二話

「噂をすればなんとやら、ですわね」

 鼓梅のつぶやきで、由乃は我に返った。

「彼女が 嘉月かげつ 柘榴ざくろ先輩。月宮先輩の『妹君』です」

「えっ!?」

 鼓梅の言葉に虚を突かれたように、由乃は鼓梅を見て、そしてまた廊下を歩く彼女の方に目を向けた。

「噂では……月宮先輩と一緒に心中をしようとしたものの、彼女が怖気付いて毒を飲まなかったとか、入水しなかったとか……。柘榴先輩と月宮先輩の家は商売敵だから、柘榴先輩が家のために月宮先輩を心中に見せかけて……とか……」

 の々かが説明する根も葉もない噂話が、由乃の耳を右から左へ通り過ぎていく。話半分に聞きながら、由乃は柘榴をずっと目で追っていた。

 彼女が、天鏡沼で心中し生き残った「妹君」。「染夜そめや」の面影を持つ、あの女性が。

 商売敵の娘だった「お姉様」を心中に見せかけて? そんなわけはない。彼女から強く香るのは、自らを潰してしまいそうな程の「罪悪感」ばかりだ。

 思わず、由乃は周りを押しのけて柘榴の元へ向かおうとしていた。

「ちょっ……由乃ちゃん、待って! 何してるの!?」

 しかし、の々かに止められて由乃は前に進むことが出来なかった。そもそも、前方は人で溢れていたので進むこともできなかったのだが。

 するとその時、先ほど教壇に立っていた担任の峯澤がやってきて野次馬の女学生たちを一喝した。

「貴女達! 何をしているのです! はしたない真似はやめて慎みを持ちなさい! 勉学が終わったのなら各々、下校するなり課外活動に精を出すなりなさい! なんですか野次馬みたいに!」

 野次馬みたいに、というか野次馬なのだが。年頃の女学生に噂に敏感になるなというのは無理な話だ。それも「お姉様と心中して生き残った妹君かもしれない生徒」という刺激的な噂に食いつくなというのは、なかなか難しい。

 しかし、教師に怒鳴り散らされたのでは堪らない。女学生たちはきゃあきゃあ騒ぎながら、蜘蛛の子を散らすように廊下から消えていった。由乃も峯澤に睨まれて慌てて目線を逸らし背を向けた。しかし、柘榴の事が気になって仕方がない。由乃はそのままゆっくりとまた柘榴の方に目線を戻し、聞き耳を立てた。

「……ですから、まだ時期尚早なのではないかと私は言ったのです。どんなに隠そうとも噂というものは尾鰭をつけて広がるものですからね。なんならわたくしは貴女もこのまま除籍で良いのではないかと校長先生に進言したのですけれども」

 苛立ちのこもった峯澤の声。由乃の担任は今日はよっぽど虫の居処が悪いらしい。

「……申し訳ありません、峯澤先生。校長先生のご配慮に感謝しております」

 どきりとした。初めて耳にした柘榴の声は、その少し神経質で怖そうな見た目に反して、鈴のような可愛らしい女性らしい声をしていて、あの月宮先輩の妹君という話がその声だけでも合点がいった。

 思わず振り向くと、一瞬だけ峯澤と目が合ってどきりとしたが、峯澤はそのままその場を去ってしまった。柘榴も踵を返すように再び歩き始め、由乃は反射的に彼女の後を追いかけようとしていた。

「ちょっと! 由乃ちゃん!」

「ごめん、の々かちゃん鼓梅ちゃん! 今日は先に帰って!」

 二人にそう告げると、由乃は既に柘榴を追って廊下に出て行ってしまった。の々かは唖然として由乃が去った方を見つめていたが、鼓梅は淡々とそんなの々かに呟いた。

「由乃さんは、ああなってしまってはもう止められませんわ……。行きましょう、の々かさん。一緒に便箋を見に行きませんこと?」

 鼓梅の言葉に、の々かは溜息をついて頷くしかなかった。

「そうだったわね……。由乃ちゃんは、普段はおっとりしてる癖にこういう時はすばしっこいんだったわ」

「ああ見えて喧嘩っ早いところもありますから少々不安ですが……まぁ、大丈夫でしょう。根拠はありませんけど」

 そういうと鼓梅は鞄を背負い、席を立って扉の方に向かった。それを見たの々かは慌てて自分の鞄を持ち、小梅の後を追っていった。

「……でも、大丈夫かな。……柘榴先輩は、不順異性交遊をしているという噂もあるけど……」




「……っつぅ!」

 思わず走り出してしまったが、じきに由乃は左足を押さえて蹲ってしまった。

 元々、由乃は運動が得意ではない。それは、姉のように体力が無いから動き回れないとかいう理由ではなく、昔骨折した左足に負担がかかるとすぐに痛みが走るからだ。だがいつもそれを忘れて走り出してしまい、動けなくなってはよく姉に怒られた。

 だが、だからこそ。

 由乃の脳裏には染夜の顔が浮かんでいた。由乃のみっつ上の兄。生きていれば十八歳だった。由乃が五才の時の春に死んだ。朧げに覚えている兄に似た柘榴の事が、頭から離れない。

 柘榴が立ち去った方向は見ていた。あそこの角を曲がると学校の裏口に出る扉がある。むしろ、それしかない。だとすれば、柘榴はそこから学校の裏に出たのだろう。由乃は足の痛みが引くのも待てず、鈍痛を圧して角を曲がった。

 僅かな鉱石の匂いがした。鉱石の匂いには鈍い由乃にも感じるということは、相当強烈に鉱石薬を使用している証拠だ。しかもこれは、かろうじて由乃にも判別できる有機鉱物の匂い。ということは、恐らくは真珠煙管。

 まさか。そう思って、由乃は足を引きずりつつ裏口に出る扉に手をかけた。小さく隙間を開けると、その匂いは更に強くなった。ほぼ間違いない。早まる動悸を感じつつ隙間から外の様子を伺うと、そこには由乃が先ほどから探していた生徒、柘榴が真珠煙管をんでいた。

 由乃の動悸が跳ね上がった。姉の言っていたことが脳裏を過ぎる。

『女学校で真珠煙管を吸っている生徒を見つけたら私に教えてくれないか?』

 今まさに、目の前にその生徒がいる。しかし、嘘だと思いたかった。何故だかわからないが、彼女が不良女学生だとは思いたくなかった。

 止めなくては。由乃はその使命感に駆られて扉を開けようとする手に力を入れた。しかしその時、柘榴の向こうから人の気配がして、再びその手を止めて様子を伺った。

「……ご無沙汰です、柘榴さん」

 男の声だった。まさか、柘榴は真珠煙管のみならず、学校の裏で男性と逢引しているというのだろうか。

「貴方は……雫先輩の……」

「……あんな事があった後で……貴女にお会いするのもどうかとは思ったのですが、私もどうしたらいいのか……」

「私、が、悪いんです。……多分」

「……多分、とは?」

「よく、覚えていなくて……」

 何やら、意味深な会話が続いている。由乃はどきどきしながら聞き耳を立てていた。

「そう……だったんですか。すみません、辛い思いをなさったでしょうに……」

「いえ……私の方こそ、どんな顔して貴方に向かい合えば良いのか……」

「いえ……」

 しばらく、沈黙が続く。由乃は自分の動悸が二人に聞こえやしないか、心配になるほどだった。

「あの……こんな時になんですが……。私は、その……」

「……はい?」

「私は……本当は、雫さんが羨ましかったんです。私がお近付きになりたかったのは……本当は……」

「辞めて下さい!」

 突然の柘榴の大きな声に、由乃は心臓が止まるかと思った。これは、つまり、そういう話なんだろうか。

「……辞めて下さい。私にそんな資格などありません。雫先輩の……お姉様の命を奪っておいて……そんな……」

「……すみません。こんな時に……でも……」

 扉の隙間をもう少し広げてもいいだろうか。今、一体どういう状況なのか。気になる。

 由乃は自分の欲求に耐えられず、扉の隙間を広げて覗き込んだ。すると、俯く柘榴を抱きしめようとしている、着物に袴、帽子を被った書生姿の男が見えた。

「ふっ……ふっ……不純異性交遊ーーーーー!!!!!!」

 思わず、由乃はそう叫んでいた。由乃の声に驚いた書生は、柘榴から手を離して走り去って行った。

 後に残ったのは、丸い目で呆けている柘榴と、叫んだはいいが全て出歯亀していたのが丸わかりの由乃の情けない姿だった。

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