ。そのお見事で明晰な頭脳が」
「僕はずっとこれでやってきている。何も問題はない」
「阿呆。だからそんなにひょろっちいんじゃないか。こい、嫌でも食わせてやる」
「何をする! 放せ!」
腕を捕まれたレイヴァスは怒りのこもった声を出した。
「全く。剣を教えるどころじゃないな、こりゃ」
「教わる気はない!」
「判ってるって。怒鳴るな」
片耳をふさいでシュナードは言った。
「書物は逃げん。それに、盗まれそうにもないんだろう? なら少し、俺の飯につき合ってもいいじゃないか」
「どうして僕がお前の食事につき合う必要がある」
「お前なあ、人の部屋を借りておいてその言い草もないだろう。〈損得の勘定〉って話をするなら、勘定を合わせようとするのが大人の態度ってもんで」
「大人だの子供だのという煽りにはもう飽きた」
「ぐっ」
どうやら読まれていたようだ。いいやり方だと思って頻繁にやり過ぎたかもしれないなとシュナードは反省した。本当に子供だって、繰り返されれば巧いこと言われているだけだと気づくだろう。
「僕は、お前が行きたくないならかまわないと言った。お前も、僕が食べたくないと言っているのだから放っておけばいい。それが」
レイヴァスは口の端を上げた。
「大人の対応と言うものではないか」
「ぐぐっ」
続けて、してやられた感じがした。
「ああ、もう、明日だ。明日の朝になったらつき合ってやる。だから今夜はもう、飯を食って寝るんだ」
「いいかシュナード。これだけは言っておく」
じろりと、いつもに増して強い睨みがきた。
「僕は命令をされるのが大嫌いだ! 二度と僕にそんな口を利くな!」
「あー、はいはい。悪かった。気をつける」
面倒臭い奴だ、とシュナードは内心で舌を出した。
「だが少しだけ休まんか?」
「好きにしろと言っている。僕は行く」
「ああ、もう」
シュナードは頭をかきむしった。
(ま、ここまで言い張るなら先に本でも何でも、取ってきちまった方がいいかもしれんな)
(俺を無視して読みふけろうとしても、アストールがどうのと連発されたら無視しきれずに返事のひとつもするだろうし)
罵倒であろうと反応はありそうだ。
(俺には、そんなに急いで話したいこともない)
(ない、んだが……)
何かが引っかかる。何だろう、とシュナードは考えた。
(いまは嫌だ、あとならいい、と俺が思う理由は何だ? 単に疲れているから休みたいってだけか?)
確かに、思いがけない襲撃からミラッサ探し、カチエとのやり取りで疲れてはいる。だが腰を下ろしたいと思うほどではない。仮にも鍛えているのだし、まだあと数刻は歩き回ったってふらつくようなことはないだろう。
なのに、何故。
(……判らん)
理由は、特に思いつかなかった。
強いて言うとすれば。
(
何の根拠もない、ただの「感覚」。「そんな気がする」という曖昧な答え。
勘に頼って行動すれば、手酷い反撃も食らう。しかし全く理に適わないのに、勘に従って選んだ道が命を救うこともある。
これが何なのかシュナードは知らない。単なる偶然、運だと言ってしまえばそれまでだ。
ただ、知っている。
時折働く、根拠のない「勘」が彼をここまで生き延びさせてきたということ。
(だが生憎なことに)
彼はそっと嘆息した。
(必ずしも、当たるって訳でもないんだな)
全くの的外れで痛い目に遭ったことだってある。やっぱり理屈が――レイヴァスふうに言うなら「合理的」であることが――正しいのだな、と思ったことも。
何かが引っかかる。
いまはよくない。どうしてもと言うならあとにしろと。
だが――。
「判った、先に行くとしよう。ただし」
彼は指を一本立てた。
「戻ってきたら、一緒に飯だぞ」
レイヴァスは仕方なさそうにうなずいた。
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