第2話 二度目の裏切り (3)


 炒めた具材の色味が変わったのを見計らって、小麦粉とバターを投入する。

小麦粉の粉っぽさが無くなるまで火を加え続けた後、

水、牛乳、固形コンソメ、ローリエを鍋の中に入れた。


それから……隠し味。

母の大好物であるウイスキーをちょっと拝借。


長く煮込んでアルコール分が飛んだウイスキーは、

飴色に炒めたタマネギのようなコクをシチュー全体に与えることになる。

お玉で掬ったシチューを一口味見して、私は"勝利"を確信した。

うん……これはいける!我ながら最高の出来栄えだ!


「流石は手馴れたもんだな。ももかちゃん」


リビングでテレビを見ていた宍色さんが、

キッチンの入り口に立って私を見守っていた。

味見がしたいという彼の要望にこたえて、

お玉で救ったシチューを小皿に取り分けて宍色さんに渡す。


シチューを啜るなり、「んっ!」という、驚いた声を発した宍色さんを見て、

私は心の中でガッツポーズをするのだった。


「美味い!美味いなももかちゃん!

こりゃあどこへ嫁に出しても恥ずかしくない腕前だ!」

「えへへ、マ……母の教え方が上手だからですよ~!」


笑顔でそう返す私だったけど、

実は母に料理を教わったことなどほとんど無いことを思い出して、

複雑な気持ちになるのだった。


……あとでママにもこのレシピ教えとこう。うん。


宍色さんが晩御飯を食べに来ると知って、

今朝大急ぎで家中を片付けておいて良かった。

私が留置場に居た数日の間に家の中は嵐が過ぎ去った後みたいな酷い状況になっていたけど、今こうして整理整頓された部屋を見た人は絶対にそんなことを思わないだろう。


とりあえず、シチューは完成した。

あとは母が帰ってくるのを待つだけだ。

パン屋さんで買ってきたクロワッサンをオーブンで焼きなおそうとした私の肩に、

宍色さんの手が置かれる。


どうしたんだろう?

そう思って振り向いた私の瞳に、宍色さんのにやにやした顔が映る。

私の第六感が、何かを叫んだ。


この感触。この空気。

私はどこかで、男の人がこういう空気を発するのを、見たことがある……。


宍色さんの手は、女の子とは違う。

ゴツゴツとした逞しい手。

私はその手を美桜ちゃ……赤月さんの柔らかい手のひらと比べてしまっていた。

ここ最近でもっとも肉体的接触の多かった相手が、赤月さんだからだろう。


……今の宍色さんから発せられるこの雰囲気は、

私の血を吸おうとする赤月さんの雰囲気に、ちょっと似ている。

私の……血肉カラダを求める、彼女の雰囲気に。


「ももかちゃん……制服姿にそのエプロン、とても似合ってるよ」


ゾクリ。

ゾクリ。

ゾクリ。


宍色さんが発した熱っぽい声に、私は鳥肌が立った。

男の人のこういう声を聞くのは、コレが初めてじゃない。

―――そうか。やっと分かった。


宍色さんのそれは、"怖い人"が私を襲うときに発する甘い声だ。


私を襲ったときの前原先生。私を襲ったときの新田くん。

私を襲おうとしたときの深紅ちゃん。私の血液を求めるときの……赤月さん。

私を求める人たちは皆、そういう甘い声を発する……!


身の危険を察した私は、身を捩じらせて逃げようとする。

だけど、相手は刑事さんだ。

野太い鉄の塊のような両腕が私の両手首を素早く掴み、

私の身体を思い切り壁に抑え付けた。

敵うはずはなかった。……逃げられるはずが、なかった。


ゴトン!と大きな衝突音が響いた。

その振動で、壁にかけてあった調理器具が床に散らばっていく。

ガラガラと甲高い音を立てて、ヘラやお玉が床に吸い込まれていった。


恐怖で身が竦んでしまった私の目の前に、

興奮で顔を真っ赤にした宍色さんの顔が迫ってくる。


怖い……!

こんなの、もうやだよぉ……!!


「は、離っ、して、ください……!大声で、助けを呼びますよ!?」

「……ふ。


あっははははっ!

……お前、自分の立場分かってんのかよ?」


勇気を出してなんとか搾り出せた抵抗の言葉は、彼の暴力的な言葉にかき消された。


「俺がその気になりゃあなぁ!?

今からでもお前のこと再逮捕して失踪事件の罪を全部被せる事だって出来るんだぞ?


検事に掛け合ってお前の容疑を晴らしてやったのは一体誰だと思ってやがる?

俺がその気になりゃあなあ!!

てめえみたいな何の力もないガキ刑務所にぶち込むくらいワケねえんだよ!!!」


思い切り顔を叩かれたみたいな衝撃が、私の耳を苛めた。

一切殴られたり叩かれたりしてないのに、声の圧力が強すぎてそんな風に感じてしまう。声だけで暴力を振るえる人を、私は初めて目の当たりにした。


新田くんたちみたいな"不良"とはまるでレベルが違う。

警察の人なのに、まるで本物の"ヤクザ"みたいだ。


私の顎が恐怖で震え、ガチガチ、ガチガチと、

歯同士のぶつかり合うみっともない音が響いた。


私は、この人に弱みを握られてしまっている。もう、逃げようがないんだ。

私の視界が段々くすんでいき、意識はあるのに現実感がないような、

白昼夢のふわふわした感触が蘇ってきた。


男の人の暴力に晒されるとき、私は決まって現実感を手離す。

前原先生のときも、新田くんのときもそうだった。


……それが、自分を守るための唯一の手段だからだ。


私は今、両手首を頭上で捻り上げられて、壁に押し付けられている。

左手で私の両手首を抑えた宍色さんは、自由になっている右手で、

私の胸を服の上から乱暴にまさぐった。


乳房が、ゴツゴツとした宍色さんの手つきに合わせて変形していく。

ブラジャーの中のワイヤーが、肉に食い込んで私を虐めた。


痛い。痛くてたまらないのに、……怖すぎて、声が出せなかった。

宍色さんはそうしてしばらく、無抵抗となった私の乳房を、右手で好き放題嬲った。


「へへ……。大人しくなったな。

最初こそ抵抗したが、お前も結局好きモンのオンナってワケだ」


「……!?」


「学校でのお前のことは良く知ってるよ。

捜査する上でお前の学校の生徒に聞き込みしたからな。

随分派手に遊んでるらしいじゃねえか?」


「ちっ、違い、ます……!あれは……皆が、そう、思い込んで、いるだけで……!」


「何が違うんだよ。中学の頃だって若い教師と派手に遊んでただろ?

学校の中でヤってるとこ見つかったりしてよぉ!


可愛想だよなぁ相手の先生も。お前みたいな悪女に誑かされなけりゃ職を失わずに済んだってのによぉ!!!」


「そ、そんな……! 私の事、そんな目で見てたんですか……?」


4年間ママと付き合っている宍色さんは、

中学生のときに起きた"あの事件"のことだって知っている。


あの時は『安心しろよ。またあの男に襲われそうになったら俺がとっちめてやるからよ!』なんて言ってくれて、とても心強くて嬉しかったのを覚えている。


彼はあの時も、そんなことを思っていたの……?

"好きモノの私が前原先生を誑かした"、だなんてことを。


悲しくて悔しくて、私の瞳からは大粒の涙がこぼれた。

信じていたのに。宍色さんのことを信じていたのに。

男性不信気味の私が、唯一信じることの出来た男の人だったのに。

私の……お父さんになってくれる人だと思ってたのに……!


頬を伝った涙を、宍色さんがキスをするように舌で舐めとった。

頬をついばみ、顎をついばみ、

彼の唇が、ついに私の唇に接触しようとする。

"それ"だけは許せなかった私は、必死に顔を背けて宍色さんを拒んだ。


怒った宍色さんは、私の頬を平手で叩いた。

乾いた音が、辺りに響く。頭が真っ白になる私。

意識を取り戻した頃、私の唇はすでに、宍色さんに吸い付かれていた。


「んっ!?んん、んんーっ!?」

「はぁっ、はぁっ、……ははははは!!!

美味え……!若い女の唇……!美味えぞ!!!」

「んっ、んっ、……ぐすっ……う……うぅぅぅぅ……!!!」

「……なんだよお前。泣くほど嬉しいのか?俺に抱かれるのが」


宍色さんが、言葉の追い討ちを掛けた。


「あのホテルに居たのだって大方皆で仲良くラリって乱交でもしてたからなんだろ?"蜘蛛の怪人"がどうこうなんて凝った言い訳考えやがってよぉ……!

あそこが若い奴らのシャブスポットだってのはこの間パクったヤクザから聞いてんだよ!!!!」

「ぐすっ……違う、違う違う違うぅぅぅぅ……」

「こんなとこにキスマークつけやがってよぉ!

派手に楽しんでんじゃねえか。えぇ!?」


キスマーク……それはきっと、赤月さんが私の血を吸うときに付けた傷だ。

彼女の牙によってつけられた傷はもう治りかけていて、

赤い痣を残すのみとなっている。


彼女の"愛情表現"によってきざまれた刻印。私が、彼女の最愛の友人である証。

ほんの数時間前まで隣の席からちょっかいばかりをかけてきていた彼女の姿が、私の頭の中に浮かぶ。その幻影に、私は手を伸ばした。


なんで。何でこんな時に貴女の顔を思い浮かべるんだろう?


赤月さんにはあの日、深紅ちゃんから助けてもらった。

なのに私は、今朝彼女に対して辛く当たってしまった。


そんな態度を取っておきながら、今もこうして

彼女に助けを求めてしまう自分の浅ましさが嫌になる。


ごめんね。赤月さん。

ここで穢されてしまうのはきっと、浅ましい私に対する、罰なんだ。


「ぐわああっ!!!???」


―――諦めかけた、そのときだった。

バシュウン!

けたたましい音が響き、宍色さんが壁際へと吹き飛ばされる。

目を開けると、床に這い蹲る宍色さんの姿と、

目の前に展開された赤いバリアの姿が目に映った。


私の胸元で、ペンダントが光っている。

―――何度目になるだろう。こうして、赤月さんの力に助けてもらうのは。


バリアが消えてしまうまで、余り時間がない。

私はうずくまる宍色さんを残して、玄関まで走って、家を飛び出た。


「てめえ!!!ここで逃げたらどうなるか分かってんだろうな!!???」


背後から、宍色さんの怒号が飛んでくる。

私はそれに構うことなく必死に走った。

ここで逃げたら後々どうなるかなんて分かってる。

弱みを握っている彼から逃げることがどういう意味かなんて分かってる。

分かりきっているはずなのに、体は勝手に動いてしまっていた。


逃げなきゃ……逃げなきゃ……!

無我夢中で走る私は、マンションの姿が見えなくなるほど、遠くまで走った。


それより更にもっと遠く。

どこまでも遠くに行きたくて。

駅に入って改札に定期パスをかざし、電車に飛び乗った。


定期パスはスマホカバーの内側に入っている。

ブラウスの胸ポケットに、スマホと一緒に入っていた。


電車の中に入ると、帰宅ラッシュの時間帯だからか、人が大勢居た。

私は隅の吊り革に捕まり、息が上がるのを堪える。


走っていたときは何も感じなかったのに、

足を止めてジッとして居ると、体の代わりに頭が回り始めたのか、

寂しさと不安と痛みと気持ち悪さが一気にこみ上げてきた。


吊り革を掴んでいないほうの腕で、自分の身体を抱きしめる。

そうすると、心細さに繋がる何もかもが紛れるような気がした。



―――レイプ未遂という形で、

信頼していた大人に裏切られたのは、これが二度目だった。

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