第4話 蝶の叫び (2)


「もう我慢できない。……早くお脱ぎなさい」


赤月さんが……美貌の魔女が、私にそう命令する。

狭い個室トイレの中、私は化粧板の壁に身体を押し付けられ、身動きが取れないでいた。

手を伸ばせばドアハンドルに手が届いてしまうくらいの位置なのに、私の顔の真横に手をついた赤月さんが、それを阻んでいる。―――所謂、壁ドンの体勢だ。


「何も……脱ぐ必要は……っ!」

抗議しようとする私を、彼女が許してくれない。

赤月さんは私の顎を持ち上げて、私の抗議を遮った。

「お脱ぎなさいと言ったの。聞こえなかったかしら?」

赤月さんの声色に、若干の怒声が混じる。

いけない。彼女の機嫌を損ねては不味い……。


私は魔女に言われるがまま、ブラウスのリボンを外し、ボタンを全て緩めて、中に着ていたインナーを脱ぎ、下着姿の上半身を魔女に晒した。

魔女は、半裸になった私の首元の傷を、指でそっと撫でる。

そして支配欲に満ちた愉悦の表情を浮かべた。


赤月さんが、私の首元に口を寄せる。

私の首に一度キスしたあと、同じ場所に牙を立てて、

一日ぶりに私の血を啜った。


しばらくの間、赤月さんに口付けられるのを私は許し続けていた。

軽い眩暈が私の視界を揺さぶる頃、赤月さんが私の首元から口を離して、呟いた。


「相変わらず、不味い血ね。食欲が抑えられて助かるわ……人ごみの中にいると、目に映る全員、殺したくて仕方なくなる」

「やめて……ください。私の血ならいくらでも、貴女にあげますから」


赤月さんがあまりに不穏なことを言うので、私は反射的に赤月さんの言うことに逆らってしまっていた。

また、彼女は怒るだろうか?

しまった、と一瞬思ったけど、意外にも赤月さんは私の言動に苛立ちを覚えているような様子を見せない。その顔つきは穏やかで、昨日の昼間、私とお友達になりたいと言っていたときと同一の雰囲気を発している。

もしかして、私の血を吸ったことで食欲が収まったからなんだろうか?

お腹が空いてると、イライラするものだ。その点は彼女も私達人間と変わりないのだろう。


「いくらでも?……うふふ、そう。だったらももかに免じて、見境なしに人を食べるような真似はやめようかしら」


柔和な笑顔で返事をする赤月さん。

やっぱりだ。

その声色も含めて、昨日お昼を共にした"私のお友達"と同じ雰囲気だ。

今の彼女は、魔女でもなければバケモノでもない。

今ならば、そこまで気を使いすぎることもなく、彼女と話が出来るかもしれない。


「ねえももか。どうして私に敬語を使うの?名前で呼んでくれないの?私達、"お友達"のはずでしょう?ねえ?」

「……お友達は、お友達の血なんか啜ったりしないよ」

「……本当にそうかしら?」

「えっ……?」


赤月さんが投げかけてきた疑問に、私は言葉を詰まらせてしまった。


「本当に、お友達はお友達の血を啜ったりしないなんて言える?

この広い宇宙の中で、自分の常識だけが真実だなんて本気で思ってる?」

「えっ……それは……その……」


急に熱く語り始めた赤月さんの様子に困惑する私。

彼女のワンマンショーは、なおも続く。


「ねえももか。南米にチュパカブラというUMAが生息しているという話は知っているかしら?

彼らは家畜や人間の血を啜ると言われているバケモノなのだけど、彼らの吸血行動にはある種の愛情表現の意味合いがあるのではないか、という一説があるわ。


というのも彼らチュパカブラが目撃された地域にはその昔、ユパ族という部族があって、その部族の間では血液はその人の魂そのものと密接に繋がっているという部族特有の価値観があったらしいの。


成人の儀では親子が、結婚式では新郎新婦が、喧嘩をした部族同士が仲直りをした後には当事者同士が……決まって血を啜りあったそうよ。といっても私のように皮膚から直接啜るわけではなく、盃に相手の血を注いで飲んでたみたいだけどね。

血を啜ることは、彼らユパ族にとって"魂"と"魂"を繋ぐ特別な……親愛を示す儀式だった。


だけどそうしたユパ族の文化を知った部外の人間―――スペインに住む記者がある日、血を啜るユパ族のことを"野蛮な怪物"と記事に書いたの。そんなユパ族の風聞に尾ひれがついていくにつれ、

『南米にはチュパカブラというバケモノが住んでいる』という伝承が発生し、UMAチュパカブラが誕生したのではないか、と力説する有識者も居るのよ。

ちなみにチュパカブラの『チュパ』とはユパ族の『ユパ』という名称がユパ族と接触したスペイン人のスペイン訛りによって歪められた結果、というわけね。


つまり、私が何を言いたいのか、というとね?

"お友達はお友達の血を啜ったりしない"という貴女の―――いいえ、引いては日本の常識のほうが間違っているということよ。

私が貴女の血を啜るのは貴女が私にとって最愛の友人であるからであって、これは私なりの愛情表現なのだということを理解しておいて欲しいわ」


「そう……なの……?へぇ……すごいな……!赤月さんって物知りなんだね!」


真剣な顔で長々と豆知識を語る赤月さんの気迫に飲み込まれてしまった私は、すっかり納得させられてしまっていた。

……そんなの、知らなかった。世界は私が思ってるより広いみたいだ。

お友達がお友達の血を啜ったりすることだって、あるのかもしれない。


「まぁ、今考えたばかりのウソなのだけどね」


前言撤回だ。騙されそうになった。

この人はやっぱり、生き血を吸って悦びを感じるような悪いバケモノなんだ。

ちょっとだけ信じそうになった自分が悔しい。


「うふふ。そんな怒ったような顔しないで。可愛い顔が台無しよ?」

「……途中まで信じそうになったよ。随分凝った嘘つくんだね?」

「私の言うことを簡単に信じてはダメ。古来から、『鬼』と『女』はとっても嘘つきな生き物だと相場が決まっている。私は『鬼』な上に『女』だからとってもとっても嘘つきな生き物だということになるわね」

「ひどい……」


話は変わるのだけど、と前置きして、赤月さんが言葉を続けた。


「もうすぐ私は、極上の穢れた命を手に入れることになったの。

この前喰らった金髪の男とは比べ物にならないほど醸成された、絶品の穢れた魂を。

それさえ胃の中に収めることが出来れば、多少は私の食欲も落ちる。貴女の不味い血で食欲をごまかす必要もなくなるわ」


「ど、どういう意味……?」


聞き返してすぐに、私は赤月さんが何を企んでいるのか察してしまった。

昨日、赤月さんは『世界で一番浅ましい人間』を喰らいたいと言っていたはずだ。

それがもうすぐ手に入る、ということはつまり、彼女はすでに、彼女の舌を満足させられるであろう獲物ターゲットを見つけ出したということなんだろう。


「や、やめて!私の血ならいくらでもあげるから人を食べないで、って言ったばかりでしょう!?」

「『見境なしに食べるのはやめる』と言っただけよ?私はちゃぁんと、見境をつけて食べようとしている。美味しい肉だけを、ね?

貴女に文句を言われる筋合いはないわ」


そう言って赤月さんは再び、私の首元に口付けようとしてくる。

饒舌じょうぜつに嘘を語っていた"私のお友達"はなりを潜め、赤月さんは"冷酷なバケモノ"に戻りきっていた。

とても残酷で、でも、目を離せないほど美しい。そんな赤月さんの真剣な顔に、私はただ見惚れることしか出来ず、なんの言葉も返せないまま、

再び赤月さんの牙を受け入れてしまった。



昨夜からずっと、心臓がドキドキしっぱなしだ。

どうしちゃったんだろ……アタシ。

昨日から……皆とカラオケした帰りに電車に乗って……赤月美桜にあんなことされてからずっとだ。

唇にこびりついたあの感触が、一日経った今でもまだ、消えないまま残ってる。

どうして……。どうして、なんだろう?

女にキスされたくらいでこんなに動揺するなんて。

違う。違う。私はそうじゃない。ソッチの人なんかじゃ、決してない。

私は普通だ。普通で正常なんだ。男とも付き合えるし、セックスだって出来る。

レズの異常者なんかじゃ、決してない。



 深紅が教室に入ると、彼女の取り巻きである佐藤こずえと後藤みゆきが駆け寄ってきた。

二人の取り巻きは心配そうな顔つきで深紅を見ている。

それほど、深紅の顔は青ざめていて、とても健康そうには見えなかった。


「深紅ちゃん、なんか顔色悪いよ?体調悪いんじゃない?」

「大丈夫?身体キツくない?熱とかはないの?」


二人に体調を心配された深紅は、その日初めて自分の体調が悪そうに見えることに気づいた。

―――そんなに、顔色悪いかな?朝ゴハン食べてるときは、おとんもおかんも何も言ってこなかったんだけどなぁ。


「深紅ちゃんさ、保健室行ってきたほうがいいんじゃない?」

「……大丈夫だってば。二人ともオーゲサじゃない?」


でも確かに、今日はいつもより元気が湧いてこない。

しかしそれはきっと、風邪や病気と言った肉体的なものではなくて精神的なものからくる症状だと、深紅は思っている。

それほどショックだったのだ。昨日のあの出来事によって、自分の性癖が暴かれたような気がしたことが。


「本当に大丈夫?熱とかはないの?」


心配した佐藤こずえが深紅の額に手を当て、体温を確かめる。

こずえが当てた手のひらの感触が気持ちよくて、

「ぁ……んっ……」という小さな喘ぎ声が、深紅の口から漏れでた。


ヤバイ。

今しがた自分が漏らしてしまった官能の声に、深紅は取り返しのつかないことをしてしまったような居たたまれなさを抱く。

ヤバイヤバイヤバイ。さとぴーに引かれちゃう。嫌われてしまう。


「ちょっと~!今の声エロすぎじゃない?私の指で感じないでよ~!」

「えっ……あっ、いや、その、……そうそう!さとぴーの指、気持ちよくて感じちゃった~アハハハハハ!」

「もぉ~深紅ちゃんエロすぎ~!ギャハハハハハ!」


仲間たちと共に下品な笑い声を上げながら深紅は、何とか冗談っぽく場を収められたことに安堵していた。

この子たちにレズだと思われたら終わりだ。

アタシはレズじゃない。異常者なんかじゃない。

ここで皆にレズだと思われたらアタシが今まで積み上げてきたものが全て台無しになってしまう。


深紅は深く息を吸い、平常心を取り戻す。

全部赤月美桜のせいだ。アイツがあんなことをしてきたせいで、アタシはこんな、何気ない友人との触れ合いにすら、妙なことを感じてギクシャクしてしまっている。

全部あいつのせいだ。全部全部……アタシの心を惑わす悪女―――赤月美桜のせいなんだ。

レズなのはあいつで、異常者なのはアイツで、アタシは何も変じゃない。普通で正常だ。正常じゃなきゃ、いけないんだ。


そうだ。

深紅は思った。

どうせなら。アイツのことも徹底的に貶めてやろう。アイツの居場所を奪って、一人ぼっちにしてやろう。

アタシにヘンな気持ちを抱かせるあの女―――赤月美桜。

アイツのことをヘンタイのレズビアンだと皆に言いふらしてやる。

だってそうでしょ?アイツは昨日、アタシを押し倒して無理やりキスをしてきたんだ。

アタシの意思なんかお構いなしに、無理やり。

そんなの、レイプもいいところだ。アイツはレズで、その上レイパー。

頭のおかしい最低の異常者だ。

転入早々で悪いけど、アンタの居場所を奪ってあげる。

恨まないでね?悪いのは、アタシの心をかき乱したアンタなんだから。


「あのさ、話変わるんだけど。赤月美桜、アイツマジでヤバイよ。昨日アタシ、アイツと同じ電車に乗って帰ったんだけどさ……」


ぐらり。

美桜の陰口を叩こうとした瞬間、深紅の目の前の世界は揺れる水面に映りこんだ景色のように大きく歪んだ。


なんだろう。身体に力が入らない。

気づけば、冷たい床の感触が深紅の頬を撫で付けている。

その冷たさによって深紅は初めて、自分が倒れたことを悟った。


朦朧とする意識の中で、必死になって自分の名を呼ぶ佐藤こずえの顔を見た。

深紅ちゃん。深紅ちゃん。

唇がそう動いているのは分かるのに、声が全く聞こえてこない。


あぁ。さとぴーってホント、綺麗だな。

綺麗。

綺麗な女。綺麗な顔。

チョウチョみたいに綺麗で儚い、いい女の顔。


―――アタシが食べたい、チョウチョの顔だ。

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