第1話 真聖(ましょう)のルーツ (3)


 私の本当の父親―――朝間 一桃あさま かずとさんは私が小学校に上がったばかりの頃、忽然こつぜんと姿を消した。

両親が居て、ひとりの娘が居て。

そんなありふれた家庭像は、何の前触れもなく消え去った。


ある日私が学校から帰ると、家の表札は"東雲"に変わっていた。

家を間違えたのかな?と思った私は、マンションの号室を何度も確認したけど、

B-365と刻まれた英数字の羅列は紛れもなく私たち一家の部屋を示すものだったし、玄関をくぐれば見慣れた母の姿があった。


「ねえママ?どうしてひょーさつの名前が変わってるの?あれ、なんて読むの?」


不思議に思った私は母に尋ねた。母は困ったような笑顔で言った。


「何言ってるの?"しののめ"に決まってるでしょう?貴女の苗字よ?」


少し苛立ったような口調でそう言い放った母に対し、私は何も言えなくなった。

それまで私は、自分の名前を"朝間ももか"だと教えられてきた。

"朝"という字も"間"という字も、当時はまだ学校で習ってなかったけど、

漢字で自分の名前を書けることをカッコイイと思っていた私は、

塾の先生にわざわざ書き方を教わって、漢字ノートにびっしりと"朝""間"の二文字を書き綴っていた。


とても混乱した。だけど私は、それ以上母にそのことを聞く勇気が持てなかった。

だってそれ以上質問すれば、母を怒らせてしまうような気がしていたからだ。

人の苗字が変わるのは、結婚したときか離婚したときだけ。

幼い私でもそのくらいは知っていた。……その時友達だった3組のちぃちゃんは、パパの浮気が原因で苗字が変わったから。


―――きっとあまり触れてはならない問題なんだ。

そう思った私はその日以降、何も言わず"東雲ももか"を名乗るようになった。


だけど私は、大好きだった父が突然消えたことに心のどこかで納得しきれて居なかった。だから家中を探って父の痕跡を見つけようとした。


家中の至る所に父の面影を追った。

だけどどこにも、父が居た証拠なんて残っていなかった。


靴箱にあったはずの男物の靴は、全てがごっそり無くなっていた。

父の部屋は物置に変わっていたし、

父の趣味だった水彩画の道具も、

昔の少年漫画が沢山入った本棚も、

綺麗な魚達が泳ぐアクアリウムも、全部無くなっていた。


物置となったかつての父の部屋で、私は立ち尽くした。

―――まるで、パパなんて最初から居なかったみたいだ。

あまりにも完全すぎる蒸発の仕方に、当時の私は途方に暮れた。


必死に探し回った結果、私は父の痕跡を4つだけ掴むことが出来た。

まだ幼稚園児だった頃の私が、母のカメラを借りて撮った、ブレブレの写真たち。


ピントが合っていなくて、父の顔がぼやけてる写真。

父を映そうとして、私の指が映りこんじゃってる写真。

父の顔半分しか映っていない写真。

ピントも構図も珍しくバッチリだったのに、照明が明るすぎて白飛びしている写真。

―――そこには、笑顔の父と母が映っている。


たった4枚のその写真だけが、私の手元に残った唯一の父の痕跡だった。

私は写真たちを母に見られないよう、アルバムごと押入れの奥に隠した。


父の痕跡のことごとくを消してしまったのは母だろうと感づいていたからだ。その写真も、母に見つかってしまえば処分されてしまうだろうことを、

幼い私は悟っていた。



父が居なくなってからの母は"恋愛活動"に耽るようになった。

一ヶ月、二ヶ月の短いスパンで別々の男の人を連れて来ては


「この人、新しいカレシなのよ」

と私に紹介してくれた。


父が失踪する少し前まで、自分の両親はとても仲睦まじい夫婦なのだと思っていた。

だけど色んな男の人を取っ替え引っ換えしている母の姿を見て、

それが私の見ていた幻だったことに気づかされた。


―――大人の女の人って、そんなカンタンに旦那さんのこと忘れちゃえるんだ。


とても、寂しい気持ちになった。

私も大人になったらそんな風になっちゃうのかな?って思うと怖かった。



父が居なくなった後も、私と母の時間は過ぎていく。

1年が過ぎ、2年が過ぎ、3年が過ぎ、私の身長はどんどん伸びていった。


―――もしもまだ、パパがそばに居てくれたら。

わたしの身長が伸びたことを喜んでくれたかな?


そんなことを毎日考えるようになった頃、

私はようやく年齢が二桁になったばかりだった。


母はその間もカレシを取っ替え引っ換えしていた。

身長が高い人、低い人、

筋肉質な人、太っている人、

頭が良い人、スポーツが得意そうな人、

話の上手な人、お金持ちな人、紳士な人、遊んでそうな人……。

とにかく、色んなタイプの男の人と付き合っては別れを繰り返していた。


母が"恋愛活動"で忙しくなるときは、決まって私や家のことが疎かになった。

授業参観や運動会に出席してくれないことも多かったし、食卓にはインスタントのものが頻繁に並んだ。部屋中にゴミ袋が放置されていることも良くあった。


お酒のニオイを纏わせながら夜中に帰ってくることや、朝帰りすることも多く、

家の中に男の人を連れ込んで、寝室で艶かしい声を上げることさえもあった。


そんな時の私は決まって、布団に包まってかたつむりになり、

その上耳栓をしたままスケッチブックにイラストや漫画を書きなぐった。

自分の中に閉じこもることだけが、心を守る唯一の術だった。


それが夜だけならば、私一人がそうして耐えていればよかった。

だけど、母の情事は昼夜を問わないこともあった。


休日の昼間。

私が二人の幼馴染を自分の部屋に招いたとき、隣の部屋で母が男と情事していた時が一度だけあった。寝室で上がる淫らな声が、私の部屋まで聞こえてきた。

それを二人の幼馴染に聞かれてしまったことが、私に取っては未だにトラウマだ。昔からスケベなところがあった深紅ちゃんだけは、壁に耳をつけて母の喘ぎ声を興味津々に聞いていたけど、私とりんちゃんは素直にドン引きだった。

その日から私は、友達を家に呼ぶことがなくなった。


私が成長し、独学ながら家事を覚えていくうちに、

家の中はこまめに整理整頓され、私が何日も家を開けたとき以外は、

ゴミ袋が放置されることもなくなった。


何でもかんでも燃えるごみの袋に突っ込んでしまう母に代わってごみの分別をし、カレーやシチューを作って仕事やデート帰りの母に振舞った。


その頃、東雲家の家事は8割ほど私が担っていたように思う。

私はようやく12歳になっていた。

12歳―――江戸時代なら成人扱いだ。

そう思い込めば、私の家事諸々へのモチベーションも上がった。


その時期のある日、母がきついアルコールのニオイを漂わせ、

泣きじゃくりながら家に帰ってきた夜があった。

玄関で膝を崩して泣いている母の姿はとても幼く見えて……、

まるで迷子の子供のように見えた。


母を介抱してリビングまで連れて行き、水を飲ませる。

赤くなった目を伏せながらちびちびと水を飲む母の姿を見た私は、

その夜、母が男に振られたんだろうということがなんとなく分かった。


「ねえママ……好きな人を取っ替え引っ換えするのは良くないよ。

一途に誰かを愛さなきゃ、ママはきっと、幸せになれないんだと思う」


『パパの傍に居た時の貴女は、幸せだったでしょう?』

そんな生意気な言葉が出そうになって、私は口を噤んだ。


父―――朝間一桃さんの話題がタブーなのはこの頃になっても一緒で、その名前を聞くたびに母は知らない振りをしたりヒステリックになるほどだった。


だけどその日、私はほんのちょっとだけ勇気を出してみようと思った。このまま母がヤケクソな"恋愛"で傷ついていくのを見ていられなかったからだ。


「昔、一途に愛せる人が傍にいた時、ママは幸せだったでしょう?」

『パパ』や『朝間』『一桃』という名前を巧妙に隠して、私は最大限のオブラートに包んだ言葉で母に迫った。


「……幸せだった。幸せだったわ」

母がようやく、私の問いに答えてくれた。

私と母の間で父の存在が話題に出るのは、実に6年ぶりだった。


「私と貴女とあの人―――三人で暮らしていた頃、

とても幸せで、毎日が奇跡のようだった。

だけど私は、もう思い出せないのよ。あの人の顔も、声も、名前すら……。

酷いよね。その人と愛し合ってももかが生まれたはずなのに。

それほど、ショックだったんだと思う。あの人が何も言わずに、私たちの前から消えてしまったことが。


今はもう……何も思い出せない。

あの人が居た証拠も記憶も、私の元に残っていない。

他の誰に聞いても、

『貴女に旦那なんか居なかったでしょう?』なんて言葉が返ってくる。


その人の傍に居た間、苗字も変わっていたはずなのに、

私はずっと"東雲"のままで、結婚なんかしてないっていう証拠がたくさんあって、

思い返すとそんな気がしたりして……。

だけど私の中にはとても幸せで光に満ちていたという確かな記憶が残っていたのよ……!そして……!

その人と愛し合った証である貴女が傍に居た……!


ごめんね、ももか……。私、ずっと怖かったのよ……。

大事な人が居たはずなのに、何も思い出せなくて、

何が何だか分からなくて、その不安を紛らわすためにセックスに依存した。

貴女にも沢山苦労かけたわ……母親、失格よね。ごめんね……。ごめんなさい……」



父が失踪して初めてだった。

母が私に本当の気持ちを打ち明けてくれたのは。

ごめんなさい、と何度も繰り返しながら、母は大粒の涙を落とし続けた。


そこに至るまでの6年間、

母がずっと、父を失ったむなしさと独りで戦い続けてきたんだということを、

私はそのとき初めて知った。

私を見てくれなかった母のことを、私はその時、ようやく許せるようになった。


それからしばらくして、母は宍色さんを連れてきた。

第一印象は、ちょっと怖いオジサン。

だけど話してみると意外に優しくて気さくで良い人だった。

それに……父性って言うのかな? なんとなく父に雰囲気が似ている気がした。

――― 一桃さんのほうがその……もっとイケメンだったけどね。


その人は普段、刑事さんとして働いているという。

刑事さん―――つまり、平和を守る正義のヒーローだ。

この人になら、安心して母を任せられると思った。


そして二人の付き合いは、4年経った今でもなお続いている。

このまま二人が結婚してくれればいいなって、私は思ってる。





「家、上がっていきませんか?母も喜ぶと思います」


マンションの前で車から降ろしてもらった私は、宍色さんにそう提案したが、

彼はそれを手で制して拒んだ。


「いや、実はまだ仕事を残していてね。君のお母さんに会うと仕事に戻りづらくなるからやめておくよ」


私情より仕事を優先させるその返事に、私は宍色さんの中の『大人』を感じた。

やっぱりしっかりしたところで働いてる人は違うや。

うちの母にはもったいないくらいの人だ。

私がお辞儀をして「ありがとうございました」とお礼を言うと、

彼は「おやすみ」と言って車を発進させた。



そのエンジン音が遠ざかっていくまで、

私は宍色さんの運転する車へ手を振っていた。

遠く遠く、車が豆粒に見えるほど遠くなるまで。


宍色さんに対する感謝を体現するかのように、

私は大きく手を振って彼を見送った。




「ふぅ……全然バレなかったみてえだな」


ももかを降ろし、彼一人となった車内で、宍色は呟いた。

親子の住むマンションが見えなくなった頃、

宍色はコンビニの駐車場に車を止め、

後部座席の下へと腕を伸ばして"何か"を取り出す。


「年頃の女だからなぁ。恥ずかしがって後部座席に座ると読んだら……案の定だぜ」


宍色の手に握られていたのは小型のカメラだった。

馴れた手つきでカメラからSDカードを抜き取った宍色は、

そのSDをカーナビに挿入する。


『辛かったろう?留置場生活は』

『とても疲れました。…………だけど、宍色さんと同じ空気を初めて吸えて、何だかほっとした気分です』


スピーカーが先ほどの二人の会話を再現し、カーナビが映像を再生する。

モニターに、スカートに覆われたももかの下半身と、

すらりと伸びた彼女の両脚が映った。


若い女の、白い脚。

見るからに瑞々しい膝小僧。

柔らかそうな太もも。


その全てが、オスの本能を刺激して止まない。


宍色の内面で、一抹の罪悪感がよぎる。

彼にとって、ももかは娘のようなモノだ。

娘を性欲の対象として見ることは、きっと正しくない。

だがもはや我慢の限界なのだ。あの少女は、可憐に育ちすぎた。


宍色鴇也ししいろときやはケダモノだ。

彼にとって、メスはメス以外の何者でもない。


罪悪感が、沸騰寸前の血液に流されていく。

再び血走った目をモニターに向ける宍色だったが、

彼が最も見たかった光景はそこには映っていない。

白い両足の根元は、スカートという名の神秘のベールに包まれていた。


宍色は想像した。その両脚の付け根に開かれたオンナの扉を。

"扉"の奥に潜むのは、愛を育み命を産み落とすための神秘の海だ。その"扉"は全ての哺乳類にとって神秘の海の出口でありこの宇宙への入り口だ。


宍色は想像したのだ。

―――ももかの"扉"を無理にこじ開け、神秘の海を白濁の欲望で穢す、その瞬間を。


「ふぅっ……!ふぅっ……!……ふふふふへへへっへへ。

ずいぶん美味そうになったなぁ……。ももかぁ……!!

へへへ……これは、喰い甲斐があるぜ」




宍色の中でたぎるどす黒い欲望が、オスの本能を屹立させた。

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