二話
そこに、染夜が居た。
あの頃の幼い染夜ではない。あのまま成長していたらきっとこんなふうになっていたであろう青年の染夜。どこか柘榴に面差しの似たその姿で、満開の桜の下に佇んで笑っていた。
『染にい……』
思わず由乃は声をかけて、染夜に近付く。しかし、触れる事は叶わなかった。夢。きっとこれは夢なのだろう。それなら、触れる事ぐらい許してくれてもいいのにと、由乃は下唇を噛み締める。
そんな由乃の表情を見て、染夜は困ったような顔をした。そして、その手を由乃の頭の上に持っていって、まるで撫でているような動きをとった。
『お前は悪くない』
ずっとそう言いたかった。そんな感情が流れ込んでくる。由乃は染夜のその言葉に、気付けば涙を流していた。
『お前は悪くないよ。ただ、不幸な偶然が重なってしまっただけだ』
ああ、これは夢だ。なんて都合のいい夢。だけど、それでも、由乃は染夜のその言葉を本心だと思いたかった。
『ごめんなさい……ごめんなさい、染にい……』
とめどなく涙が溢れてくる。染夜は笑って、今度は由乃の頬に触れる仕草をした。
『俺はいつでも由乃の事を思っているよ。勿論、姉さんもね。だから、早く……』
その言葉を最後に、染夜は舞い散る桜の花びらの中へ霧のように消えていった。
「染……!」
自分の声ではたと意識が戻ってきた。
周囲は薄暗く、目覚めたばかりの由乃の目にはまだ周囲の様子がはっきりとわからない。しかし、人がいるような気配はあった。
ふと、違和感を感じた。自分が動いた時の絹擦れの音が、着ていたセーラー服のそれでは無い。何か違う服を着ているようだった。
「目が覚めましたか、由乃さん」
不意に和葉の声が聞こえて、部屋の中に明かりが灯った。急につけられた明かりに目がくらむ。
「あぁ……やはりお似合いだ。貴女こそ私の理想のタルタロスです」
和葉が何を言っているのかわからない。しかし、目が慣れてきたことで自分が今何を着ているのかがわかった。それは、濡羽色をした
「貴女のその金色の瞳には、黒がとてもよく似合う。探していたのです、まるで私の命を奪いかねない程に妖艶で、ビスクドォルのような妖気を孕んだ女性を」
恍惚とした表情で和葉は由乃に近づいてくる。由乃は逃げようとして、座っている一人掛けのソファに縄で括られていることに気付いた。由乃が動けないのをいいことに、和葉は由乃の頬に触れ、親指の腹で由乃の唇をなぞる。凄まじい気色悪さを感じて、由乃の背筋にぞわりと寒気が走った。
「一体、どういうことなの? 貴方は、柘榴先輩のことが……」
「あぁ。その女ですか」
和葉がちらりと目線を動かす。由乃がその目線の先を追うと、床に柘榴が縛られて転がされているのが見えた。
「柘榴先輩!」
由乃の声に、柘榴が体を動かした。微かに目を開けたようだが、まだ朦朧としているように見える。そういえば柘榴は、あの薬が盛られた茶を全て飲み干してしまっていた。
「柘榴先輩!しっかりしてください、柘榴先輩!」
「……ん……んん……」
「その女がまさか、生きているとは思わなかったんですよ」
和葉が見下すような目を柘榴に向けてそう呟いた。由乃はその言葉に、一瞬思考が停止した。
「……今、なんて」
動揺を隠しきれず、由乃は和葉にそう尋ねる。そんな由乃の表情すら、和葉は愉悦の表情で眺めていた。
「ここは天鏡沼の近くにある芳崎工業の倉庫のひとつでしてね。私が書斎として使っている場所でもあります。小説なんて書いてますとね、その資料を集めたくなるものですが……ここにはそういったものがたくさんありまして。とりわけ、精神の薬や睡眠薬……毒なんてものは簡単に調達できるんですよ。家業で石を扱っていますからね」
そう言われて、由乃は初めて周囲に目をやった。そこは倉庫の一角のようであったが、そこを区切るように並べられた棚には夥しい数の本と、整然と薬瓶が並んでいる。その中は確かに鉱石薬のようだったが、成る程確かに極楽堂では見たことも無い石ばかりだった。
そして、由乃はその中にあるものを見つけてしまった。常盤診療所とは比べ物にならない数の、紅い硝子煙管を。
「模造煙管……どうしてこんなに……」
由乃がそう呟くと、和葉はおかしくてしょうがないというふうに、声を漏らして笑い始めた。訳がわからない。だが、和葉は何かがおかしいということだけはわかる。あまりの恐怖に由乃は身を竦ませた。
唐突に、和葉は柘榴を足蹴にして、そのまま足で転がした。体が急に動かされ、柘榴はその衝撃で完全に目を覚ました。
「ううっ……な、なに……? 一体、何が……」
「柘榴先輩!」
縛られて身動きが取れない柘榴の髪を、和葉は鷲掴みして持ち上げる。今までの穏やかな青年像からは想像もつかない行動だった。
和葉はその歪んだ微笑みで、柘榴と目を合わせた。
「月宮雫……彼女は最高でしたよ。私の為にこの煙管を全て家から持ち出してくれました」
その言葉に、柘榴はハッとする。由乃も、雫の父親の言葉を思い出していた。
「貴方は……雫先輩の婚約者だったのではなかったの?」
柘榴がそう問いかけると、和葉は無言で髪を掴んでいた手を離した。支えを失い、柘榴の上体が床に打ち付けられる。
「うっ……!」
「先輩!」
「兄の言う通りですよ。雫さんの婚約者は兄でした。ですが……雫さんはとても、私に入れ込んでいましてね。心のない婚約を大層嘆いていらっしゃいましたよ」
そう言って、和葉は数ある紅い煙管の一本を手に取り、にやりと笑う。
そして次の瞬間、信じられない事を口にした。
「雫さんが心中を持ちかけたのは、柘榴さん。貴女ではなくて私です」
和葉の言葉に、柘榴の顔色がみるみるうちに青ざめていった。
「……そ、んな……嘘……」
「嘘なものですか。私はありありと覚えていますよ。天鏡沼に佇む雫さんはとても美しかった。恋に殉じる事を決意した少女というものは、あんなに美しいものかと感動したものです。……貴女は一体、何を覚えているというんですか?」
「だって! ……だって……私が目を覚ました時には……確かに雫先輩が……目の前で……」
そう言いながらも、柘榴の言葉はだんだん震え始めていた。信じていた雫との絆、共に命まで断とうとしていたという、その想い。それが柘榴の今までの支えになっていたのに、それさえもが瓦解しようとしていた。
そう。柘榴は思い出し始めていたのだった。あの時、何が起こったのかを。
それは、夏も終わりを告げて秋茜が飛び回り始めた夕刻だった。
あの時、何を思って雫がそうしたのかはわからない。残していく柘榴への贖罪だったのか、それとも本心では止めて欲しかったのか。
兎に角、その手紙はいつの間にか嘉月製造所の郵便受けに入っていたのだ。それは、雫がその日その場所で、自分の想い人と共に命を断つ事を仄めかす内容だった。末尾に一言、「御免なさい」と添えられて。
柘榴が手紙を見たその日が、手紙に書かれていた日だった。柘榴はすぐさま家を出て、乗合バスに飛び乗り天鏡沼に向かった。既に日は傾いて暗くなりかけていた。こんな時間になぜ女学生がと思ったのか、周囲の目線が柘榴に刺さっていたが、柘榴はそんな事を気にしている場合ではなかった。
天鏡沼に着いた頃には、既にあたりは真っ暗になっていた。柘榴はひたすらにその辺りを走り回って雫の姿を探していた。どうか、どうか間に合いますようにと。私を置いていかないでと、そう願いながら。
しかし、柘榴の願いは聞き届けられなかった。
湖の辺りに横たわっていた人影を、柘榴はすぐに雫だと気付いた。駆け寄ったが既に命の気配はなく、揺さぶろうが声をかけようが、雫は何の反応も示さなかった。
なぜ、どうしてと柘榴は泣き伏せた。なぜ、なぜ自分を連れていってくれなかったのかと。雫が美しいと褒めた長い髪を砂で汚して、ただひたすらに泣き伏せた。
その時後ろから声が聞こえてきたのだ。
「今なら、まだ間に合いますよ」
その時は、その声の主が誰なのかわからなかった。それはまるで、奈落の使者が柘榴に語りかけているように思えた。その声の主は、柘榴に紅い煙管と紅い石を手渡した。
「雫さんを心から慕っていた貴女なら、同じところにいけます。……さあ、雫さんと、二人で龍になりましょう」
そうだ。その声に唆されるまま、柘榴はその紅い煙管で、その紅い石を喫んだ。あの声は、今ならわかる。あれは、芳崎和葉だったのだ。
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