四話

「……というわけで、嘉月柘榴先輩とエスの関係を前提にお友達になりました」

 由乃が姉の奈落にそう告げると、奈落は朝の店周辺の掃き掃除をする箒の手を止めて由乃の方を凝視した。

「……は?」

 ようやく出てきた言葉がそれである。無理もないのだろうか。「エスの関係を前提に」というのは由乃の超解釈ではあるのだけれども、いつかそうなりたいと思っているので間違いではないと思っている。少なくとも、由乃としては。

 しかし、奈落の表情がみるみるうちに様々な顔を見せたので、由乃は自分が姉の地雷を踏んだらしいことに気付いた。絶望、落胆、不安、呆れ……そんなところだろうか。

「……なぜ、そういう事になる? そもそも、エスの関係を前提にとはどういうことだ」

「いやなんか一目惚れしたから、柘榴先輩は亡くなられた月宮先輩のことが忘れられないという話だったんだけど、私から申し込んで……それでお友達ならって……」

 そこまで話したが、奈落の眼光が鋭くなり箒をへし折らん勢いで握りしめていたので、由乃はだんだん語尾が消えかかっていた。こういう時の姉の目は滅茶苦茶怖い。姉の目は瞳の中の左下だけが色素の薄い虹彩異色症というものらしいのだが、目立たないがある意味では由乃よりも奇妙なその目で、そしてその姉の眼光で睨まれると……正直、震え上がる。

「……やめておけ」

「なんで!? だって、柘榴先輩だってお姉ちゃんのこといい人だって言ってたし、お姉ちゃんだって嘉月製造所を信頼してるから商品を仕入れているんでしょう!? お姉ちゃんまで柘榴先輩の根も葉もない噂を信じるの!?」

「そうではない!!」

 突然発せられた姉の大声に、由乃は怯み上がった。その由乃の姿を見て、我に返った奈落はばつが悪そうに目線を箒の先に戻し、言い辛そうに、言葉を選ぶように呟いた。

「……すまん。そうではないんだ。嘉月の孫娘が悪い人間では無い事ぐらい私も知っているよ。だが、『エスの関係を前提に』というのが気になってな」

「……どういうこと」

「『前提に』ということは、『エスではない』のだろう? お前がどんなに相手を想っていても……それは、エスにはなれない可能性の方が高い。なまじ、相手の状況が状況だ。……言いたくないが、親しい人間を亡くす苦しさは、お前はよく知っているだろう。自分のせいだと思っているなら猶更だ。そんな相手を待つのは……苦しむだけだぞ」

 姉の言葉は、一言一言が重かった。由乃の脳裏に兄、染夜の顔が浮かぶ。

 柘榴が染夜に似ていると言っても、由乃はそこまで明確に染夜の顔を覚えているわけではない。なにせ五つの時の事だし、その時染夜は八つだった。よく少女に間違われる顔立ちの、それでも性格は誰よりもやんちゃな兄だった。それぐらいの事しか覚えていない。

 だが、似ていると思ったのだ。なんなら染夜があのまま成長していれば、あんな顔立ちの青年になっているのではないかと思うぐらい。だから、放っておけなかった。

「……私は、後悔したくない」

「由乃……?」

「私はお姉ちゃんじゃないよ。確かに振り向いてくれない相手の近くで想い続けるのは苦しいだろうと思うけど……でも、お姉ちゃんはそれを後悔してるの?」

 由乃は少しだけ知っている。姉の奈落は昔、報われない想いを寄せた相手がいたこと。だから、誰に申し込まれても「お姉様」も「妹君」も持たなかったこと。それは今の由乃にも繋がるところがあるし、今の柘榴のようでもあった。

「私は……もう、後悔したくないよ」

 奈落はため息をひとつ吐くと、顔を上げて空を見つめた。

「……敵わないな」

 そう呟くと、奈落はまた掃き掃除を再開した。そして、ちらりと由乃に目線を向けると、懐の懐中時計を開いてぼそりと呟いた。

「ところで、そろそろ学校に向かわないと遅刻するのでは無いか?」

「あっ」

 由乃は奈落の言葉に我に返り、慌ててその場を走り去った。その後ろ姿を見て、奈落は小さく溜息をついた。

 その奈落の後ろに、黒い外套の眼鏡の男が近付いてきた。

「只今戻りました、奈落さん」

「……心底驚くからその近づき方を今すぐ辞めろ」

「あっ、じゃあやり直しますか?」

「そうじゃない」

 奈落は男と軽口を応酬すると、男の方に向き直った。男は眼鏡を外すと、奈落を見つめてふわりと微笑んだ。

「お帰り、利一」

 利一と呼ばれた男は奈落に抱きつこうとしたが、奈落が持っていた箒で押されて近づく事すら叶わなかった。

「……酷い」

「人前だ、後にしろ。それより、何かわかったのか」

「……そうですね」

 そういうと、利一はいつのまにか奈落の箒を奪い、奈落の懐に入り込んだ。奈落は抵抗しようとしたが、下の方でさり気無くその手首を掴まれてうまくいかなかった。

 利一は奈落の耳元に口を寄せて囁いた。

「見られています」

「いやだから辞めろと……」

「そうではありません。恐らくは男でしょうか。由乃さんがいた時から、ずっとこちらを見ている」

「何?」

 奈落は以前、由乃が言っていたことを思い出した。あの時由乃も「見られている」と言っていた。やはり、妹が狙われているのだろうか。

「そのまま聞いて下さい。廉価品の真珠煙管の件で警察が動いています」

「……警察?」

「俺たちが思うよりも、少し不味い事になっているかもしれません。恐らくはここにも警察が来るでしょう」

「何故? この店では疚しい事は何一つしていない」

「それでも、ここは全国的に見ても名は知れている薬屋ですからね。無理もないでしょう。別に俺たちは何を聞かれても問題になることはしてませんから、普通に接していればいいと思いますが……」

「……ふむ。わかった、苦労をかけたな。中で休むといい」

 そういうと、奈落は利一から箒を奪いするりと離れて、引き戸に掛けていた塵取りでごみを掃きとると、利一を引き連れて店の中へ入っていった。




「えええぇぇぇ!? あの後そんなことになってたの!?」

 の々かのけたたましい声が教室に響き渡る。思わず由乃は口元に指をあて、の々かにしーっと促した。

「声が大きいわよの々かちゃん」

「だってだって……! あの後由乃ちゃんが走って行ってしまったから、どうしたのかと思っていたのに、そんなことになっていたなんて……!」

 の々かのこの過剰な反応はまあ読めていたと言えば読めていたのだが、普段は動じない隣の鼓梅まで目を丸くしているのは意外だった。

「そこまで驚くようなことかしら……」

「由乃さんはあまり事の重大さがわかっておられないようですね……」

 そう言って鼓梅はため息をつき、手にしていた教科書を机の上に置いて由乃の方に目線を向けた。鼓梅のあどけないながらも底の見えない瞳にじっと見つめられると、由乃ですら少し怯んでしまうところがある。

「いいですか、由乃さんはまずご自身の事を顧みられた方がよろしいかと思います。失礼ですが由乃さんはなかなかに人目を引く容姿でいらっしゃいますから、女学校の中でも割と顔を覚えられている事をもう少しご自覚なされた方がよろしいかと。加えて、由乃さんのお姉様です。由乃さんも嫌という程わかってらっしゃると思いますが、お姉様……奈落さんはこの女学校では知らない人が居ない程の有名人、『紫水晶の君』です」

 紫水晶の君、という単語に由乃は笑いを堪えきれず吹き出したが、鼓梅の怒気を孕んだ目線に睨まれて表情を直した。だが、どうしても笑いが込み上げてきてしまう。

 そもそも姉は別に積極的に紫水晶を身につけたりなどはして居ない。薬品として入荷することはあっても、紫水晶との関わりはその程度だ。しかし、なぜ姉がそう呼ばれるようになったかと言えば大いに女学生たちの先入観によるところなのだろう。確かに紫水晶は日本でも多く採掘されるので、女学生でもよく目にする鉱石のひとつだ。それに、紫という耽美的な色合いが姉の中性的な印象に合致していつのまにかそう呼ばれるようになったのだろう。

 しかし、紫水晶の薬効のひとつは「酔い止め・酔い冷まし」だ。もし彼女たちが、うっかり晩酌を飲み過ぎてへべれけになり、紫水晶を煎じている姉の姿を知っているとすればなかなかに滑稽である。由乃に渡される姉宛ての文の数から察するに、そういうわけではなさそうだが。

「……笑い事ではありません。つまり、ただでさえ校内では有名な由乃さんが、悪い噂の多い柘榴先輩と一緒にいるところが多くなればどうなるか……あまり、碌な事はないと容易に想像できますわ」

「碌な事って?」

「……その瞳の色で色々と陰口を言われるだけでは済まないだろうというところでしょうか」

 鼓梅の単刀直入な言葉に、由乃は声が詰まった。確かに、それは由乃自身も不快に思っている事だし、それだけで済まなくなるというのは面倒な事になりそうだ。……しかし。

 言葉を探している由乃の姿を見て、の々かがおろおろとして居た。そんな二人の姿を見て、鼓梅は小さく溜息をついた。

「……そんな事を言っても、聞かないのでしょうね。由乃さんはそういう方です」

「あ、うん。それは私もそう思う」

 鼓梅の言葉に、調子良くの々かが合わせてくる。しかしそんな二人の様子に、由乃はぱっと顔を上げた。

「それに正直、私も興味ありますわ。あんなに噂のある柘榴先輩が本当はどのような方なのか。機会があるならお話もしてみたいですわね」

「えっ、鼓梅ちゃん意外と勇気あるぅ……私は別に直接は……あっ、でもでも、どんな人なのかは……聞いてみたい……かな?」

 二人の少し前向きな言葉に、由乃は少し感涙した。そして、思いっきり二人に抱きついた。

「わっ! びっくりした!!」

「鼓梅ちゃん! の々かちゃん!! 良かったぁ、誰も味方がいないかと思ったよぉ!!」

 しかし、そんな感動の一幕はひとつの咳払いで中断される事になった。担任の峯澤が三人の方を静かに眺めている。気付くと、教室には三人以外誰一人としていなくなっていた。

「……今は、裁縫の時間だったと思いますが? 教室はここではありませんわね」

 峯澤の言葉に、三人は慌てて道具を掴んで教室を後にする羽目になった。

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