第5話 魔性の誘い (4)


 包丁を握る肩に、痛みが走った。

今日はどうにも、料理を作るのが億劫だ。

白ねぎを輪切りにしようとすると、肩に痺れが走って握力を保てなくなる。

昨夜、美桜ちゃんが激しくしたせいだ。


私の『霊力』によるものなのかは分からないけど、

普段なら彼女に傷つけられてもすぐに回復してしまうはずが、

今回に限っては、その痛みが中々引いてくれることはなかった。


「ももかぁ~お腹すいたわぁ~。ご飯まだ~?」

「もうちょっと待ってて!」


やっぱり今日はわざわざお料理しないで、

冷凍室に保存してあるシチューを解凍しておくべきだったかな?

こんな体調で台所に立つべきじゃなかったのかもしれない。


だけど、家事をしてると気持ちがとても落ち着くんだ。

私が今、無理して包丁を握っているのも、

意識したくない心配事があるからに他ならなかった。


美桜ちゃんは宍色さんを獲物ターゲットにしてしまった。

昨夜の出来事の後―――朝食を食べているときや学校に居る間、

何度も説得を試みたけど、美桜ちゃんは私の言うことに耳を貸してはくれなかった。

終いには、


『あんまりうるさいと貴女も殺してしまうわよ?』


などとまで言われる始末だ。

怖くなった私は、素直に引き下がることしか出来なかった。


壁に掛けられたデジタル表示の時計は、夜の19時を差している。

美桜ちゃんは今ごろ、どうしているんだろう?

まさかとは思うけど、宍色さんに危害を加えるような真似をしていないだろうか?


宍色さんの存在をこの世から消させるわけには……いかない。

いかないんだと、思う……。


私がそう思った、そのときだった。


『本音をおっしゃい?あの男に、居なくなってほしいんでしょう?』


頭の中で、美桜ちゃんの声が木霊こだましたのは。


『本当に? 貴女は本当に、宍色鴇也の生存を望んでいるの?』


頭の中の美桜ちゃんは、なおも言葉を続ける。

それは、昨夜の彼女が実際には言わなかった言葉。

私の妄想が一人歩きした、私の頭の中の美桜ちゃんだ。

妄想の美桜ちゃんと私が、脳内で言葉を交わす。


―――望んでる、よ。望んでるに決まってるじゃない。

だってあの人は、ママの大切な人なんだよ?


『ならどうして今夜、私を放っておいたの?

そばで私を監視しておこうと思わなかったの?』


―――え……?


『期待していたのでしょう?

貴女の監視を逃れた私が、取り返しのつかないことをするのを』


―――違う、違うよ。


『卑劣な子。そうやって全部私のせいにして。

カレが消えることを一番に望んでいるのは、他でもない貴女じゃない』


―――そんなこと、望んでない……!


「望んでないっ!」


ザクリ。

白菜が引き裂かれる音がした。

まな板の上で、包丁が震えている。

私の手が、ブルブルと震えていたからだ。

冷や汗がツーっと、額から垂れて、

自分が現実に戻ってきたのだということを、ようやく認識できた。


「ももか、急に大声出してどうしたのよ。顔色悪いわよ?」

「えっ、あっ、うん……ごめんなさい。ただの独り言、だよ? うん……」


母が、リビングから心配そうに顔を覗かせた。

放心していた私は、なんとか表情を取り繕って再びまな板に向き合う。


今のは全部、私の妄想だ。

こんなこと考えるのは、もうやめよう。

これ以上自分の内面を掘り進めば、

知りたくない自分を知ってしまいそうな気がする。

私は慌てて野菜を切って、お鍋に火をかけた。



「ももかの手料理食べるの、久しぶりな気がする~!

あぁ……これぞ家庭の味、って感じね!」

「いや、それって普通はママの手料理を食べた娘が言う台詞じゃない……?

っていうか一昨日、私の作ったシチュー食べたんでしょ?」

「ももかと一緒にお家で食べるのは久しぶりでしょ?

ももかが隣に居てくれると気分が違うの!気分が!」


私の手料理を美味しそうに食べる母の姿を見て、

少しほっこりとした気分になった。

さきほどまで荒んでいた心が、癒されていくのを感じる。

母がこんなに明るくなったのは、宍色さんが居てくれたおかげだ。

……宍色さんが居てくれたおかげ、なんだ。


晩御飯を食べながらニュース番組を見ていると、

"H県陰泣市連続美女失踪事件"の報道が流れた後、別のニュースが飛び込んできた。


何でも今日、有名なカルト教団関係者の死刑執行が決まったらしい。

20年前、王魔鬼神教おうまきしんきょうという宗教団体を立ち上げ、大規模なテロを企てたというその男性―――薔薇原 洋紅ばらはら ようこうの過去の姿が映っている。

その人は団体の教祖として頻繁にメディアに露出しており、

スピリチュアル系タレントのようなポジションで人気を博していたという。


「……実はママもね?

20年前、この人がやってるセミナーに良く顔を出していたのよ。

実際、薔薇原さんに会ったこともあるわ」

「え……そうなの……?」


テロリストとして有名な人と母が顔見知りだったという衝撃の事実を聞いて、

私はとても驚いた。


「若い頃、ママもミーハー気質だったからね。芸能人みたいだった彼のセミナーに顔を出すうちに、段々彼の考えに惹かれるようになってね」


「あの、そ、それって娘に話していい内容かな?

ママもテロリストのうちの一人だったとかそういう話なら聞きたくないよ?」


「違うわよ。

……テロを起こしたってニュースになったときは、流石のママも裏切られたなぁって気分になったわ。


だけどね?彼にはなんだか、人を惹き付けてやまない魔力があったのよ。孤独で、何かに縋りつきたいという人間を満たせるだけのカリスマが、彼にはあった」


孤独で、何かに縋りつきたいという欲求……。

20年前といえば、母が19歳の頃だ。

その4年後―――23歳のときに母は私を産んだ。


19歳の母は、そんなヘンな宗教にハマるほど、

孤独を感じながら生きていたんだろうか?

でもなんだか、母の今までを見ていると、ちょっと判るような気がする。


母は孤独で、いつも不安で、何かに縋りつきたくて、

その寂しさを受け止めてくれた一桃かずとさんを愛した。

そして、一桃さんを深く愛していたからこそ、

彼を失ったショックを受け止めきれず、恋愛に依存したんだ。


「ねえ。もしもさ。もしも、宍色さんに何かあったら、ママはどうする?」


私はふと、そんなことを聞いてみたくなった。

母の中での宍色さんの存在の重さを、私は確認したかった。

それを確かめることで、私はきっと覚悟を決めたかったんだと思う。


「ふふ。そんなの決まってるじゃない


……もう生きていけないわよ」


ママは笑顔でそう答えた。

笑顔で、柔らかな口調だけど、寂しそうな目をしている。

その顔を見て私は、迷いそうになる自分の意思を固めようと決意する。


やっぱり、宍色さんを美桜ちゃんに食べさせるわけにはいかない。


なんとかして、美桜ちゃんを説得しよう。

どれほど疎まれても、どれほど痛めつけられても。

もうこれ以上、大事な人を美桜ちゃんに渡すわけにはいかない。


『貴女にとっても、大事な人なの?』


美桜ちゃんの言葉が、私の頭の中で再び木霊した。

私は、スカートの裾をぎゅっと掴んで、


―――そうだよ。


と、心の中で強く答えた。


鈍りそうになる決意を、ぎゅっと掴んで離さないように。

ママの大事な人を守ることが、私にとっても正しいことなのだと信じ込むために。




 ―――喉が渇いて仕方ない。

昨日の夜、家に帰宅してから宍色はずっと癒えない渇きに苦しんでいた。


どれほど水を飲んでも、その渇きが止むことはない。

風邪でも引いているのだろうか?

一晩寝てもその渇きは冷めることなく、むしろ増していくような気さえしてくる。

高熱と立ちくらみを感じ始めたとき、宍色はその日の業務を休むことに決めた。


署に連絡を入れた後、電話を取った大野課長が怒っていた、


「昨日はどうしたんだ?お前が俺に話があるって言っていたから、

わざわざ夜遅くに署まで帰ってきたんだぞ?なのにお前だけ先に帰りやがって……」


文句を垂れてきたが、宍色には何のことだか分からなかった。



「春インフルの可能性がありますね」

病院の内科医はそう言って、宍色の鼻の穴に綿棒を突っ込んだ。


それから20分くらいして、

再び診察室に入った宍色に、内科医は「ただの風邪ですね」と告げた。


―――俺の20分を返せ。この藪医者が。


宍色は心の中でそう毒づいた。


宍色は独身だったが、警察の独身寮に住んではいない。

いい歳こいた中年は未婚でも寮から追い出される傾向にあるが、

彼の場合は20半ばで結婚した際に建てたマイホームにずっと居座っているのだ。


女を気兼ねなく家に連れ込めるのは快適だったが、

こうして体調を崩したときに後輩や同僚を頼れないのは不便だ。


独りで過ごすには広すぎるその家の中、

寝室のベッドで横になりながら、宍色はスマートフォンを手に取った。

人肌恋しい所だが、生憎と小梅は今、職場に居ることだろう。

こういうときこそ、愛人を呼ぶときだ。


電話帳アプリを開いた宍色は、ずらりと並ぶ名簿をスライドしていき、

一人の女の名前をタッチした。

アリエ―――あいつなら、どうせ真昼間でも遊び呆けていることだろう。

宍色は久々にアリエに電話し、すぐ家に来るよう言った。



「ケージさんが風邪引くとか笑える」


買い物袋を手に提げて宍色の家にやってきたアリエの声を聞いた宍色は、

相変わらずだな……と感じた。

2ヶ月ぶりに逢ったが、いつもと何一つ変わらない愛人の姿がそこにある。


―――一体いくつになったらこの女は落ち着くのだろうか?

こんな真昼間に呼びつけてもすぐに俺んちに来やがって。

水商売してるだかなんだか知らないが、ちったぁまともに生きたらどうだ。


なおも心の中で毒づく宍色だったが、

彼は"愛人"の来訪を悪く思ってはいなかった。

乾いた世界の中で生きてきた彼は、悪態をつくのがクセになっているのだ。


「ほら、おかゆ作ったから。これ食べて元気だして」

「お、おう……」


アリエが見せた意外な一面に、宍色は困惑していた。

こうして家庭的な一面を見せられると、まだまだ子供だと思っていた相手も、

それなりに落ち着いた大人に見える。


「なんだおめえ、しばらく見ないうちに、女らしくなったな」

「なに?急に。『女らしく』って、あーし女だから当たり前じゃん。ウケる」


おかゆを啜りながら宍色は、酷く懐かしい気分が押し寄せてくるのを感じていた。

家庭―――今となっては遠い、存在だ。


宍色の渇きが突然、グッと高まった。

抑えられないその渇きに、宍色は思わず喉を押さえる。


「痛え……!

いてえイテエ痛ええええええ!!!!!」


渇きは宍色の限界を超え、灼熱のような痛みを発した。

理性を失った宍色は、血走った眼でアリエに襲い掛かった。


「どうしたワケ?

生命の危機に立たされて本能に火がついちゃった?ケージさんがレイプとか笑える」


痛みと渇きと高熱と立ちくらみ。

朦朧とする意識の中、幻覚を見ていた。


それはかつて、手を伸ばせば届いたはずの幸せ。

実際には彼の手をすり抜けていった幸せ。

彼の手をすり抜けていった女達が、目の前のアリエの姿に重なる。


―――女ぁ……女女オンナおんなおんなぁぁぁぁぁぁっ!!!!


彼にとって全ての女は、"かーちゃん"であり"元嫁ゆきえ"だった。

宍色が今日まで沢山の女を喰らい、穢し続けてきたのは、彼女らに復讐するためだ。


そして今日、『バケモノ』と化した彼は、

『女』への極上の復讐法を、誰に教わるわけでもなく、見つけてしまった。


宍色に掴みかかられたアリエの足元に、突如として砂の渦が現れた。

フローリングの床に突然現れた"渦"に脚を取られたアリエは、

助けを求めて宍色の身体に手を伸ばしたが、

血走った目の宍色は、アリエの身体を蹴飛ばして、渦の中に彼女を蹴落とす。


底なしの沼に落ちていくかのごとく、アリエは砂の渦に全身を飲まれた。


「やだっ!ナニコレ!?嘘、助けて!!!!ケージさん!!!!!助けてぇえええ!!!!いやぁああああああああああ!!!!」


叫びを上げるアリエだったが、

頭まですっぽりと飲み込まれては声を発することすらままならない。


アリエを飲み込んだ渦が、段々と小さくなっていく。

渦が消失する寸前、宍色の背中から薄い羽根が4本生えた。

羽根の生えた宍色は、アリエを追いつめるため、渦の中へと頭から突っ込んでいく。


一人の人間と、一匹のバケモノ。

二人が渦を通過したあと、部屋の中は静寂を取り戻した。


誰も居ない一軒家に、おかゆの匂いだけが漂っていた。




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