五話

「……あら? そこにいらっしゃるのは……由乃さん?」

 突然背後から声をかけられて、由乃は口から心臓が飛び出るかと思った。恐る恐る背後を振り返ると、そこには雲水峰うづみねの制服を纏い風呂敷包みを持った一人の女学生が佇んでいた。

「ふぁっ…! あ、あの……ええと……?」

 向こうは由乃の事を知っているようだが、由乃には心当たりがない。いや、見覚えはあるような気がする。しかし同じ学校に通っていれば顔ぐらいは見るだろうし、やはり具体的に誰か……というのは出てこない。襟の色が柘榴と同じ紺色なので、辛うじて上級生であると判るぐらいだ。

 相手は由乃の顔を見て、ほっとしたような微笑みを見せた。

「やっぱり……制服をお召しでないから誰方どなたかと思ったんだけど、学校でお見受けした事のあるお顔立ちだったから……あぁ、私の事はご存知ないかもしれないわね。玖珂と言います。玖珂桜子」

 そう言われて、由乃は自分が学校でも目立つ存在であった事を思い出した。その生徒が、服は違うとはいえこんなところで診療所の中を覗き込んでいれば声もかけたくなるだろう。由乃は自分の浅はかさを恥じた。

「玖珂…先輩ですか」

 玖珂。どこかで聞いたことがある苗字のように思う。学校ではなかったように思うが、どこだったろう。

「桜子でいいわ。由乃さんは私の事をご存知ないかもしれませんけど、私は由乃さんやお姉様の奈落さんの事をよく存じ上げておりますの。……奈落さんには、姉がよくお世話になっておりますので」

「玖珂せ……ええと、桜子先輩の、お姉様?」

 由乃がきょとんとした目をして桜子を見返す。検討が付かず首を傾げる由乃を、桜子はくすくすと笑いながら眺めていた。

「姉の名は、千代と申します。以前はほとり 千代。今は再婚して佐山 千代ですわね」

「……ああぁぁぁぁぁぁ!! ち、千代さんの……妹さんなんですか……!?」

 由乃は開いた口が塞がらなかった。千代といえば、先日まで極楽堂で女給を勤めていた、奈落の「エス」の相手である。再婚し懐妊したので今は極楽堂を離れているが、姉に溺愛されている女性だ。目の前の上級生は、その千代の妹だというのだ。

 桜子は相変わらずくすくすと笑いながら、あからさまに動揺している由乃を面白そうに見ていた。

「なんだか、おかしな感覚ですわ。姉は私に会うと二言目には奈落さんや貴女の話ばかりで……私まですっかりお二人姉妹の事を存じ上げているような気分になっていたのですけれども、こうして実際にお会いするのは初めてなんですものね」

「は……はぁ……千代さん、妹さんがいらしたのですね……私は初めて知りました……」

 なんだか、妙な感覚だ。姉の「妹君」の、さらに妹と、実の妹の自分。しかも相手は自分よりも上級生だ。一体どんな顔をすればいいのだろう。

「姉や私の話って……一体どんな話を?」

「そうですね……殆ど奈落さんのお話ばかりなんですけれども……貴女のことは、可愛らしい妹さんと話していましたわ。学校ではひとときもじっとしていない方なので、一度お話しして見たかったのだけれども、こんなところで会えるとは思いませんでした。由乃さんも、お見舞い?」

 ひとときもじっとしていないと言われて、由乃はやや落胆した。学校での自分は上級生からもそんな風に見られているのだろうか。それでは「お姉様」などできようはずもない。

「お見舞い……ということは、桜子先輩はお見舞いなのですか?」

「えぇ……お祖母様がね。ずっと長いこと床に伏せっていたのだけれども、体の痛みが激しくなってきて、お医者様にももう先が長くないと匙を投げられてしまって……私たち家族もどうしようも無くなっていた時に、ここを紹介されたのよ」

「へぇ……」

「ここに入院させて頂いてからは、お祖母様も体の痛みが落ち着いたらしくて、以前よりも落ち着いた顔をなさってるの。お父様はいい顔をしていないけれども、私もお母様もここの先生には感謝しているのよ」

「……」

 なんだか、由乃が先ほど覚えた恐怖感とも、いつもの風吹の印象とも違う人物像に、由乃はやや混乱していた。現れては消える風吹の様々な一面。

 本当の風吹は、一体どんな人物なのだろう。

「あの……もし良ければ、私も一緒にお祖母様のお見舞いをしてもいいでしょうか?ここの風吹さ……風吹先生は、姉の知り合いでもあるんです」

「あら! それは嬉しいわ。きっと祖母も喜ぶわ。是非挨拶にいらしてくださる?」

「ええ、お願いします!」

 由乃は内心どぎまぎしながら、桜子に微笑み返していた。ここまできたら最早乗り込むしかない、そう心に決めて。




温かみのあるモルタルの壁に囲まれた診療所内は、しかし消毒液の匂いが染み付いていて、いかにも病院といった雰囲気を醸し出していた。いつも店で会う風吹の飄々とした雰囲気にはそぐわず、由乃は若干の居心地の悪さを感じていた。

 風吹は由乃と目を合わせるとややバツの悪そうな表情をしたが、桜子の手前だったからか何かを言うことはなかった。そのまま落霞ラオシアと言う大陸訛りの男に案内され、由乃は桜子と共に、彼女の祖母の病室へやってくることになった。

 目の前の桜子の祖母は、すでに痩せこけて死相を滲ませている。しかしその表情は穏やかで、とても体の痛みに悩まされていたとは思えなかった。

「……そう……それじゃ、貴女が極楽堂さんの……」

「あっ、はい……」

 か細い老婆の声に由乃は応じた。

「極楽堂さんには……千代がお世話になってて……。お姉さんにね……お礼を言わなくてはと……思っていたのだけど……」

「そんな、とんでもないです。却って姉の方が千代さんにご迷惑をおかけしてしまっていて……」

 由乃が頭を振ると、老婆は弱々しくも穏やかな微笑みを浮かべた。そして、震える手を持ち上げようとするので、由乃は思わずその手を両手で握りしめた。

「……貴女に会えて、良かったわ。……くれぐれも……宜しくお伝え下さいましね……」

 その言葉に、由乃は胸が詰まる思いがした。隣で桜子が目を伏せているのが視界の端に映る。

「……はい。必ず……」

 そう呟いて、由乃は老婆の細い手をそっと戻し、ゆっくりと手を離した。少し時間を置いてから桜子の方を見ると、桜子は目を赤くして涙の跡を作りながらも、穏やかに微笑んでいた。

「由乃さん、ありがとう……」

「いえ……」

 ここまで気丈そうにしていた桜子のその表情は、由乃の心に刺さるものだった。由乃は桜子になんと声をかけたらいいかわからず、ただ虚ろに床の板目を目で追うしか無かった。

「あの……私、ちょっと厠へ行ってきます」

 そう声をかけて、由乃は病室を出た。ここにきたのは下心もあったので、桜子の祖母を前にして気持ちが居た堪れなくなった。

 一息ついて、厠に向かい廊下を歩く。すると、診察室の前で覚えのある匂いが鼻孔をくすぐった。

「……真珠煙管」

 間違いない。真珠煙管の匂いだ。由乃は足音を忍ばせて診察室に向かうと、引き戸を少しだけ開けて中の様子を伺った。

 由乃は目を疑った。診察室の中には、由乃に背を向ける形で真珠煙管を吸っている風吹がいる。そして、その机の上には、驚く程沢山の紅い真珠煙管が無造作に置かれていた。

 漏れそうになった声をすんでのところで抑えた由乃は、そのままそっと数歩後ずさった。なぜ、なぜ非正規の真珠煙管があんなに風吹のところに。由乃が混乱していると、風吹が診察室の引き戸を開ける音がした。隠れるところもなく由乃はオロオロと慌てふためいたが、風吹はそのまま由乃の存在に気付く事もなく、背を向けて桜子の祖母の病室へと向かっていった。

 風吹が病室に入って、再び廊下に静寂が訪れた。由乃は意を決して、病室の方へ向かう。病室の前で立ち止まると、中から風吹と桜子の祖母の声が聞こえてきた。

「……悪いね、玖珂のばあさん。こんな事頼んじゃってさ」

「いいんですよ……こんな、老いぼれがお役に立てるなら……」

「……この煙管は、どうやら毒が含まれているようでね。その確認が必要で……」

「えっ!?」

 部屋の中から、桜子の驚きとも悲鳴ともつかない声が聞こえてきた。それはそうだ、由乃ですら毒の話は初めて聞いて驚いている。

「……桜子ちゃん」

 風吹の声が聞こえたが、その瞬間病室の中から桜子が駆け出してきた。由乃は呆気に取られたが、一瞬桜子と目が合い、反射的に桜子を追いかけていた。

「……いったぁ!」

 だがしかし、由乃の左足は突然の負荷に古傷が耐えられなかったらしい。診療所の玄関先で由乃は踞った。痛みが落ち着いてきた頃、溜息をついて玄関から外を見ると、そこに桜子が佇んでいるのが見えた。

 先の長くない桜子の祖母への頼み事。毒が含まれた紅い煙管。そして風吹が言っていた「確認が必要」という言葉。つまりは、風吹は人体で毒の有無を確認しようとしていたという事だ。いくらもう長くない相手とはいえ、許される事ではない。桜子の動揺も無理のない事だ、そう思ったその時だった。

 桜子は恐る恐る、手にしていた手提げから何かを取り出した。それは、先ほど見かけたのと同じ紅い煙管だった。

「えっ……桜子先輩……?」

 由乃の言葉には気付いていないのか、桜子は呆然とその煙管を握りしめて何かを呟いていた。それは、誰かの名前のようにも聞き取れたが、風に掻き消されてはっきりと由乃の耳には届かなかった。桜子はその煙管を胸元に握りしめ、嘘、嘘よと、ただただ繰り返すばかりだった。

 こんな時に、由乃はある事を思い出していた。あの不安げな表情。どこかで見た事があると思ったのだ。桜子は、あの時学校で峰澤に紅い煙管を取り上げられていた、女学生ではなかったか。目の前で桜子が突然咳き込み始め、その場に踞ってしまった。

 唐突に強くなった風が、どこからか桜の花びらを運んでくる。踞る桜子の髪が風にたなびいて花びらを絡ませ、それはまるで、サナトリウム文学小説の一節のようだと、由乃は場違いにもそんな事を考えていた。

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