第4話 蝶の叫び (1)
■
深紅は幼い頃から虫が大嫌いだった。
家の中にハエやクモが湧くと、決まって大声で両親を呼んでは、
「早くあっちにやって!やってよぉ!」
と泣き叫び、困った笑い顔をした父や母に助けてもらった。
彼女が物心つく頃、同年代の男児たちはこぞって虫集めに夢中になっていた。
田舎町らしく自然が多い深紅の地元では、男児が虫集めをするのは通過儀礼のようなもので、子供が外で遊ぶことに対して何かと口うるさい昨今の親たちも、幼い頃の自分達と同じように虫を追いかける子供たちを、微笑ましい目で見ていた。
だが深紅は、虫を好く男児達のことがまるで理解出来なかった。
アリ。ダンゴムシ。バッタ。カマキリ。セミ。トンボ。カブト虫やクワガタ虫。
多くの脚を蠢かせ、這いずり、飛び回るフケツな蟲たち。
何が『カッコイイ』んだろう。まるで分からない。
あんなの、気持ち悪いだけなのに。
幼い頃の深紅とよく一緒に遊んでいたももかは、虫が目の前に現れるたび、深紅のナイト役を務めた。
深紅は生まれつき気の強い性格で、ももかは対照的に気弱な性格だったが、虫を相手にした時だけ、二人の性質は入れ変わった。
「やだ、おへやのすみっこにクモがいる!こわいよぉ、あっちにやって!ももちー!」
そう言って深紅がももかに泣きついてくるたび、ももかは深紅をなだめ、新聞紙やハエ叩きの先端に虫を乗せて外に逃がしてあげた。
「ほら、ムシさん、もういないよ?わたしが追い払ったから!」
「ありがと~!」
だが実は、ももかも虫が平気ではなかった。ももかにとって不幸だったのは、当時のももかと仲の良かった友人が全員、虫が苦手だったということだ。
だから虫が現れるたび、ももかは友達のためにいつもいつもなけなしの勇気を振り絞っていた。
そんなももかの葛藤など、幼い深紅やもう一人の幼馴染―――柿原りんごは知る由もない。
二人の幼馴染は、ももかのことを勇敢な女の子だと思い、純粋に尊敬の眼差しを向けていた。
そんな深紅にもただ一種類だけ、平気で触れる虫が居た。
バタフライ。所謂、チョウチョである。
蝶にだけは深紅も嫌悪感を示すことはなく、むしろ花に止まっているチョウチョの姿を見ると、自分から積極的に捕まえに行くほどであった。
蝶柄の衣類や蝶のキーホルダーなど、蝶を模した装飾を好み、
親に連れられてデパートに行った際に蝶の雑貨を見かけたりすると、決まって「買って買って!」と親にせがんだ。
「深紅ちゃんは本当に、チョウチョが好きだねぇ。虫は苦手なのに、どうしてチョウチョは平気なんだい?」
父にそう尋ねられた深紅は「う~ん」と頭を抱え込んで悩んだ後、「……ももちーみたいだから!」と
「ももちーもチョウチョもだいすき!おおきくなったらももちーとけっこんしたい!」
笑顔でそう語る、まだ物心のつかない娘のことを、父は微笑ましい目で見ていた。
深紅が両親に連れられ、母方の祖母のお墓参りに来たある日の事だ。
深紅の前を歩く父と母は、祖母との思い出話に夢中で周囲への注意を
そんな両親の後ろをとぼとぼと歩いていた深紅は、退屈で仕方なかった。
そんな折、綺麗な青い蝶がお墓の合間を縫うように飛んでいく姿を、深紅は見かけた。
"ミヤマカラスアゲハ"と呼ばれるその蝶は、深紅の普段の生活圏内には中々居ない蝶だ。
―――綺麗なチョウチョさんだ。
ねえ、どこに行くの?
深紅、退屈なんだ。一緒に遊ぼうよ。
雑木林の奥へと飛んでいった蝶を追いかけて、深紅は親の目から離れ、一人で林の中へと進んだ。
日の光を遮るほど生い茂った草木たちは、昼間にも関わらず闇夜のような暗い世界をその身のうちに作り出している。
深紅はその闇の中で宙に浮かぶ銀の糸を見た。ミヤマカラスアゲハはその銀糸に絡まれ、必死に羽根をバタつかせていた。
アゲハの周囲にはいくつもの繭がある。その繭たちは恐らく、アゲハよりも先に銀糸に絡まれ、命を落とした者たちの亡骸なのだろうということは、深紅にも察しがついた。
やがて、糸から逃れようとするアゲハに怪物が近づいてきた。
糸によって築き上げられた摩天楼の主―――成人男性の手のひらほどの体躯を持った、"オオジョロウグモ"。
そのグロテスクな姿を見て深紅は震え上がったが、このまま放っておけばアゲハが食べられてしまうことを考えると居てもたっても居られず、
足元に転がっている棒を手に取ってクモの巣を壊すために身構えた。
棒をクモに叩きつけてやれば、クモを倒してアゲハを救うことが出来る―――だが、深紅はそうはしなかった。
クモの巣に捕らわれ、命の危機に晒された蝶のその姿が、
あまりにも哀れで、
あまりにも惨めで、
あまりにも……美しかったからだ。
棒をもったまま立ち尽くす深紅の目の前で、ジョロウグモは蝶の身体に毒液を流し込んだ。
こうなっては蝶はもはや助からない。
アゲハは必死に抵抗するも、毒液によってカラダを麻痺させられ、羽ばたくための体力を失っていく。
まだ『サディズム』という言葉すら知らない深紅は、アゲハが傷つき、いたぶられる姿を見ることで湧き上がってくるその感情が一体なんなのか全く理解できず、
困惑を覚えていた。
やがて、アゲハはクモにいたぶり回され、その動きを完全に止めてしまう。
クモがアゲハの肢体に馬乗りになり、組み敷いたアゲハのカラダに口を近づける。―――今度は毒を流し込むためではない。肉を溶かして啜り飲むために、消化液を注ぐのだ。
その様はまるで、夜中に盗み見た両親の情事のように官能的で―――両親が探しに来るまで、深紅はその光景からずっと目を離せなかった。
■
階段を登るたび、身体を突き抜けていく振動が、首元の噛み痕の違和感を浮き上がらせた。
出血して気絶するほどだった割には、回復も早かった。一日経った今では、ほとんど痛みもない。最初にあの家で噛まれたときの傷もそうだけど、彼女に付けられた傷は、意外と回復が早い。
ただ、肩や首を動かしたときの心地悪さだけが中々引かない。
張り付いたかさぶたが、私に不快感を覚えさせた。
校門の手前の―――長い階段を上りながら私は、ハイネックインナーの首元を掴んで引き上げ、周囲の人に噛み痕が見えないよう、覆い隠した。
この傷は、見た目がちょっと、悪い。
私みたいに周囲から遊んでると思われているような女がこんなところに赤い痣なんてつけてると、遠目で見た人からは情事の痕跡のように見えてしまうかもしれない。
……それが、嫌で嫌で仕方が無かった。
朝のHRまで後20分、っていうくらいの時間帯。
いま、学校の前には当然、私と同じように校門をくぐろうとしている他生徒の集団が多くあった。
視界の隅から誰かからの視線を感じて横を振り向くと、私を見つめていた後藤さんと目が合ってしまう。
後藤みゆき、さん―――私と同じクラスの女の子で、深紅ちゃんと親しいギャル寄りの女の子だ。
私は昨日、階段から落ちて早退したことになってる。同じクラスの子からは、物珍しそうな目で見られても仕方のないことだと思う。
―――特に私なんかは、普段から妙な噂の対象になるような女なのだから。
私は、後藤さんからパッと視線を逸らした。
昨日の昼休み。美桜ちゃん―――否、赤月さんに襲われた私は美術棟の廊下で気を失い、保険の吉田先生に発見された。
他の先生たちの手を借りて保健室へと運び込まれた私は、校内に響く5時間目のチャイムによって目を覚ました。
「東雲さん、一体何があったの?」
目を覚ました私に対し、吉田先生は心配そうな目で尋ねた。
その視線は、私の首元や、ブラウスの上から透けている肩の血染みに注がれていて……気まずくなった私はベッドのシーツで身体を覆い隠すのだった。
「何でもないんです。ただ、私がドジを踏んで階段から転げ落ちちゃっただけで……えへへ。ダメな子だなぁ私。本当に、ダメな子」
強がってしょうもないウソをつく私を見て、ちょっと怒ったような、悲しそうな、そんな複雑な表情をした吉田先生は、しばらく私の目をじっと見つめて、私の手を握ってくれた。
「……遠慮なんかしないで。困ったことや悩みがあったら、いつでも相談に乗るから」
真剣な目でそう言ってくれた吉田先生に私は真っ直ぐ向き合うことが出来なくて、「大丈夫です、私は、大丈夫ですから……」と言って、先生の優しさから逃げた。
私は、昔から大人に頼るのが苦手な人だ。
大人の人から優しくされたり心配されたりするたびに、『大丈夫ですから』なんて言って強がってしまう。
小さい頃から『優等生で手間がかからない子』だと思われてきた故なのだろう。
私なんかのことで大人の人に手間をかけさせるのが申し訳ないと思ってしまう。
『しっかりモノの優等生』というイメージを壊したくなくて、強がってしまう。
たぶん、私に関する噂の数々は先生達も知っていると思うし、もはや先生たちにすら優等生だなんて思われていないのかもしれない。
それでも『大丈夫です』なんて言葉が出てしまうのは、“いい子”だと思われようとするクセが身に染みてしまっているからなのだと思う。ほんとは、全然『大丈夫』なんかじゃないくせに。
このクセがあるからこそ、私は困ったことがあっても、誰にも頼ることが出来ないで居た。
だけど……と私は思った。
もし私が、素直に大人に頼れる性格だったとして、本当のことなど言えただろうか?
もしも『同じクラスの赤月さんに傷つけられた』なんて私が言おうものなら、先生達は彼女から話を聞きだそうとするだろう。
そうなったら、バケモノである彼女は何をするか分かったものではない。
逆上して先生を食べてしまう可能性だってあるのだ。私のために誰かが傷つくところなんて、見たくない。
早退することになった私は、吉田先生が教室から持ってきてくれた鞄を受け取り、「ありがとうございました」と言って頭を下げた。
腰を曲げた際に、首元に張り付いた絆創膏の感触が伝わってくる。
吉田先生が傷口に貼ってくれたんだろう。
―――つまり先生は、私の傷を見たんだ。階段から落ちただけじゃ絶対につかないはずの、この噛み傷を。
私が誰かに噛まれたことを本当は知っていながら、黙っていてくれたんだ。
視界の隅で後藤さんが何かヒソヒソ話をしはじめた。どうも、隣の子に耳打ちをしているらしい。
後藤さんが何の話をしているのか、はっきりと聞こえたワケではないけど、仕草だけで何となく、私の陰口を言っているらしいことは理解できる。
中学のときもこんな風に、すぐ隣で陰口を叩かれるようなことが良くあった。
……今度は、どんな尾ひれのついた陰口を叩かれているんだろう?
『東雲ももかは痴情のもつれで階段から突き落とされた』……なんて話にしておけば、遠巻きに見ている人にはさぞ面白いことだろう。
中学時代と全く同じようなことを囁かれていると仮定すれば、
噂の中の東雲ももかは、他人の恋人でも平気で奪えるような悪い女なんだ。
「いい気味」
ヒソヒソ話をしていた後藤さんの口から、はっきりとそう聞こえてしまった。
予想できていたくせにいざ本当にその言葉を聞いてしまうと、背筋が凍るような居たたまれなさを感じる。心の傷つく音がする。
ほら、ね?
私の、思った、通りだ。
このまま後藤さんの近くに居たら自分でも抑えきれないものが瞳からこみ上げてしまいそうで、私は急ぎ足で階段を駆け上がった。
耐え切れない何かが溢れ出てしまわないように、鞄の帯を握った左手にグッと力を込めて。
乾ききっていた瞳の表面に、水分が滲んでいくような感触がこみ上げた。
寂しい、な。
こんなときに、誰かが傍に居てくれたらいいのに。
そう願いながら駆け上がる私の進路上に、大きな黒い影が現れた。
私は思わず脚を止めて視線を上げる。
影の正体は、"彼女"だった。
その姿を見た瞬間、数秒前まで感じていた寂しさや悲しみが一瞬で吹き飛ぶくらいの衝撃が私の胸に去来する。
「ごきげんよう、ももか」
「ひっ……あ、赤月さん……!」
悲鳴を上げかけた私の腕を掴んで、赤月さんは私を無理やり引っ張って、階段を駆け上がっていく。
ダメだ。この人に連れて行かれたら、何をされるか分かったものじゃない。
確かに私は誰かに傍に居てほしいと願ったけど、よりにもよってそれが赤月さんだなんていうのはあんまりだ。
これなら一人で寂しい思いをしていたほうがよっぽどマシだ。
私は周囲の人に助けを乞おうと、背後に居る他の生徒達に視線を向けた。
私の後ろに居た生徒達は皆、赤月さんに連れられていく私を見て、突然のことに驚いてるようなポカンとした表情をしている。後藤さんや、後藤さんの隣の子もそうだった。
「た、助けてください!誰か!先生!せん……」
「お黙りなさい。……また、周囲から見えなくしてあげてもいいのよ?」
「ひっ……!い、いや、嫌です……!許して……!」
校門前に立っていた担任の佐々木先生に助けを求めようとした私を、赤月さんは言葉で制した。
私の前を歩く赤月さんの表情は見えない。その冷たい声色だけが、赤月さんの機嫌を察するための唯一の手がかりだ。
この人を、怒らせちゃダメだ。
彼女が本気になれば私を殺すことや、『存在しない人』にすることだって容易なんだ。―――新田くんのように。
「ふふ。……いい子ね。ももかは……いい子」
私の目から見えているのは、彼女の艶やかな黒い後ろ髪だけ。表情が全く見えない。
だけど今、おとなしくなった私を褒める赤月さんの声色はとても優しくて、慈愛に満ちていて―――私はそのことに、安堵と喜びを感じてしまっていた。
調教、されているみたいだ。私はこの人に、
「オッス!オラ佐々木!……おはよう!赤月に東雲!……昨日の怪我はもう大丈夫なのか?」
「おはようございます。佐々木先生」
「おはよう……ございます……はい、大丈夫です」
手を引き、手を引かれながら、佐々木先生に朝の挨拶を交わす私達。
きっと今、私達二人は、"一緒に登校してきた仲の良い友達同士"にしか見えないのだろう。
佐々木先生への視線に込めた、"助けて欲しい"のサインはきっと、先生に届くことはない。
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