♯4 謎の彼女。
古びたコンクリートの四面に囲まれた隅っこに、彼女は居た。
画面のひび割れたスマホから目を離すと、右の掌をおでこまで上げ緩く振っている。どうやら挨拶のようだ。昨日と同じ三角すわりで、学校指定のローファーを靴下越しの指先で器用にプラプラ揺らしている。どうやら今日は、タバコを吸っていないらしい。
「こんにちわ」
「また会ったね、少年」
彼女の、肩に触れない程度に切りそろえられた黒髮のつむじを眺めながら、僕は挨拶を返す。
「来るのはたまにじゃなかったの?」
悪戯に作った笑顔は悪びれる風はなく、ローファーを履き直しながらしたり顔で言う。
ふふっと笑う彼女から、僕は少しだけ目が離せなくなった。
「今日もたまたま来ただけです」
咄嗟に嘘をついた。正確には、嘘か本当かなんて自分でも分かっていない。でも、彼女がここに居てくれた事に、何故だか内心嬉しく思っている。何が嬉しいのかも、僕には分からない。最近分からない事だらけだ。
「ふーん…」
悪戯に作った笑顔はさらに綻び、彼女の目が僕を捉らえる。
「ここで音楽を聞くのが好きなんです、ほっといて下さい。」
僕は視線をそらしながらぶっきらぼうに言う。我ながら愛嬌のない返答だ。言ってしまってから少し後悔した。それなのに彼女は嫌そうな顔一つせず、身を乗り出してさらに聞いて来た。
「何聞くの?」
「え?えっと...」
ほっといてという言葉はありがたい事に、彼女には届いていなかったらしい。でも何を聴くと言われても、いつもジャンルを気にしないで雑多に聴いている僕は、なんて答えればいいのか分からない。僕が返答を出すのに手間取っていると、彼女が助け舟を出してくれた。
「最近は、何聞いてるの?」
「アーチブレイキー」
「げっ、ジャズも聴くのかよ!やっぱ生意気」
即答した。さっきまで部屋で聴いていたアーティストだ。狭く感じた部屋と、モーニソが頭を過ぎる。
確かに小学生でジャズを聴くというのは、ちょっと背伸び感があるかも知れない。でも、生意気と言われようが、好きなものは好きなんだから仕方がないじゃないか。文句なら僕を音楽狂いにしたお爺ちゃんに言って欲しい。
「あなたは最近何を聞いてるんですか?」
僕は少しむきになりつつ、質問を返す。
「あなたじゃなくて佳香。昨日言ったじゃん。わたみくん記憶力はよくないタイプ?」
「渉です。どこの居酒屋ですか」
「あれれ、そうだったっけ?」
我ながら良いツッコミが出来たと思う。僕にこんなユーモアがあるとは自分にびっくりだ。わざと間違えたであろう彼女はにししと微笑むと、右手に持っていたスマホをポケットにしまい、頰に手をつきながら答える。
「最近だとレデュへとか、ビュークをよく聴くね。まぁ座りなよ、顔上げながら喋るの疲れるからさ」
「あ、じゃあ...失礼します」
「ん、どーぞ。」
隣の床をポンポン、と叩きながら彼女は言った。レデュオヘッドか、クレープなら僕も知っている。確か初期の頃の大ヒット曲だったはずだ。お父さんの持っている音楽雑誌で見た事がある。ビュークはちゃんと聴いた事がなかったけれど、確かメランコリックな曲が多かったはずで、トムユークともコラボをしていた気が...する。
僕は佳香さんの隣から、少し距離を置いた場所に腰を下ろすと、所在無さげにのコンクリートの床を眺めながら目を泳がせる。少し緊張感はあったけれど、不思議と不快感は無かった。僕からも質問をする。
「暗い曲が好きなんですか?」
「そんな事ないけど、最近はそんな気分」
「気分、ですか」
「そ。そんな日もあるんだよ、女の子には」
僕は男の子だけど、少し分かる気がした。気分が曇り色の時は、明るい曲よりも暗めの曲に寄り添いたくなる。佳香さんはきっと今、心が曇り色なんだろうと勝手に解釈した。
「なんでまた此処にいるんですか?」
質問攻め。そんな言葉が浮かんだ。僕はただ言葉のキャッチボールを成立させたいだけで、壁打ちになっていなければいいなと思いつつ、答えを待った。
彼女はポケットからタバコを取り出すと、その一本をコンクリートの床にトントンと小突き始めた。くしゃくしゃなタバコの先端から少し葉が溢れる。
「引っ越して来たばっかりだから、他の場所を知らないの」
佳香さんは、何処か遠くを見る様な目でそう言った。他の場所を知らないからって、普通此処を選ぶものなのか?まぁ僕が言えた義理じゃないんだけれど。でも合点がいった。だから今まで会う機会が無かったのか。
佳香さんは、ピンク色で光沢のある唇でタバコを加えると、ポケットからライターを取り出した。使い慣れた手つきでタバコに火をつけると、先端からは細い糸の様な煙が立ち上る。両親がタバコを吸っているからなのか、臭いは気にならない。
「佳香さんは何処から引っ越して来たんですか?」
僕は顔を上げると、また質問をした。別に沈黙が怖いわけではない。ただ何と無く、何と無く気になっただけだ。
「東京。父親の転勤で、もともとおばあちゃんが居たこっちに戻って来たの」
「渉くんこそどうしてここに来るん?」
居心地がいいから 、なんて言ったら笑われるだろうか。物心ついた頃からの習性で、特に考えなんてなく、ただ何と無く来てしまうのだ。けど理由は有るんだろう。それが僕にはまだ分からない。
「秘密基地は男のロマンなんです」
「ふふっ。」
口にしてからハッとした。我ながらアホな事を言ってしまった。自分の顔が赤くなっていくのが分かる。横目でチラッと佳香さんを覗くと、彼女はニヤニヤしているが、茶化すような事はしなかった。どうやら多少の理解はあるらしい。
「ロマンねぇ…」
少しの間沈黙が流れる。珍回答をしてしまった僕は、自分の発言を悔やんだ。恥ずかしさで胸が張り裂けそうだった。
落ちて来た夕日が、小窓を通して佳香さんをうっすらと照らす。後ろを振り向くと、後壁に伸びる影が、僕と佳香さんを繋いでいた。
二人の間の静かな時間が流れる。いつも一人でいる時とは違う居心地の良さを感じた。ゆったりとした空気の中、先に沈黙を破ったのは佳香さんだった。
「もう暗くなるけど、帰らなくて大丈夫?」
「そういえばそうですね」
「親も心配するだろうし、良い子は帰らないとね。ちゃんと歯磨いて寝るんだぞー」
「子供扱いしないで下さい」
いつの間にかもう日は落ちかけていた。そんなに時間が経ったのかと思い、親に持たされたスマホを確認すると、とっくに地域の小学生の帰宅時間を回っていた。外に目をやると、辺りに広がる田んぼが赤色に染まっていて綺麗だった。
「そろそろ帰ります」
立ち上がり僕がそう言うと、彼女はまたねと言った。
『またね』その言葉が心に染み付いて、剥がれない。僕は小さな声で言う。
「...また今度」
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