ケガレナキ クモツ

仙崎サルファ

プロローグ

―――生きていて本当に良かった。


その娘が生涯で初めてそう感じられたのは己の母親を食い殺そうとしたときだった。

片足を千切られ、痛みに喘ぎ這いつくばる母親を見下ろしながら、

娘は初めて訪れた生の実感に悦び打ち震えていた。


ずっと自分が分からなかった。

どこに居ようと誰と居ようと、違和感ばかりを感じていた。

この世の中に自分の居場所などどこにもないような気がして、

生き辛さを抱えていた。

でも、ようやく見つけた。私の生き方。私の居場所。


目の前に広がる血生臭い光景。どんな香水よりも心地よいヘモグロビンの香り。

死に際の人間ニクが放つ、生への執着。

自分をこんな目にあわせているバケモノへの憎悪。

――憎しみという、負の感情。

そのすべてが、まるで麻薬のような多幸感を娘に与えていた。


「どうして、どうしてよぉおおおおおおおおおおお!!!!」

足を千切られた母が叫ぶ。彼女が放った『どうして』には何重もの意味合いが込められていたことだろう。


どうして、私がこんな目に合わなければいけないのか。

どうして、お腹を痛めてまで産んだ自分の娘に殺されなければならないのか。

どうして、華奢な娘が人体を容易く千切れるほどの怪力を持ち合わせているのか。

どうして、こんなことになってしまったのか。


引き千切った母の足を、野菜スティックのようにボリボリと齧る娘。

すらりと伸びた娘の長く白い足にすがりつきながら母は、

なだめるようにその名前を呼んだ。


「ねえ美桜……っ。こ、これは夢よね? 悪い冗談よね……?

ねえ、お願いよ。そ、そうだと言って……。お願いだから、美桜。お願い。

殺さないで。私を殺さないで。お願いよ、美桜ぉ……!

今まで育ててあげたじゃない。あなたに尽くしてあげたじゃない。私を捧げてきたじゃない。

そうでしょう?ねえ?そうよね?美桜、美桜美桜美桜美桜美桜美桜ぉ……!

何か答えなさいよ!!!美桜!!!


……どうしてよ。

……どうして私があなたに殺されなくちゃならないのよ。

お腹を痛めてまであなたを産んであげた私が。

ふさけんなよ。恩知らずが!!!

こんなことになるって分かってるならお前なんか産まなかったよ!!!

堕ろせばよかったんだよ!!!

産んだとしてもコインロッカーの中にでも捨ててくれば良かったんだよ!!!

……ふざけんなよ。

ふざけんなふざけんなふざけんな。

死ねよ。

おまえが死ねよ。私じゃなくてお前が死ねよ!!!

今までお前のことを育てるのにどれだけ手間と金を掛けてきたと思ってるんだよ!?

なんで私が死ななくちゃいけないんだよ!!!お前を産んであげたこの私が!!!

なんで……!どうして……!

あぁ……ぁぁぁぁ!!!!

なんでこうなるのよ。どうしてこうなったのよ。

なんで。どうして。どうして。どうして……」



泣き叫ぶ母親の姿が、娘には死に際のヒキガエルのように見えた。

可愛そうだとか哀れだとかそういった感情は一切湧かなかった。

そんなことよりも、どす黒い憎悪を向けられたときの、その官能にも似た甘い甘い感触に浸っていたかった。


「どうして…どうしてよ…」


「どうしてだか、教えてあげましょうか?」


母の叫びに、娘が答える。熱い吐息が混じったような声で。

それは、母が今まで聞いてきた娘の声の中で、もっとも大人びた、"女"の声だった。


「私がバケモノで、あなたがエサだからよ」




"女"はそう言って、異形の腕で母の首を跳ねた。





―――生きていて本当に良かった。


目の前で愛らしい笑顔を浮かべる小さな女の子。

さっきまでお父さんとはぐれて大声で泣いていたその子が、

初めて見せてくれたその笑顔を見ていると、

私の胸の奥に、なにか暖かいものが広がるような感覚が訪れる。


「本当にありがとうございました……ほら、サキ。お姉ちゃんにお礼を言いなさい」

「おねえちゃん!ありがとう!」

「どういたしまして」


お父さんに手を引かたまま、人ごみの中に消えていく女の子。

女の子は私の姿が見えなくなるまで、身体を後ろに傾けたまま手を振り続けていた。

その親子の後姿を見ていると、何だか懐かしい感覚がこみ上げてくる。

幼い頃の私。―――父が居た頃の私も、周囲から見るとあんな感じだったんだろうな。


『なぁももか。偉い人やお金持ちや有名人にならなくてもいいんだ。ただ、人に幸せを与えられる人間になりなさい』


幼い私にそう語ってくれた父。もしも父が今の私を見たら、喜んでくれるだろうか?



私は今、駅で迷子になっていた女の子をお父さんと引き合わせてあげた。

もちろん、そんなことをしたって私に得はない。

それでも人に親切にしてあげたくなるのは、

誰かの喜ぶ顔を見ていると、胸の奥がほっこりするからだ。

……今日まで、生きるのを諦めないで居てよかったな、って。

私なんかでも誰かを幸せに出来るんだな、って。

そう……思えるからだ。



―――"生きていて本当に良かった"。

幼い頃は毎日そんなことを感じていたのかもしれない。

朝起きて、学校に行って、授業を受けて、友達とお喋りをして、放課後に遊んで、

お風呂やごはんや宿題を済ませて、大好きなお絵かきをしたあとベッドに就いて、

次の日もまた同じ幸せがあると信じて眠る。

そんな『当たり前』を、幸せなことだと思えるほどには、

私はもう、遠いところに来てしまっていた。

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