六丁目路地裏立ち入り禁止

雪ノ瀬いちか

Request.01 来世も愛し合おう


 今日ほど緊張で眠れなかった日は無いだろう。震える肩を自分で抱いて目の前のKEEPOUTの文字を見ながら深呼吸をした。

 この黄色いテープを潜った先には黒い扉…いや、今まで見てきたどの黒よりも深く吸い込まれる様な漆黒の扉が存在していた。扉と同じ色のドアノブを握るとまるで人間の体温を一度も知ったことが無いのではと思わせる様な冷たさが全身を駆け巡り、ぞわりと鳥肌が立った。

 私は、今から夫の殺しを依頼するのだ。その罪深さを実感させる様に扉を手前に開けば中から私を襲う冷気。一歩を踏み出すのに躊躇う。


「どうされました、お嬢さん」

「ひッ!?」


 急に耳元でそう囁かれて心臓が大きく跳ねる。勢いよく左に顔をやればそこには眼鏡をかけた黒髪の男が優しく笑って立っていた。その顔立ちはよく整っていて私好みの男だった。こんな時まで男の顔の良し悪しを一番に考えてしまう自分はやはり最低だと心の中で嗤った。


「いっ…依頼に、来ました」


 声は裏返り、震えた唇でそれだけ男に伝える。すると男から優しかった笑顔がスッと消え、そして座った瞳で口を開いた。


「貴女は一体誰の死を望む?」

「ッ…!」

「貴女はどんな対価を支払う?」


 それはこの依頼みせに必要な言葉だと、ここを紹介してくれた男に聞いた。誰の死を望むのか。代わりに支払う対価は何か。彼らは相応の対価で無いと依頼を受けないという。このひと月ずっと『対価』その答えを悩んでいた。


「わ、私は…!私の夫の死を望む…!」

「何故?貴女は何故愛する自らの夫の死を望む?」

「愛してなんかないわ!最初から私の馬鹿親が決めた結婚相手よ…!」


 私は夫を愛していない。馬鹿で金に目がないあの二人が私を金でアイツに売ったのだ。一目惚れだ、愛していると気持ち悪い言葉を吐く男に私はどうにか条件を付けることに成功した。そしてその条件をアイツは受け入れた。


「私が他の男と愛し合っても文句は言わないこと…部屋もベッドも絶対に別にすること…!この二つを守る事を条件に私は夫婦を演じる事を許したの!なのにアイツは…!」


 最近では今日は何処に行っていた、誰と会っていた、お前は俺の妻だと私を束縛する様になった。もうこんな男と暮らすのは無理だ、そう思った時私は運命の人に出会った。とても顔が良くて優しくてセックスも上手くて身体の相性も最高の彼。


「私は…その彼の事を愛しているの。だから、彼の元へ…自由になる為に私は夫を殺して欲しいんです」

「…貴女の想いはよく分かりました。では、対価には何を?」


 対価、その言葉にどくんと心臓が大きな音を立てた。運命の彼と一緒になるためなら私はどんな事でも犠牲に出来る。夜な夜な一人で震えながら考えた答え。


「対価は…対価、は…」


 (私の、小さい頃からの夢。)


「…それは。確かに対価として相応しい。本当にそれで良いか?」

「…ええ、決めたの。そもそも素敵なお嫁さんになる事すら叶えられなかったの。無くなったからって、彼と愛し合えない訳では無いわ…」

「ではその対価を持ってこの先へ進め。依頼が完了した後、受け取ろう」


 男は眼鏡の位置をくい、と直すと私の背中を軽く押して扉の中に一緒に入った。閉められた事で何も見えない暗闇の中ですぐ後ろにいる男はクスリ、クスクス、と笑いその声は段々と大きなものになった。


「あっは!やべぇ笑っちまうわ。やっぱこの口調苦手なんだよなぁ、オレ。こういうのはお前が適任だってのによ」


 急に男の口調が軽いものになって、目の前がパッと明るくなる。眩しくて思わず目を閉じる。


「仕方ないじゃーん。今回は俺ご指名なんだもん」

「…え?」


 聞き覚えのある声にまだ慣れない瞳を無理矢理開く。そして私は絶望する。


「やあ、レディ?俺の教えた通りにここまで来てくれたんだね。わざわざ出向く手間が省けて嬉しいよ」

「レイ…?」


 この瞳に映ったのは、黒い椅子に座っている私の愛した薄い青の髪の男だった。彼はニコニコと、放った言葉通り嬉しそうに笑っていた。その姿はいつも会う時と違う黒い…真っ黒のスーツだった。


「どう?素敵な夢は見れたかい、レディ」

「…え…、どういうことなの…ねえ…レイ…」

「んだよお前、レイって。ふざけてんのか。よりにもよってそれは気持ち悪いからやめろ」


 気付けば私の両手は後ろにいた男に強く握られていて、そして手際良くロープで縛られる。話が理解できなくて混乱する。


「訳がわからないって顔だね、うん。ごめんね。俺の名前はレイじゃないし君の運命の相手でも無い。これは依頼だ」

「…は…?依頼、って、だから私が…」

「…うるせぇな、黙ってろよ」


 瞬間。ゴン、と重い衝撃が頭に走って視界が霞む。倒れ込んだ床の冷たさと上に向けた視線の先にあった愛した彼の初めて見る冷めた瞳が混ざり合って意識はそこで途絶えた。

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