02 いい加減にしてくれ
果てのなき広大なる世界、フォアライア。
世界は三つの大陸に分かれていた。
南にあるはファランシア大陸は、その南端に超えることのできない大山脈を抱え、北西のリル・ウェン大陸は、北端に足を踏み入れれば誰も戻らない大森林を抱く。そして東のラスカルト大陸には、その東に終わりのない無限砂漠があった。
それらを隔てる大海は、大陸の見えない向こうには何もないとされ、やはり旅立った船が戻ってきたことはない。
世界には果てがなく、人々はそれを当然のこととして受け入れている。
いや、多くの者は、特にそのようなことを意識することなく生きている、と言うべきか。果てなき世界の果てについて考えるのは、無謀な冒険家か、知識欲の肥大した魔術師や学者くらいのものだ。
もちろんと言おうか、シュナード・イーズはそちらに入らない部類で、のんびりと日常を送っているただの戦士だ。
本当にのんびりとした日常だけでは少し退屈してしまうな、などと――贅沢にも――思うくらいで、この依頼はちょっとした刺激になるかな、というようなことをこのときは呑気に考えていた。
もっとも「依頼を受けた」のは所長だ。所長がシュナードに命じれば、基本的に彼は受ける。余程に理不尽な指示でもあれば別だが、幸いなことに彼の雇い主は道理を判っていて無茶は言わない。
だからこの仕事も無茶なことではない。そのはずだ。それどころか規定の給金以外にも報酬が出ると言う。特別手当というやつだ。シュナードに断る理由はなかった。
しかし――。
あとになってみれば、判る。
厄介な事例だからこそ、特別手当などがほのめかされたのだ、と。
いや、所長は何も知らなかったかもしれない。彼はただ純粋に、いつもとは少々違う不規則な仕事をさせるという事情に対してラル銀貨を出そうと考えてくれただけかもしれない。
ただ、所長の心がどうであれ、シュナードとしては恨み言のひとつも言いたくなるというものだった。
だが、彼がそんなことを思うのはまだ先の話。
戦士はこのとき何も知らず、たまには日常と違う用事もいいか、などとのんびり考えていただけだった。
「私のことはミラッサと呼んでちょうだい。敬称はつけなくていいわ」
あのあと、少女はそう言った。そりゃどうも、などとシュナードは返した。
「指導を頼みたいのは、レイヴァス・アルディルムという十六歳の子よ」
「『子』ねえ」
「何か?」
苛ついたかのように少女は眉をひそめた。
「いいや」
彼は肩をすくめ、「お前さんと大して変わらんだろう」という言葉は飲み込んだ。
「それで、そのレイヴァス少年は何で自分から訓練所にこない? まさか、お母ちゃんが許してくれないからこっそり剣を習おうなんてんじゃないだろうな?」
「違うわ」
ミラッサは首を横に振った。
「彼の両親は亡くなっているの」
「ああ、そうか」
そりゃお気の毒に、とシュナードは気のない様子で言った。
人間、いつかは誰しも死ぬ。幼子であればもう少し本気で気の毒にも思おうが、十五を超えていれば成人だ。
(しかも男とくりゃ)
(特に同情してやるこたあないな)
少女ミラッサの説明によると、レイヴァスはこれまで剣に触れたことはなく、全くの初心者だということだ。だがそれはシュナードにとってそれほど珍しい事例ではない。
「むしろ、たいていはそうだ」
全くの初心者だからこそ、訓練所を頼るしかないということが多い。
「だが気にすることはない。要は本人のやる気次第だからな」
彼の言葉にミラッサが少しおかしな顔を見せたように思えたが、そのときのシュナードはあまり気にしなかった。
冗談だろう、とシュナードは思った。
だがどうやら向こうの方でも同じことを思っていたようだった。
と言うのも、少年は少女を認めると嫌そうに顔をしかめ、それから彼を見ると深く嘆息などしたからだ。
「もういい加減にしてくれ」
声変わりこそ終えたものの、まだ幼い感じのする声だ。だがそこには明らかに不機嫌そうな色が宿り、神経質な雰囲気をも呼び起こした。
「何度こられても僕の答えは同じだ。柄の悪そうな戦士なんか連れてきたって言いなりになったりはしないからな」
黒いまっすぐな髪を持った十六歳の少年は、しかしまだ未成年だと言っても通りそうに見えた。身長は低いと言うほどでもなく、平均的だろう。だが身体は全体的にやせぎすであり、手足は女の子のように細い。節介焼きの気質がなくても「もっと肉を食え」などと言いたくなりそうだ。
だが黒い瞳は理知的と言うのか、十六歳らしからぬ落ち着きを持って彼らを見つめていた。いまはいささか憤っているようだが、それも子供の癇癪と言うより、むしろ子供の癇癪に覚えた苛立ちを隠そうとでもしている風情。
「あら、私は脅しにきたのではなくってよ」
ミラッサはぱちぱちと目をしばたたかせた。
「これはシュナード。あなたの師になる人物だわ」
「これときたか」
ぼそりとシュナードは呟いたが、もちろんミラッサは謝罪などしなかった。
「は! 師だって。そりゃいい。傑作だ」
少年は馬鹿にするように笑った。
「そちらの筋肉先生に本が読めるとは思わないね」
「上等じゃねえかクソガキ」
シュナードはずいと前に進み出た。
「傑作だってのはこっちの台詞さ。お前みたいなヒョロガキが剣? そりゃあ依頼されりゃ仕事としてできるだけのことはするさ。だがその棒みたいな腕じゃまともに素振りができるようになるまで何月かかるか知れたもんじゃない」
ひと息で言い放ってからシュナードは「待てよ」と思った。
「……本ってのは?」
「僕がもし師匠を必要とするなら、深い知識を伝授してくれる人物を求めるということだ」
ふふんと少年は鼻を鳴らす。
「剣を振るうなんて、それしか能のない可哀相な連中がやればいい。僕にはそんな野蛮なことにかける時間はない」
「野蛮たあ、言ってくれるじゃねえか」
戦士もまた鼻を鳴らした。
「その野蛮な剣が国を守り街を守る。戦が起きたら、ひ弱なお坊ちゃんはぶるぶる震えながら布団をかぶってるといいさ。その間に野蛮な俺たちがみんな片付けてやるからな」
「やっぱり頭のなかまで筋肉先生なんだな」
やれやれと少年は首を振る。
「そんなのは全く意味をなさないたとえだ」
「戦なんて起きないと言いたい訳か? はは、剣を使えない奴はみんなそう言う。いざとなってから慌てたって無駄なのに『いざというときなんて永遠にこない』と根拠なくたかをくくって」
「そうじゃない」
ゆっくりと少年は遮った。軽く片手を上げた様子はまるで発言の許可を求めるかのようだった。
「僕が言うのは、こういうこと」
ぱちんと少年は指を鳴らした。
「うおっ!?」
するとシュナードはかくんとその場に膝をついてしまった。
「こうして手足の力を奪ってから短剣を突きつけられたのでは、史上最強の剣士だっておしまいだろう」
「て、てめ」
「やめてちょうだい、レイヴァス」
両手を挙げてミラッサが制した。
「お前……魔術師なのか?」
シュナードはうなりながら手足を確かめ、慎重に立ち上がった。
「確かに少々の魔力はある。でも魔術師だと名乗るほどじゃない。いまの術はお前みたいな頭でっかちの戦士をやり込めるために訓練しただけで、いきなり火や雷を撃ったりすることはできないからご心配なく」
肩をすくめてレイヴァスは言った。
「判ったかな、戦士さん。そこの女に何を言われてやってきたのか知らないけれど、僕には身を守る術くらいある。剣なんて必要ない。そのままくるりと後ろを向いて帰ってくれると有難いね」
ここで、よく判った。
レイヴァスには剣を習う気などない。
ミラッサが勝手に――理由は知らないが――彼に習わせようとしているだけなのだ。
冗談じゃない、とシュナードは改めて思った。
「おい、お嬢ちゃん」
「何よ?」
ミラッサはじろりと彼を見上げた。
「指導ってのはなあ、本人にやる気があって初めて可能になるんだ。剣なんて屁の突っ張りにもならんと思ってるような魔術指向のガキんちょが相手じゃ、俺がたとえ史上最強の伝説の剣士だって教えられるもんか!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます