さらさらと

ふじの

第1話

突然母校の中学をのぞいてみようと思ったのは、驚くほどつまらない英語の授業中だった。いつもだったらこっそりとスマホをいじったりするのに、席に縛り付けられたまま、英語脳以外を封印されたのかのように苦痛に耐えることしか許されなくなってしまったお昼休みあけの死にそうな時間。


 教室全体に死にそうな空気が充満していて、わたしの前に座っていた男子生徒が最後の力を振り絞って窓を開けた。


 とろりとした風が流れ込む。同時に、校庭に植えられた桜の木だか何かの青あおと繁った葉がさらさらと揺れる音色が運ばれてきた。Rustling。頭の中に英単語が響いた。Rustling。さらさらとなる音。わたしじゃない声が頭の中で響く。響いた英単語が呪いを解く鍵だったかのように、ようやくわたしの意識はクソつまらない英語の授業から抜け出すことができた。

 中学生のころ、仲が良かった二つ年下の男の子のことを思い出した。


 陸上部だったから、自然と他の運動部の生徒とは良く顔を合わせていた。体育倉庫をみんなでかきわけかきわけ自分たちの必要な道具を探し出す。たいていの部活は1年の仕事だったけど、わたしの所属していた陸上部は人数も少なかったせい(弱小)で、3年になったときも自然と手が空いた人が片付けをやることになっていた。彼はサッカー部の1年生で、よく二人組で片付けに来ていた。彼の相棒のこともよく覚えている。1年生にしては背が高く、整った顔立ちをしていた。同じ部活だった後輩の女の子たちはその相棒が片付けに来る時間を測って動いていた。隠れているふりをしながら丸見えの状態できゃー、きゃーとはしゃぐ彼女たちの前をとおりかかる時も、彼の相棒はまるで何も気づいていないような顔をしてスタスタと通り過ぎて行ったけれど、彼は数ミリ頭を下げてはにかむような会釈をしてとおりすぎた。

「いやじゃないの?」

 ある日、彼がひとりで片付けに来た時にそう訊ねたのがはじめての会話だったと思う。いやじゃないの、モテる友達といつも二人でいて。なぜだか意地悪くわたしは聞いた。床に落ちていたバスケットボールをポン、と床に弾ませながら。彼はキョトンとしてわたしを見た。他の部活で学年も違う女生徒なんて道を歩いている他人と変わりないのだから仕方ない。きっと後で「変な女がいた」とか笑うんだろうなと思った。でも、彼はにっこりと笑って、

「貸してください」

 と、わたしが手慰みに弾ませていたバスケットボールを受けとると、ほんのすこしだけバスケットボールの構えをして、すっと流れるようにボールを宙にはなった。体育倉庫の反対側に立てかけてあったバスケのゴールポートにするりと吸い込まれる。ものすごく綺麗だった。

 それからはいつも彼はわたしに話しかけてくれるようになった。放課後の賑わいが始まる前の体育倉庫でわたしたちは別にどうってことのないおしゃべりを繰り返した、今では一体何をしゃべっていたのかよく思い出せない。


 わたしは別に彼に特に興味はなかった。なかったはずだ。それなのに、なぜかしっかり彼の横顔を思い浮かべることができる。彼にまつわる記憶は意外なほどにあやふやで、サッカーをしている姿もこうして思い出している間に脳裏をよぎったけど、実際に自分の目で見たことなのかあやしい。よくよく見ていると、はしゃぐ後輩たちの中には明らかに彼を話題にしている子もちらほらといることがわかった。時々、陸上部の後輩たちに彼の情報を問われたり、逆に流れるような彼女たちの話が自然と耳に入ってくることもあった。話の中にはウソもホントウも織り交ぜた彼の話がたくさんあふれていたから、わたしの体験していないことまでが記憶としてうめこまれている気がする。

 ディズニーランドで他校の女子と一緒に手をつないで歩いていたのを見た気がするが、これだっておかしなものだ。だって、わたしはディズニーランドになんて小学生以来行っていないはずなんだから。

 そんなあやふやな記憶たちの中で、たった一つだけ自分の中から生まれてきたと自信を持てる記憶が一つだけあった。


 夏の終わり。今日と同じようにとろりとした風の吹く日だった。200メートルを走ろうとしていたわたしは、スタートの瞬間にふと秋の気配を感じた。その秋の気配がいったい何だったのかはよくわからない。空の色か、雲の動きか、風の冷たさか。もっと単純に、誰かがうしろで「もう秋だね」みたいなことを話したのかもしれない。走り出した瞬間に、「秋か」と思った。秋になったら部活も引退だなと思った。大きな部活は最後に部活に出席する日が決まっていて引退式みたいなものもあるのかもしれない。でも、うちの陸上部は違った。陸上部とは全然関係ないのに、9月の文化祭が終わった頃にみんなでご飯を食べに行く。それで引退。だから、人によって、最後に部活にくる日はばらばらだ。

 短くて長い200メートルの間にわたしは思った。もしかしたらこういう何でもないダッシュが最後の走りになったりするのかもしれないなぁ、と。考えたという記憶になっている。

 そして、ゴールのほんの数歩手前で、派手にこけた。

 

 「大丈夫ですか?」

 眉を下げて心配そうな顔をする後輩たちにヘラヘラと笑い返し、校庭の隅で傷の手当てをする。そこからは校庭がよく見渡せた。たくさんの生徒がいて、それぞれの部活に取り組んでいるのに妙に静かに感じた。テレビの中の世界を眺めているように妙に現実感がなかった。うっすらとした膜が張られてそうだった。手を伸ばしても、ぶよんぶよんと弾き返されるだけでどれだけ粘っても破れなそうなやつ。

 ただ、校庭の隅にこうして座っていることは逆に妙に現実感があった。お尻はひんやりと冷たくて、足はじんじんと痛み出し、お風呂に入るのいやだなと思いつつも、こうやって思い切り膝を擦りむくのももう終わりかもしれないなと少し感傷にもひたっていた。

 思いもかけなかった声が上から降ってきたのはそんな時だった。

「サボりですか?」

 はらはらと落ちてくる木漏れ日を背負って二つ年下の彼が立っていた。わたしが黙って擦りむいた膝を指さすと、彼は「あ、おそろいだ」と笑って自分の肘を示した。


 川べりの道から土手を上がっていくと、遠い向こう岸の彼方に母校の中学校が見えてきた。土手は少し土埃が舞っていて、渇いた芝生がくたりとして地面に張り付いている。砂埃をものともせずに自転車に乗ったおじさんが悠々と通り過ぎていく。川辺には小さな子供を連れた数家族がバーベキューをしていた。小さな女の子がパシャパシャと水しぶきをわざと跳ねさせようにして水辺ではしゃいでいる。

 小学生までは橋のこちら側は暗黙の了解で大人なしには足を踏み入れてはいけない場所だった。一人で遊びに来た子がこちら側の小学生に追いかけられたとか、具体的な固有名詞がないまま、小学校でまことしやかに語られていた。中学に入ってからはそんな境界線みたいなものはなくなったけれど、わざわざ今日みたいにこんな何もないところを歩こうと思ったことはなかった。こちら側の川辺から中学校を見るのは初めてだ。

 ざらざらとする地面を踏みしめて橋のふもとに向かう。何もない原っぱというものを想像してわざわざ来てみたけど、思っていたのとちょっと違った。空は確かに広くて、ポンと浮いた雲が流れていく様子がよく見える。でも、岸辺は自然の原っぱと呼べるものはなくて整然と整えられたグラウンドとカラフルな遊具が少しだけ置かれていた。

「ここじゃなかったかぁ」

 わざと言葉を口に出してみる。すんごい小さな声しか出なかった。棒読みのようなセリフで、どうしたらもっと残念そうな響きになるんだろう。あの日、彼が教えてくれた場所に行ってみたいと思ったのは本当なのに、ちっとも残念そうに聞こえない自分の声に少しがっかりした。

 

 痛そうに消毒をする彼はものすごく不器用そうで、バシャバシャと消毒液が地面にこぼれるばかりでうまく傷にかかっていなかった。

「手伝おうか?」

 そう声をかけたら「やった」と朗らかに笑った。消毒液を受け取って彼の腕にふりかける時、周囲が気になってちらりと校庭に視線をやった。別世界のようなそこでは、みんな自分たちのすべきことに一生懸命取り組んでいるように見えた。風が吹いて砂埃が舞う。何人かの女生徒が小さな悲鳴をあげて笑いあう。視界がわずかに煙ったように見えたらすぐにその風がわたしと彼のところにもやってきて頭上の木をさわさわと揺らして、彼が小さくつぶやいた。

「Rustling」

 歌を歌ったのかと思った。トライアングルの音色を言葉に置き換えたみたいだった。わたしは何も言わなかったのに、彼が頭上の木を見上げてまっすぐな声で「ささやく、って意味」と教えてくれた。

「英語?」

「うん。英語」

 こくりと、小さな男の子のようにうなずく。

「なんかいい音だよね。その単語」

「俺もそれ思いました」

 と、パッと顔を輝かせる。

「俺、学校の裏の原っぱを初めて見たと記、この単語を思い出したんです。毎日通るから」

「原っぱ?」

「あの、川のとこ。草がさわさわ揺れてるとこ」

 彼が校舎の向こう側を指す。わたしが普段使う道とは真逆の方角で、学校のすぐ隣とはいえ、これまで一度も行ってみたことがなかった。

「知らない」

 わたしがそう答えて首をふると、彼はなんとか原っぱをうまく説明しようと身振りと表情をくるくるとさせてくれたけれど、満足がいかなさそうに頭をひねってわたしを振り返った。そして、

「じゃぁ、今日の帰りに案内しますよ」

「え?」

「裏門前で待ち合わせ」

 そのまま肘を見て血が止まっているのを確認すると、跳ねるように立ち上がって「ありがとうございました」と人懐っこい笑顔を浮かべるとあっという間に練習に戻って行った。さわさわと揺れる梢の音が消えるまで、わたしはそのまま耳をすませていた。

 それだけだ。

 それで終わりだった。

 結局、わたしは裏門にはいかなかった。部活に戻った時も、片付けをしている時も、着替えている時も常に彼の一部がピタリとわたしに張り付いているような気がして、こそばゆいような、恥ずかしいような、1秒だってじっとしていられない気分になっていた。本当に裏門に行ったほうがいいのか、それともただのからかいなんじゃないかな、逡巡する自分の中では永遠に答えが出ないとわかった。だからわたしは同じ部活の女の子たちに、クレープを食べに行かないか誘ってみた。断られるわけがない。華やかな笑い声に囲まれながら、正門に向かう途中でほんの一瞬だけ裏門に向かう細い通路を振り返った。しんとしていた。

 それで終わっているからこそ、この記憶だけは信じられる。何度も取り出して眺めている思い出ほど、どんどんツヤツヤと輝いていくけど、そこには実際には経験していない誰かの思い出だったり、夢で見た理想だったりがワックスのようにちょっとずつ加えられて、小さな傷やへこみはまんまるの形を保つためにどんどんうめられていく。

 去年の文化祭の思い出をみんなで話していたって、人気の先輩にパンフレットを手渡したのが誰だったなんてどうでもいいことで少しずつくいちがう。みんなちょっとずつ理想系に記憶を日々修正しているのであれば、大人になったら嫌なことなんて全部忘れちゃうんじゃないだろうか。


 橋の真ん中で歩いて来た道を振り返る。ほんのりと空が色づき始めていて、だいぶ遠くに見えるさっきの土手の上でスーツを着た男の人がぼんやりと空を見上げていた。お腹も空いて足が疲れてきた。少しだけ、わたし何をしているんだと思ったけれど、ちょっとくらい人生に無駄な時間があっても悪くないはずだ。大人だってたまにはあんなふうに空を見上げたりするんだから。

 ジャリジャリとした岸辺を歩いて学校につながる道の前の土手を這うようにのぼる。あっち側よりも雑草に多くて、つるんとした土手というよりも草の中を進んでいるという感じだった。割れたビール瓶やタバコの吸殻が落ちていて、帰りは別の道を通ったほうがいいかもなと思う。でも、川沿いが彼の通学路だとしたらこのどこかにRustlingにふさわしい原っぱがあるのかもしれない。その辺りをもう少し探検してみようかと思ったけれど、やっぱり夕暮れになる前に中学校に行ってみることにした。

 土手から降りて一本先の道に出たとたん、ふいによく知っている景色が現れた。ほんの2年前までは私も着ていた制服を身につけた中学生たちがざわめきながら通り過ぎていく。中学校に向かう途中に会話の断片がさわりと聞こえてあっという間に聞こえなくなっていく。こう言うのもRustlingというのだろうか。

 

 あれから彼と特別な話をすることはなかった。もう一度チャンスがあったらRustlingの原っぱのことを聞こうと思っていたのに、体育倉庫は秋に向けて賑わいを増し、彼と二人で話すことはないままわたしはいつの間にか部活に行かなくなった。それでも、彼はグラウンドや廊下で会えばぺこりと人懐っこい笑顔で会釈をしてくれた。「先輩」というのはそれだけで得だなと思った。先輩というだけでうっすらとした関係がつながるのだから。何度か陸上部の練習を見に来たふりをしてグランドをのぞいた。いつの間にか、大勢のサッカー部員の中で彼の姿をすぐに見つけることができるようになっていた。


 中学校は何も変わっていなかった。他校の制服を着たわたしを興味深そうな目で見ていく生徒は何人かいて、わざとらしく「懐かしいなぁ」みたいな表情でキョロキョロして歩いて見せた。そして、グランドが見えてきたあたりで足を止めた。現実の空気のようなものがわたしの足元からゆっくりとのぼってくる。「陸上部を見に来たふりをする」なんて昔やっていた手段が使えないことに気づく。むしろ、陸上部の後輩にだけは会いたくないと思った。誰も知っている人がいない限りは「昔を懐かしんで訪れた先輩」のふりをできるけれど、実際に知り合いを目前にしたらそうもいかない。そもそも、わたしは後輩の練習を卒業してまで見に来るような熱心な先輩なんかじゃない。演じる自分と実際の自分のギャップがみるみると広がっていく。

 グランドの中で小さな粒のように走り回る色とりどりの生徒達を眺める。あの夏に感じたよりも大きな膜で覆われた遠い世界に見えた。あの中で走り回っているかもしれない彼の姿も見つけることができなかった。

 帰ろう、そう思った時にひときわ華やかな笑い声を持つ女の子達とのびのびと広がった男の子達の集団がわたしの横を通り過ぎて行った。ちらりとわたしをふりかえった一人の男の子の顔に見覚えがあった。その男の子達の中では小柄なその子は、サッカー部にいた彼の相棒だった。そして、ひときわ大きな声で何かを話して女の子達を笑わしている男子生徒は、背が伸びてはいるものの間違いなく彼だった。華やかな女の子達に腕を掴まれたまま、彼は正門の方に歩いていき、大通りに消えていった。

 

 帰り道、土手の上に上がるとちょうど夕焼けの最後の光が川を輝かせているところだった。川の光が反射して、川辺は明るく輝いていた。その分、影も濃くなり、岸辺に落ちていたカラフルなお菓子の空箱なんかは影の中に吸い込まれて見えなくなっている。ゆるい風が草花をさらさらと揺らして通り過ぎていく。わたしは目をつむって耳をすます。Rustling。さらりと流れる風の音が確かにこの言葉にふさわしかった。

 きっと彼はもうささやき声を忘れてしまったから、せめてこの瞬間の音色をわたしの中にしっかりと閉じ込めておきたいと思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

さらさらと ふじの @saikei17253

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ