封花瓶の精霊達

水縹F42

陽炎の影牢

 良縁奇縁、数奇な運命。この物語は彼が十歳の誕生日を迎えた時に始まる。


 彼は言うならば『優等生』だ。両親は裕福なサラリーマンと主婦であり、彼は特段目立った趣味もない一人息子。とても聞き分けのいい子で、両親が引いたレールの上を何の考えもなくただトコトコと走る列車。だからこそ彼には欲望が無く、自己主張がほぼ無きに等しい人形だった。両親は彼に満足していたが、そんな人形が無欲であることを心配していた。


 彼に訪れた転機は両親との買い物の帰り道。ある封花瓶ハーバリウム専門店を通りがかった事だろう。一見すると花屋であるが、それらは全て封花ルルデのドライフラワーであり、また当然ながら封花瓶も多数見て取れる。


 彼はなにか心に引っかかるものを感じた。何かが呼んでいる……そんな不思議な感覚に囚われたのだ。だから彼はそれを見てみたいと口に出した。滅多にない事に両親は歓喜し、店の門をくぐる。


 ちりん、ちりんと鈴がなる。


 店内には芳しい香が焚かれ、ショーウィンドウで見たように不思議な雰囲気のある……いわんや異世界にでも来たような気配がした。浮かれ心地の彼と両親は静かな店内に衣擦れの音を聞いた。目を向けると金色のコインをあしらうスカーフを被り、透き通るヴェールで口元を隠した褐色の女性が現れた。瞳も髪も黒く、装いは深い紫のヴェリーダンスの衣装にショールを羽織るものであり、ひと目で『魔女』と察せられた。


「――いらっしゃいまし」


 透き通る声の魔女は封花師ハーヴェストなのだろう。彼女は両親を一瞥し、最後に彼に目をやるとニカブの奥で小さく微笑んだ。声をかけようとした両親を留め、魔女はそろりそろと店内を歩く。


「さて、坊や。貴方を招いたのはどのでしょう……?」


 繊細な指で一つ、二つ、三つ。弾いた瓶の一つに彼は吸い寄せられた。


 それはくろであり、くろであった。長い黒髪とレースのドレスを纏う、白い滑らかな肌を持つ精霊……彼の心が波打ち、ひと目で彼女がそうだと見当がついた。


「おや、陽炎の精を見出したのですね……ではこちらを」


 差し出された封花瓶は小さな黒い花を主とし、青の色硝子が海のように沈んでいる。まるで夏の空を見ているようだと彼は思った。


「ほしい」


 彼は生まれて初めて我儘を口にした。両親はそれを喜び陽炎の封花瓶を購入した。決して安くはなかったが、初めて言う我儘に応えてあげたいと願ったのだ。


「封花瓶は年に一度、手入れが必要でございます。また陽炎の精は常に灯火を要します……その二つの約束だけは必ずお守りくださいますよう」


 彼はこくりと頷き、恭しく封花瓶を手に取ると小さな胸に抱きしめる。すると陽炎の娘が小さく微笑み、それが事の他に嬉しく面映い。


 その日、彼は人形ではなくなった。


 イトユウと名付けられた陽炎の精はずっと彼のそばに居た。彼は彼女のために棚を開け、灯火が燃え尽きないよう丁寧に手入れを怠らない。彼はイトユウを見つめると頬に朱が差すことを自覚していた。


 そうだ、彼はイトユウに恋をしている。でも彼女は応えてくれるだろうか。精霊はめったに言葉を口にせず、ただ主の行く末を祈り側に仕えるもの。彼女の微笑みは彼の思いに報いるものであろうか。いいや、報いるよう振り向かせてみせる。彼は心に誓った。


 程なく彼は頭角を顕した。両親の言うばかりではなく、己の意思で自身を高める努力を始めたのだ。


 イトユウは高貴である。ならば自ら高貴たりえねばならない。

 イトユウは儚い。ならば守れるほどに強くならねばならない。

 イトユウは一人。ならば側に居られるよう努めねばならない。


 やがて彼は誰から見ても素晴らしい人となった。誰もが羨み、嫉妬し、その上で認められるような人物に。しかし彼の中心には常にイトユウという存在が居る。故にどんなに素晴らしくとも孤高であった。


 それは同じぐらい素晴らしい乙女と出会っても変わることはない。彼は乙女との縁談をにべもなく断った。彼の一番はイトユウであって、イトユウ以外はなんでもない存在でしかなかったのだから。


 自分以外の何者をも必要としない彼の様相に、両親は危機感を抱いた。誰しもが羨む彼は、もう愛でるべき人形ではなかったのだ。だから全ての理由をイトユウに求めた。即ち『邪悪な精霊が息子を呪っている』と。

 イトユウは精霊、古来よりその手の話には事欠かない。それ以上に祝う話もありふれていたが、両親は呪い以外の何物でもないと信じ切っていた。


 両親は彼の居ぬ間にこっそりとイトユウの元に訪れ、傍にあった灯火をふうと吹き消した。するとイトユウはたちまちに姿を消してしまう。やあれ、之で憂いは無くなった。両親は喜び笑いあい、イトユウが悲しげな顔をしていた事を気にもしない。


 だから戻った彼はイトユウが居なくなった事に愕然とし、それきりからっぽの抜け殻になってしまった。


 それからのことを彼はあまり覚えていない。沢山酷いことがあったような、多くの悲劇があったような。ふわふわとした心持ちで居た所、気づくと彼は一人だった。彼の肉親も、友達も、誰も、だれも居なくなっていた。しかしそんな事は関係ない。彼は抜け殻だったのだから。


「……あ」


 一人になった彼は、気づくと懐かしい封花瓶ハーバリウム専門店の前に居た。いつかと同じレイアウトで、ラインナップだけが異なるショーウィンドウ。彼は誘われるように店内へ。


 ちりん、ちりんと鈴がなる。


 示し合わせたように紺色の魔女が姿を表す。だが彼女は今、悲しげな目で彼を見つめていた。魔女は言葉もなく一つの封花を取り出し彼に手渡した。イトユウが宿っていた封花瓶と同じ黒い封花だ。するとどうだろう、儚くも美しいあのイトユウが現れたではないか。


「ああイトユウ! イトユウ!! 僕は君にもう一度逢いたかった……もう何処へも行かないよ、一緒に帰ろう!」


 だがイトユウは辛そうに、力を振り絞るように彼に手をのばす。彼は細く折れそうな手に指を差し出し、彼女はそれを弱々しくなでた。


『……ごめん、なさい』

「え……?」


 イトユウの言葉に彼は困惑した。なぜ謝るのか、何故そんなに悲しげなのか、彼には一つとして分からなかった。ただ分かるのは愛しい精霊がぱちんと弾けて消えてしまったことだけ。後には息を吹き返した様に咲く黒い花が残される。


「ああ、宝花フォルトゥナに咲き戻るなど……貴方様はとても愛されていたのですね。精霊が封花もなく人の側に侍り、かつ身を賭して人を護る等、とても稀有なことでございます」

「どういう、こと?」

「貴方様は天頂に死兆の星辰せいしんを頂いていた。それを陽炎の娘は肩代わりしたのです。左様なことをすれば消えるというのに、最後には貴方の身を案じてもみせて……これを愛と言わずなんとしましょう」

「なんで……そんな、嘘だ……」


 だが事実としてイトユウは彼の手の内で果てた。彼女はもう何処にも居ないのだ。得も言えぬ喪失感が彼を襲い、直ぐさま如何に死ぬかを思案する。だが魔女はそれを留めるように声を紡いだ。


「その宝花は彼女の忘れ形見。陽炎の娘が居たことを忘れないでくださいまし」

「っ……」


 彼は魔女をキッと睨むと、早足で店をあとにした。乱暴に開かれたドアがちりんと音をたて、店には元の静寂が残った。


 その後彼がどうなったかは、残された黒の宝花のみが識っている。

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