第5話 魔性の誘い (3)


 カコン。

乾いた音が、室内に響いた。

その音に一寸遅れて、硬いモノ同士がぶつかり合うような音がカコンカコンと続く。


宍色の突いた白い手玉は卓上にある⑦のボールを弾き、

残った⑧と⑨のボールさえも連鎖して吹き飛ばした。

3つのボールが卓上端のポケットに吸い込まれていく。

⑨ボールをポケットインさせた宍色は、5ゲーム目を制した。


宍色と美桜のスコアは、いま現在『4-1』だ。

先に5ゲームを制したほうの勝ち、

という"ゴサキ"のルールで二人はビリヤードを遊んでいる。

状況は宍色がかなり有利で、ここから美桜が逆転するのは難しいだろう。


「……追い詰められてしまったわね」

「巻き返せないほどじゃねえさ。俺から連続で4ゲームを取れるなら、な。

まぁ、頑張って巻き返してくれよ。応援しているよ」

「……意地悪な人。そんなこと、心にも思ってないくせにクセに」


宍色は時々、美桜がももかと同年代の女だということを忘れそうになってしまう。

彼女の放つ空気や佇まいが、10代の子供には似つかわしくない色気を醸し出しているからだ。

しかし今、自分の目の前で口を尖らせる美桜の表情が歳相応に幼く見えて、

宍色はその事にちょっとした安堵を覚えていた。


「ねえ」


卓上に綺麗に整列された9つのボールの塊。

キューと手玉でそれらを狙いながら、美桜は尋ねた。


「この勝負に勝ったら、私に何をさせたい?」





 夜の街に飲み込まれた二人は、軽い食事の後、ビリヤードバーへと入っていった。

アルコールを取り扱っているその店では、未成年の入店は禁止されていたが、

彼女が酒を飲めないような年齢の女だとは誰も思わなかったが故、咎められることなくすんなりと入店できた。


ビリヤードを始める前、美桜は宍色に提案した。


『せっかくだし、何か賭け事をしましょうよ。

……この勝負に勝った人は負けた人に一つだけ、

なんでも言うことを聞かせることが出来るの』


―――始まる前からそんなことを言い出すとは、

よっぽどビリヤードの腕に自信があるんだろう。


そう思っていた宍色だったが、実際にゲームが始まってみると、

ほとんど宍色のワンサイドゲームと化してしまった。


過去、ビリヤード好きの女を愛人にしていた宍色は、それなりの腕前を持っていた。

そのお陰で今、極上の女をモノに出来るチャンスに恵まれている。

勝負に勝った際、宍色が願うのはもちろん美桜のカラダだ。



卓上に身を伏せるような体勢になって、美桜はキューを構える。

その姿はさながら、伸びをする黒猫のようだった。

黒いワンピースドレスは美桜の身体にぴっちりと張り付き、

そのカラダの、女性らしく柔らかな曲線美を露にする。


美桜を後ろから眺めていた宍色は、ほっそりとしたその背中を、

強調された美桜の臀部を、思う存分視姦する。


―――この女を後ろから征服した時に見られる景色は、こんなもんだろうな。


宍色は頭の中で美桜のドレスを脱がし、その素肌の美しさ滑らかさを想像し、

さらに欲望を、高まらせていく。


もしやこの女は、最初から俺にモノにされることを期待してこんな勝負をけしかけて来たのではないだろうか? そんな妄想を抱き始めた宍色の前で、

美桜が白い手球を弾いた。


手球は①のボールを大きく弾き、整列されていた9つのボールを一斉に吹き飛ばす。

一つのボールが、ポケットに入った。⑨のボールだ。

ゲーム開始のブレイクショットで⑨ボールを沈めた。

ブレイクエースを決めたのだ。


大会などによってはブレイクエース無しのルールもあるが、

二人が今居るビリヤードバーではそんな制約はない。

美桜はその次のゲームも、そのまた次のゲームも、

ブレイクエースを決めて宍色にキューを渡さなかった。


やがて両者のスコアは『4-4』となり、

有利だったはずの宍色は、逆に追い詰められる形となった。


「面白くなってきたわ。……ねえ?宍色さん」

「ちっ!お前、本当の実力を隠してやがったな?」


最後のゲームだけは、美桜がブレイクエースを外し、宍色にキューを委ねた。

キューを構えた宍色は、目の前の絶世の美女をなんとしてでもモノにするため、

ボールを打ち落としていく。


―――せっかくのチャンスを不意にしてなるものか。

こんないい女、滅多に抱けねえんだぞ。


二人は順調にボールを減らして行き。残るは⑧、⑨のボールだけとなった。

美桜がキューを構え、黒猫のように身を伏せる。


「……これで最後よ。宍色さん。

このワンショットで⑨ボールを落とせなかったら、私の負けでいい」


馬鹿な、と宍色は思った。

⑧と⑨のボールはそれぞれが真反対の方向にあった。

⑧のボールが残っている以上、美桜はそれを狙うしかないが、⑧のボールを弾いて⑨ボールを落とす―――所謂キスショットを成立させるのは位置的に難しい。


⑧ボールを手球で弾いて、真反対の位置にまで弾き飛ばし、

そのうえ⑨ボールをポケットに入れる必要があるのだ。

そんな真似は、プロでも難しい所業だろう。

そして美桜は今、それが成功しなければ自分の負けで良いとまで宣言している。


「はは……はははは」


宍色の口から、乾いた笑いが出た。

美桜が失敗すれば、宍色の勝ち。

そして、勝者は敗者に、何でも一つだけ言うことを聞かせることが出来る。


―――もはやこの女はもう、俺のモノになるのが確定したようなものだ。

というかコイツもそれを望んでるんじゃねえのか?


宍色がニヤリと笑い、美桜は妖艶に微笑む。

命運を握る手玉が今、美桜のキューによって弾き飛ばされた。


白い球は大きくカーブを描いて、⑧ボールの背後に回り、⑧を弾き飛ばす。

弾かれた⑧ボールは、真反対の方向―――⑨ボールの元へと向かった。

だが、⑧ボールの軌道は⑨ボールが佇む位置からは微妙に逸れている。


―――失敗だ……!

これで俺の勝ちが決まった!


グッと拳を握る宍色だったが、まだゲームは終わっていない。


ボールが横道へと転がっていく最中、

美桜は右手で⑧ボールを指差し、人差し指で4分の4拍子を切った。

軌道を逸れたかと思われた⑧ボールは、

独りでに方向転換して⑨ボールの端へと接触し、

⑨が奇跡的なカーブを描いて、ポケットに吸い込まれていく。


美桜の勝利が確定した。


「あ……あぁ……」

宍色の顔に落胆の表情が浮かぶ。

予想外にもショックが大きいことに気づいた宍色は、

そんな自分の様子を客観的に見て苦笑した。


―――俺としたことが、たかが遊び風情に熱くなってしまった。


そして、酸いも甘いもある程度飲み下してきた中年男を

ここまで燃え上がらせた目の前の若い女に、感服した。

―――コレが十五、六のメスガキだなんて絶対に嘘だろう。


「私の勝ちね。……じゃあ、私のお願い、聞いてくれる?」

「仕方、ないな……俺に出来る範囲で頼むぞ?」


満足したかのような表情で、しかし肩を落としながら宍色は言った。

―――セックスなしでも、女と遊んで楽しいと感じられたのは久しぶりだ。

お礼に、少しのわがままくらいは聞いてやろう。


金が欲しいとか、ブランド物が欲しいとか、

海外のどこかに行きたいとか、夢を叶えるためのツテが欲しいとか、

若い女が抱く欲望など、たかが知れている。この女もそのクチだろう。


いいさ。大人の財力や権力をもってすれば、叶えてやるのも容易いんだ。

コイツは一体、どんなモノを欲しがるんだろうな。


今まで女との間に交わしてきた欲望の等価交換の数々を思い出し、

若干の辟易を覚えながら宍色は美桜の返答を待った。


美桜は宍色の瞳を真っ直ぐ見つめていた。

愛おしさを隠さない表情で、中年男と真っ直ぐに向き合っていた。


美桜は顔を近づけ、男の唇に自らの唇をそっと重ねる。

柔らかく瑞々しいその感触が、宍色に、ももかの唇を思い出させた。

―――この女……何の、真似だ?


驚いて目を白黒させる宍色から唇を離して、美桜は言った。


「また、デートに誘ってくださる?……それが、私のお願いよ」


人を惑わす愛の囁き。天使の歌声のように、澄み切った声。

甘美な言葉を吐いた美桜が、妖しく微笑む。


『長い黒髪の女』などという危険人物の存在は、

宍色の認識からすっかり消え去ってしまっていた。



 ももかのスマホを盗み見たことで宍色鴇也の連絡先を知っていた美桜は、

自分のスマホを使って、宍色鴇也の番号に電話を入れた。


宍色のスマホ画面には、美桜の電話番号が

―――未登録の数字の羅列が表示されていたはずだったが。

彼はそれを、ものの見事に"愛人"の電話番号だと誤認してしまっていたようだ。


すべては宍色をからかうための美桜のイタズラだった。

自分の電話番号を別の親しい人間のものと勘違いするよう、

電話越しに『幻惑』をかけたのだ。


血相を変えて駅の中を歩き回る宍色の気配ニオイを遠くから『嗅いで』いた美桜は、ハトの像の前で笑いを堪えながら彼を待っていた。



 ビリヤードバーで宍色と別れた後、

赤を基調とした高層マンションの屋上で、

美桜はこの街の夜景を見下ろしていた。


宍色は今頃、運転代行に愛車を任せ、自宅に帰っていることだろう。

屋上からは街の車道を走る車たちの灯りが見えたが、

高所からではどれも一律に豆粒のようにしか見えない。


『嗅覚』を研ぎ澄ませばどれが宍色の車のものなのか特定出来るかもしれないが、

そんなことをしても詰まらないだけだ。詰まらないし、どうでもいい。


美桜は確かに宍色とキスをした。そのうえ、次のデートの口約束さえ交わした。

だが美桜にとってのキスとは、いわば"暴力"の手段だ。

甘い言葉も気のある素振りも、

全ては腹の立つ相手を食い殺すための下準備に過ぎない。


人間の間で交わされるような、

"愛情表現"としてのキスを、『バケモノ』がするはずはなかった。


―――私は、人間が大嫌い。

彼らはいつも、イライラするほど美味しそうなニオイを発して、私を苛める。

例外は、『霊力』に富んだ人間だけ。

『嗅覚』の通じない人間だけが、私を苛めないでいてくれる。


美桜は右手の人差し指で、自分の唇にそっと触れる。

そうして、宍色とのキスの感触を思い出した。


―――乾燥していた。タバコとお酒の味がして、ちょっと苦かった。

私とキスを交わした瞬間、あの人はももかとのキスを思い出していた。


柔らかくて瑞々しい、甘い味のする、ももかの唇。

『嗅覚』のチカラによってももかとキスした記憶を得られたのは、

美桜にとってはこのうえなく嬉しい誤算だ。


どれほど彼女を好んでいても、

本物のももかとキスするわけにはいかない。

美桜にキスされた人間は、狂気に飲まれてバケモノと化してしまう。


安易なキスで穢したくないと思えるほどには、

美桜はももかのことを愛おしく思っている。


『バケモノ』にとってのキスは、"暴力"の手段。

だが同時に、わずかに残る美桜の『人間』の部分が、

愛しい者とキスをしたいという想いを募らせる。


その二律背反の感情が、

生暖かいむず痒さを美桜に感じさせていた。


「……返してもらったわよ。ももかの唇を」


見下ろした街並みのどこかにいるであろう宍色鴇也に向けて、

美桜は小さく呟く。


とりあえずは、だ。


自分の"モノ"に手を出した罪を、

”暴力"によってあがなわせることができた。


あとは待つだけだ。

宍色が覚醒する、その時を。


―――いったい、どんな香ばしいおにくが出来上がるかしらね?


『調理』の仕上がったニクの味を想像して、美桜は舌なめずりをした。

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