第2話 二度目の裏切り (2)


 朱道橙介しゅどうだいすけが目の当たりにしているのは、

真っ赤に染められた内装だった。

床や壁、天井やインテリア。ありとあらゆるものにギトギトとした油脂がこびりついており、まるで建物そのものが出血しているかのような錯覚すら覚える。

いま彼の視線の先にあるのは、かつて命だったものたちだ。

―――その暴力的かつ凄惨な光景を見て、朱道は思わず生唾を飲んだ。

そして、己の身の内からこみ上げてくるものをなんとか堪えようと、

彼は自分の腹部に手を当てる。


「し、宍色さん……これ……」


朱道の腹の虫が、空腹を訴える。

本能の音が、"命をよこせ"と言わんばかりに、グゥ~!と唸った。

視線を向けられた先輩刑事―――宍色鴇也ししいろときやは目を伏せたまま朱道に告げる。


「ああ。遠慮しないで好きなだけ食え」


先輩の許しを得た朱道は、己の欲望に身を任せ目の前の食事に喰らいついた。

ガツガツ。ムシャムシャ。バリバリ。

朱道は、むき出しの本能に従うまま、"命"を胃の中に収めていく……。



朱道と宍色。二人の刑事が足を踏み入れた先は……赤い内装の中華料理店だ。


「いやぁ~!お腹ペコペコですよ~!朝ごはんを食べそびれたままでしたからね!」


がっつく、という表現がふさわしいほどの勢いで、

朱道が目の前の肉料理を平らげていく。

最近、歳のせいか食欲が落ち着いてきた宍色は、

後輩が料理に飛びつく姿を見て満足げな表情を浮かべた。


「しかし、さっき取り調べた吉田って先生……。

ありゃあ、良いオンナだなぁ。もう一人の石原って子もだ」

「ちょっと、バクバク。宍色さん。もぐもぐ。

節操なさ過ぎですよ。ゴクゴク。彼女に聞かれたら怒られますよ。ガツガツ」

「……お前、喋るか食べるかどっちかにしろ」

「しかし……パクパク。妙ですよね。モグモグ。

東雲ももかと吉田景子は、ゴクゴク。

蜘蛛の怪人に言及していたのに。……っぷはー!

石原あずさだけは何にも覚えてないなんて」


午前中、宍色と朱道は被害者二人が搬送された救急病院へと赴き、

昨日意識を取り戻したと言う吉田景子と石原あずさの両名と短時間だけ面会をした。


吉田景子は昨夜の報告どおり、『自身が"蜘蛛の怪人"に襲われ、毒物を注入されて繭の中に監禁された』と話しており、ももかの証言に信憑性を持たせる結果になったが、もう一人の失踪者である石原あずさは違う。彼女は、


『何も覚えてない。気づいたらあのホテルで倒れこんでいた。

誰に連れて行かれたのか分からない』


と証言し、まだまだ記憶の混濁がある様子だった。


「まぁ、時間を置けば何かを思い出す可能性もある。気長に調べるしかないさ」

「そうですね……」


朱道はそう言うと、箸を止め、神妙な面持ちで考え事を始めた。

さっきまでガツガツと中華料理を頬張っていた男の急な変わりように驚いた宍色は、朱道に声を掛ける。


「……どうした?なんか気になることでもあるのか?」

「いえ、その、東雲ももかや吉田景子が言っていた、

『もう二人の失踪者』っていうのがどうにも引っかかってるんです」

「……ほう」


この二人の知る由もない話だが、『鬼』に抵抗できる『霊力』を持った人間は、『鬼』の能力による認識改変の影響を受けにくい傾向にある。


『霊力』は基本的に清らかで気高い魂に宿る。


所謂、"善人"や"お人よし"にカテゴライズされるような人間には

『霊力』が宿りやすいのだ。

吉田景子が蜘蛛のことをはっきりと覚えていられるのは、

彼女がそういった善性を持っているからにほかならない。


だが善人だからといって必ずしも強い『霊力』を有しているとは限らない。

『霊力』の強弱は肉体面―――その者が生まれ持つ体質にも大きく左右される。

吉田は他の人間と比べれば『霊力』に恵まれている方だが、

体質と精神の両方に恵まれているももかに比べれば微弱だ。


今回の事件に関することも、吉田が直接の被害者ではなくただの傍観者だったなら。

"蜘蛛の怪人"の存在どころか、

被害者の本当の人数すら忘れてしまっていたかもしれない。


『鬼』の認識改変の影響を完全に受けないでいられるのは、

よっぽどの天性に恵まれた者か、『霊力』を研鑽し続けてきた者だけだ。


しかしそうでなくとも、『鬼の幻惑』が通じづらいだけの―――微弱な『霊力』を有しているだけの者ならば、意外に多く存在する。

"蜘蛛の怪人"に襲われ、被害者が4人居たことを朧気おぼろげながら覚えている吉田景子や―――。


「こんなこと言ったら正気を疑われるかもしれませんが……。

実は僕も失踪者って元々4人居たような気がするんですよね。

この事件において失踪者が"2人"だと聞くと、何だか妙な違和感を覚えるんです」


―――この男。

青年刑事、朱道橙介しゅどうだいすけである。


「……はあ?急にどうしたんだお前まで。ほだされちまったのか?

数日前のニュースや捜査資料を見てみろ。他に二人も居ないだろ?」

「い、いえ……そうですよね!何の根拠もない僕の錯覚です。すみません」

「……ったく、しっかりしろよ」


そしてその微弱な『霊力』持ちの大半は、鬼によって引き起こされる改変に違和感を覚えつつも、そんなものは何かの記憶違いに過ぎないのだろうと結論付け、流されながら生きていく。


何かの記憶違いか、もしくは勘違いだ。

理性ではそう思いつつも、彼らの深層意識の中ではその違和感が蓄積されていき、

やがてそれは火山に眠る溶岩たちのように、現実世界に"噴火"する。


世界各地に散らばる異形の怪物に関する噂や伝説。

妖怪絵巻などに代表されるような美術、芸術。

そして、異形のバケモノを取り扱った文芸や映像作品。


人智を超えた神や精霊、悪霊など、異形のバケモノたちを題材にした数々の創作物たちは、そうした『素質』を持つ者たちの無意識の奥に残った『違和感』が発露したものなのだ。





 校門の前の長い階段を下りると、

車道を挟んだ向こう側の道路脇に、見覚えのある一台の車が止まっていた。


あんな事件に遭遇した直後だ。しばらくは電車での通学をやめて、

今朝からは母の車で送り向かいしてもらえることになっている。

だけど今日はあいにく、母の仕事が遅くなるらしく……。


「よぉ、おつかれさん、ももかちゃん」


今日の帰りは、宍色さんに送ってもらうことになった。

助手席のドアを下ろして、宍色さんが車内から手招きをしてくれる。


車の傍に近寄ると、宍色さんの向こう側―――

運転席に居た男の人が、私に向かって会釈してきた。


「こんにちは……ってあれ!?貴方は確か取り調べのときに居た……!?」

「こんにち……って、ええっ!?

宍色さんが彼女の連れ子を家まで送ってやりたいっていうから来たのに……。

東雲容疑者がその連れ子だったんですか!?」


「おいおい容疑者はねえだろ。もう容疑晴れてんだから。なあ?」

「……道理であの時この子を庇ったワケだ……職権乱用ですよ宍色さん!

こんなことが戸津野さんにバレたら……」

「お前はバラさねえだろ?

こまけえことは気にすんなよ。禿げるぞ?大田課長みたいに」


もう一人の男の人は、

取り調べのときに居た……確か、朱道さんだ。

見覚えのある顔に思わず思わず身構えてしまう私だったけど、

話を聞くとどうも取り調べ目的とかそういうことではなさそうで。安心する。

つまりは二人揃って私を送るために仕事をサボってくれているワケか……。

……ちょっと、いや、かなり申し訳なく思う。


「大丈夫大丈夫!『被害者の一人である東雲ももかの取調べに当たっていましたー!』とかなんとか言っとけばどうとでもなるさ!」


「まぁ戸津野さんには嫌味言われそうですけどね。

『随分長い時間取調べしてたんですねー』とか」


「あーあー、言いそうだな、アイツなら。

戸津野は真面目すぎるのが良くないところだ。

朱道、お前アイツの相手してやれよ。ちったぁ柔らかくなるかもしれねえぞ?

……ってお前は漫画オタクだからリアルに興味ないんだっけか?」


「失礼ですね!そこまでじゃありませんよ!

……だけど戸津野さんは固すぎてちょっとなぁ」


男性二人に囲まれて肩身の狭い私の雰囲気を察してか、

それからの二人は私が話しやすそうな話題を色々と振ってくれて、おかげで家に着くまでそれほど緊張せずに済んだ。


特に朱道さんはまだ若いからか、

流行りの漫画の話なんかを振ってくれるのが助かった。


実は私も漫画を良く読むほうだ。父が漫画好きだったし、中学の美術部にも漫画好きの子が多かったので良く貸し借りしたりしていた。

友達が居なくなってからは漫画喫茶で時間を潰すこともぼちぼちあったし……。

―――これはママにも宍色さんにも秘密にしてるんだけど、自分で漫画を描くこともある。昔からお絵かきが好きだったから、その延長だ。


「ルフィが兄エースを救い出すシーン、マジいいシーンなんすよ……」

「分かる!分かります!私もあのシーン凄く好きなんです!」


そんな風に話していると、あっという間に家に着いた。

今日はこのまま直帰だという宍色さんは、

私と一緒に車から降りて、朱道さんを見送った。


元々、今日の晩御飯は私と母と宍色さんの3人で食べようという話をしていたんだ。

ママが手作りのシチューを振舞う予定だったんだけど……。

当の本人が仕事で遅くなるといっているのだから仕方ない。


食材は既に冷蔵庫の中にある。

これは……ママが帰ってくるまでの間、

私がシチューを作って待っていたほうが良い流れだろう。


そう考えていた私に康応するように、

ブラウスの胸ポケット(カーディガンを着ていると胸ポケットに何か入れてても落としにくいから便利だ)の中でスマホが振動した。

画面を見ると、ママからも『晩御飯作って二人で待ってて』というメッセージが飛んできている。それならば、この後の私の行動は決まったも同然だ。


「あ、あの、宍色さん。今日の晩御飯は私が作りますね。

母の手料理じゃなくて申し訳ないですけど……」

「ももかちゃんが作ってくれるのかい?ありがとう。嬉しいよ」


そう言って柔和な笑顔を浮かべる宍色さん。

普段三人でご飯を食べるときは、大体ママが料理をしてる。

普段は私に任せることが多いクセに、彼氏の前だとネコを被ってる。


宍色さんが来るときだけはママも張り切ってキッチンに立ちたがるんだよね……。

だから宍色さんが私の料理を口にする機会なんて今まで滅多になかったんだ。


だけど、今日は違う。今日の料理は私が作る。

それって結構、責任重大かもしれない。

ここで私のシチューを美味しいと思ってもらえれば、

"娘の教育が行き届いている"と、

ママの好感度を上げる方向にも持っていけるだろう。

宍色さんの胃袋を掴むという大役は、私にも無縁のことではないのだ。


よーし……頑張るぞ!

そんなことを考えながら、私は張り切って家の鍵を開けるのだった。



 とんとんとん。

とんとんとんとんとんとんとん。


小気味良い包丁の音がキッチンから聞こえてくる。

火を加えられた野菜たちの甘い香りが、宍色の郷愁きょうしゅうを誘った。


今、彼の目の前には長年の憧れだった"所帯"の風景がある。

なおも胸の内で昂ぶり続ける欲望を抑えれば、その憧れが手に入るのだ。

よこしな思念を手離し、穏やかな幸せに身を任せさえすれば……。

彼女らと正しく家族になれれば、それだけで。


魔が差しかけた心に自制をかけようとした宍色の瞳に、

調理場に立つももかの姿が映った。

制服の上からエプロンを身にまとい、まな板に向かう少女の姿が、

宍色の元を過ぎ去っていった女たちの姿と重なる。


―――かあちゃんの得意料理はシチューだった。元嫁の得意料理もだ。


何故なんだろうな?


俺を置き去りにする女たちはいつも……。

シチューの匂いを発している!!!!!!




宍色の中で欲望が昂ぶっていく。

抑えきれない『女』への憎しみが、その炎が、

郷愁きょうしゅう憧憬どうけいも喰らい尽くしていった。


―――今日がチャンスだ。小梅の居ない今、この家にはいま俺とももかしか居ない。

メスガキ一人を手篭めにするには、今が絶好のチャンスだ。


獲物を前にした一匹のケダモノが、穢れなき少女の後方で牙を研いだ。

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