08 どうして僕が
英雄の末裔。
魔術王の力を狙う者たち。ずっとずっと古くから生きている魔物。
ライノンの話は突拍子もなかったが、ミラッサ以外から聞けた話という意味でも彼に大きな影響を与えた。
「まさか」との気持ちは変わらずにあったものの、卵とは言え、真面目に研究している学者もいる――あんな学者だが――ということはシュナードに「もしかしたら」を抱かせはじめた。
(しかし、だからって、俺には関係……)
(ない、はずだ)
仕事は断った。その後、所長からも何も言ってこない。違う戦士が派遣されたのか、それとも依頼金を返したのか、そんな話も聞いていない。幸いにして違約金も請求されなかったから、こちらから蒸し返そうとは思わなかった。
終わったことで、もうそれ以上は何も。
「それならどうして、ここへ?」
不機嫌そうな声が言った。
「幸いにして、あれからあの女もほかの戦士もきていない。そして僕の意見はこの前と変わらない。お前からでも誰からでも、剣を教わる気なんてない。以上」
レイヴァスは本からろくに顔も上げず、ほぼ一息で言い切った。
「……きてない?」
シュナードは顔をしかめた。
「あのお嬢ちゃんがあれ以来、きてないのか?」
「そう言った」
やはり少年はつっけんどんとした態度だ。
「言っておくが連絡先も知らない。お前がもしそういうことを聞きたいのだとしても」
「いや、別に連絡を取ろうってつもりもないが」
ううむ、と彼はうなった。
(何だ。それじゃもうやめたのか)
(つまり、所詮はお遊びだったってことかね)
半月も心のどこかに気にかけていた――罪悪感だったろうか――自分が馬鹿を見たということになるのだろうか。シュナードは息を吐いた。
「おい。坊や」
「『坊や』じゃない」
そこでレイヴァスは顔を上げた。
「僕は十六歳だ。成人している」
「年齢ばかり成人したって、坊やは坊やさ。おっと、そんな顔をするな」
明らかにむっとした顔を見せた少年に、シュナードは両手を上げて降参するようにしてみせた。
「悪かった、馬鹿にするつもりじゃなかったんだ」
正直に言えば「坊や」にはいささかの悪意――と言うほどでもないが、からかうような気持ちがあった。だが少なくとも喧嘩を売る気はない。
「ただ、どうしてるかと思ってな」
「僕がどうしていようとお前には関係ないだろう」
レイヴァスの視線は再び書物に戻った。
「もう帰ってくれ。読書の邪魔だ」
「ああ、そうだな……」
何をしにやってきたのか自分でもよく判らなかった。ミラッサの様子が気になったのか。それともレイヴァスの。
(どっちにせよ、気にする理由なんかないと思うんだがなあ)
よし、と彼はひとつうなずいた。
「まじ、邪魔して悪かった。ゆっくり勉強してくれ」
そう言って彼は踵を返した。
否、返そうとした。
そのときだった。
がしゃん、と何かが派手に割れる音がした。シュナードはもとより、さすがにレイヴァスもはっとして顔を上げる。
「なっ、何だ!?」
「奥の部屋だ」
立ち上がって少年は――それでも本にしおりを挟むのは忘れなかった――そちらに向かおうとした。
「待て」
思わずシュナードはレイヴァスの肩に手をかけた。
「やめろ。俺が見てくる」
「何だって?」
「嫌な予感がする」
呟くように言って彼が先に立ったのは、何とも幸運なことだったと言えるだろう。
次の瞬間、奥の部屋へと続く扉がものすごい音を立てて吹き飛んだのだ。
「なっ」
「レイヴァス、下がれっ!」
何か考えるよりも叫んで、シュナードは剣を抜いた。
「どうなってやがる」
長剣を両手で握り、彼はうなった。
「何で町んなかに、獣人が……!」
街道警備隊にいた頃、たまに遭遇することがあった。人の身体に獣の頭を持つ「獣人」。種族はさまざまだが、いま彼らの目の前にいる
だがここは街道と隔てられ、守られた壁の内部だ。外に棲む魔物たちが入ってこられるはずがないのに。
(ええい)
(はずがあろうとなかろうと、いまここにこの化け物がいるのは事実!)
考えるのはあと回しだ。戦士は牙を剥く獣人に負けじと叫んで剣を振り下ろした。
大して広くない屋内で彼の得物は振り回しづらかったが、幸いと言うのか、その獣人は剣の恐怖を知っているようだった。人間と戦ったことがあるのだろう。シュナードの武器を見て明らかに怯み、動きを鈍くした。
「っしゃあ」
それを見て取るとシュナードは踏み込み、先制攻撃を仕掛けた。刃は獣人の肩にめり込み、獣人は怖ろしい悲鳴を上げた。
「これで、どうだっ」
もう一度剣を振り上げると、戦士は思い切り敵の首筋にそれを叩きつけた!
「うっ……」
レイヴァスは手で口と鼻を覆った。シュナードの打撃によって飛び散った魔物の体液と肉片が、異様な悪臭を放ったからだ。
頭を胴体から半ば分断された獣人は、どうと音を立てて倒れたあとしばらくぴくぴくしていた。シュナードは念のためとばかりに剣を握ったままじっとそれを睨んでいたが、やがて完全に動かなくなったのを認めると、ようやく息を吐く。
「やれやれ」
肩を落とすとちらりと周りを見、卓にかかっていた布を引っ張ると、刃についた血糊をざっと拭いた。
「おい! 何をするんだ!」
少年がかっとしたように叫んだ。
「そんなものを拭くな!」
「あのなあ」
シュナードは苦笑いを浮かべるしかなかった。
「見ろよ、この惨状を。床も壁も血しぶきで酷いことになっちまった。今更、布の一枚や二枚」
「そういう問題じゃない」
ぴしゃりとレイヴァスは遮った。
「僕の持ち物を勝手に使用する前に、一言あってしかるべきじゃないのか?」
「あのなあ」
シュナードはまた言った。
「そんな細かい話より、言うべきことが、あるだろ?」
「何だと?」
「『何だと』じゃない。お前さんは誰のおかげで、無事に怪我もなく、そこに立ってる?」
ふんと鼻を鳴らして、シュナードは胸を張った。
「もちろん、俺様の」
「頼んでいない」
あっさりと返ってきた。
「全く。誰がここを掃除する羽目になったと思っている」
「やりたくないなら〈汚れ屋〉でも呼べ!」
「責任を持ってお前が呼べ」
少年はしかめ面で言うと踵を返した。
「ん、どこに行くんだ」
「……だ」
「あ?」
「外だ! こんな酷い臭いをいつまでも嗅いでいられるか!」
怒鳴るように言って少年は出入り口に向かった。
「へえへえ」
(素直に「本当は怖かった」とか「気持ち悪いから外の空気を吸いたい」とか言えば、少しは可愛らしいのに)
実に可愛くない。シュナードはそんなことを思いながらレイヴァスのあとに続いた。
「さて、お坊っちゃん」
建物の外でむすっと立っている少年に彼は呼びかけた。
「レイヴァスだ。不愉快な呼び方はよしてもらおう」
振り返ってレイヴァスは彼を睨む。
「『お坊っちゃん』なんて、丁寧な呼びかけじゃないか」
両手を広げてシュナードは言った。
「明らかな揶揄が感じられる場合は、その限りじゃない」
しかめ面で少年は正しい指摘をした。
「ではレイヴァス少年。いまの出来事は異常だ。判るか?」
「――まずは町なかに魔物が入ってきたということ。ここは町外れだが外壁はちゃんとあるし、門にも近くない。もし間抜けな門番が門を開けっ放しにしてどこかへ行ってしまったとしても、ここにくる前に騒ぎが起きるはずだ」
いささか顔色の悪いままでレイヴァスは言った。
「それから、わざわざ窓を破ってまで建物のなかに入ってきたこと。仮に人間を餌と認識している個体だったとしても、そんなことをするのは不自然だ」
建物のなかに「餌」があると理解しているとは思えない。うろうろして目についた人間を襲うなら判るが、先ほどの行動はあまりにも。
「心当たりは、ないのか?」
何気ない調子を装ってシュナードは尋ねた。
「たとえばだが、その……お前さんが魔物に狙われるような」
「何を言っているんだ?」
当然と言おうか、その問いは渋面で迎えられた。
「そんなもの、あるはずがない」
「だよな」
うんうんと戦士はわざとらしいほど大きくうなずいた。
(彼の存在を疎ましく思う者がいるのよ)
(いまに彼は命を狙われるように)
(魔術王の配下が)
耳に蘇るはミラッサの言葉。
(英雄の……末裔)
(いや、だが、まさか)
「僕のせいにする気か」
「あん?」
「もし狙われたのであれば、お前の方こそ標的だったんじゃないかと言ってるんだ」
「んな、阿呆な」
彼はぽかんと口を開けた。
「そりゃ俺は街道で魔物を追いかけてきたが、奴らが仲間の仇討ちをしに町に入り込んだなんて話は聞いたことがないぞ」
「そうだな。僕もない」
レイヴァスは肩をすくめた。
「魔物を殺しまくってきた戦士が狙われないのに、どうして僕が狙われることがあると思うんだ」
「あー……それはだな」
(彼は知ってはならないのよ)
(穢れぬ魂のままでなければ)
ううん、とシュナードはうなった。
「何となくだ」
ミラッサの話をみな信じた訳でもないし、彼女の考えを尊重してやる必要もない。しかしシュナードはその話を伝えることを避けた。
「何となく? はん、話にならない」
鼻を鳴らして少年は手を振った。
「だが目の付けどころは悪くないな」
「お?」
初めて褒めるような言葉がやってきて――実に意外であった――シュナードは目をしばたたいた。
「いったい何故、魔物が入り込んだのか。何故、窓を破るなどという、自らの身を傷つける真似をしてまで入ろうとしたのか。そして、何故」
きゅっとレイヴァスは目を細めた。
「何故、ここであったのか」
「……だな」
ミラッサの言葉が本当であったなら、その答えは既に判っていることになる。
だが、事実なのか。
「判断するには不明な点が多すぎる」
シュナードは手を振った。
「とりあえず、街道警備隊の詰め所へ行こう」
彼は提案した。
「ここで起きたことを報告するんだ。この際、難癖をつけて〈汚れ屋〉の手配もさせちまおう。『お前らの警備がいい加減だからこんなのが侵入するんだ』とでも言われたら、理不尽でも反論できんだろうからな」
「そんなことを言うのか?」
レイヴァスは片眉を上げた。
「街道警備隊はお前の仲間じゃないのか」
「まあ、かつてはな。だが事実の一端ではあるさ。警備隊の仕事がしっかりしてて、魔物や獣が人間を怖れていれば、人間だらけの町になんざ近づかんのだから」
(この件は、それじゃ片付かんような気はするが)
本当にレイヴァスが狙われたとすれば――獣人はあまり賢くないが、魔物のなかには下級の魔物を操るようなものもいる――街道警備の出来不出来は関係がない。
(いやいや、事実だと決まった訳じゃない)
気づけばミラッサの話を前提として考えてしまう自分に、シュナードは首を振った。
「どうした」
「ああ、いや、そうだな」
シュナードは両腕を組んだ。
「
彼はすっと遠くを見た。
「ミラッサを探して、話をする必要があるんじゃないかと思う」
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