忘れ得ぬあの味…
平中なごん
忘れ得ぬあの味…
今からすると、もうずいぶんと古い話になる。
あれは、私がまだ学生だった頃のことである……。
「――いらっしゃーい! おお、兄ちゃんか」
「こんにちは。いつものお願いします」
住んでいたアパートの近所に、よく行く一軒のラーメン屋があった。
けして不衛生というわけではなかったが、机やら床やらが長年の油でテカテカとてかった、悪く言えば「小汚い」、まさに大衆食堂といった雰囲気のとても小さな店だ。
かくしゃくとした老店主が一人で切り盛りしており、他に店員もいなければ家族もおらず、店主は淋しい独り暮らしであるらしい……。
「はい! しょうゆラーメンいっちょうあがり!」
いつものようにカウンター席へ座り、ごく短い言葉で注文すると、あまり時を置かずして、年老いた店主が筋ばった手でどんぶりを僕の前に置く。
琥珀色の澄み切ったスープに細い縮れ麺が
だが、それを一口、啜った瞬間、私はその虜となった。
その原因は間違いなくこの澄んだスープにあるのであろう。そのいかにも淡白そうな見た目に反し、それにはこれまでに味わったことのないような独特のコクがあり、やみつきになる味というかなんというか、とにかく、何度食べても飽きないうまさなのだ。
おかげで初めてこの店を訪れてからというもの、私は二日と開けずにここへと足を運び、相も変わらずこの一杯を食している。
口コミで評判が伝わったのか? 最近では新規の客も増えてはきたが、いつも店を満席にしている常連客達も、やはりみんなそんな感じなのであろう。
「…フーっ……やっぱ今日もうまいですねえ。いい加減、何で出汁とってるのか、そろそろ教えてくださいよ」
レンゲで掬った極上のスープを一口、飲み込んだ後、カンターの向こう側で火にかけたズンドウを掻き回す店主に私はさりげなく尋ねてみる。店を訪れる度に、もう幾度となくぶつけている質問だ。
「ハハハ…さあて、なんだろうなあ? ……ま、その内にな。なあに、んな珍しいもんじゃない。その辺にゴロゴロと転がっている、ごくごくありふれたもんだよ」
だが、今日も老店主は柔和な笑顔を浮かべながら、そんな風にはぐらかしてしまう。
これだけ足しげく通っているので、さすがにもうかなり親しい間柄なのだが、このスープの味の秘訣に関してだけはどうしても教えてくれない。ま、いわゆる〝企業秘密〟ってやつなのだろう。
年齢的にこの店主も大戦中は当然出征しており、配属された戦地で終戦を迎え、日本への引き上げ後にこのラーメン屋を始めたとのことなので、もしかしたら現地で本場の作り方を教わり、それをもとにこの極上スープを完成させたのかもしれない。
……あれ? でも確か店主の出征先は中国や満州じゃなく、南方の方だったと聞いたような気もするが……ベトナムのフォーとか、そっち系のものなのかな?
「またですかあ? よーし、こうなったら何使ってるのか自分の舌で当ててみせますよ」
「ハハハ…さあて、若い兄ちゃんの舌でこいつの秘密がわかるかなあ?」
カウンター越しに、今日も極上の一杯を頂きながら、そんないつもの会話を交わす……きっと、この先も店主が答えを教えてくれることはなく、こんな感じのやりとりが繰り返されるのだろう。
その穏やかな笑顔に反してガードは硬く、なかなかスープの秘訣を教えてはくれなかったが、私はそれでも別にいいように思っていた。
こうして他愛ないおしゃべりを交わす平和な一時の中、いつもまでもこの旨い一杯を味わえるのなら…と。
だが、そんなある日、私はなんだか胸騒ぎを覚える、奇妙な光景を目にした。
どうにも客とは思えない奇妙な男達が店の周りをうろちょろしていたのだ。
気にかけなければわからなかったかもしれないが、ふと見ると二人づれの男が、店に入るでもなく、電柱の影に隠れたりしながら、店内の様子をこっそりと覗っているような感じである。
暗い色の背広姿だったり、ラクダ色のトレンチコートを着ていたりして、その身から醸し出される空気はいわゆる〝カタギ〟の人達のようには思えない。
それに目つきも鋭く、服装の割に筋骨逞しいガタイをしていて、一言で表現すれば「武闘派」というような印象を受ける人物達である。
この雰囲気からして、やはりヤクザ屋さんの類だろうか?
とすると、借金取りか? 店はだいぶ繁盛しているように見えるが、けっこう借金があったりするのだろうか?
いや、店は順調でも家族のいない淋しい身の上だし、その淋しさを紛らわすのに酒か女かギャンブルにでもハマっているというようなことも……。
「ごめんくださーい……」
気づかれぬよう怪しげな男達の姿を横目に眺めつつ、そんなことをつらつら考えながらもいつものように引き戸を開けて、私は脂ぎった臭いの籠る店内へと足を踏み入れる。
「あ、えっと、いつものお願いします」
「あいよ。しょうゆラーメン一丁!」
だが、そんな胸に抱いたそこはかとない不安も、そのいつもと変わらぬ極上のスープを口へ運ぶ度に、まるでラードが熱で溶けるかの如く次第に薄れて消え去っていった。
………………ところが。
その不安は、突如、現実のものとなって私の目の前に現れた。
「……そんな……何かの間違いだろ?」
その日も、あの味を想像して思わず生唾を溜めながら店へと足を向けた私は、よく見慣れた古めかしい引き戸の前で呆然と立ち尽くしてしまった。
そこには、「一身上の都合により、店を閉めさせていただきます」と手書きされた短い文面の張り紙がぴらっと一枚だけ、なんの飾り気もなく貼り出されていたのだ。
その字面を見ても、最初なんのことだか私には理解できなかった。
何度もその一文を読み返した後、ようやく内容を理解して次に抱いた感想は、これはきっと夢に違いないという疑いの気持ちだ。
それは、それほどに突然過ぎて、それほどに信じがたい出来事だったのである。
それが夢や幻ではないとわかり、その建てつけの悪さも馴染み深くなった引き戸へ手をかけると、私はガタガタと強引に揺すってみる。
無論、鍵はしっかりかかっており、ガラス越しに覗く店内も真っ暗で、誰か人のいるような気配もない。
私はあの日常が、この先もずっと続くものと信じて疑わなかった……あの他にはない極上の味も、店主と他愛のないおしゃべりをするあの一時も……。
なのに、その日常がこんなにも呆気なく、しかも唐突に終わりを迎えてしまうなんて……。
いや、前触れはあったのだ……あの、カタギではなさそうな怪しい男達である。
では、やはり借金取りに追われて夜逃げでもしたのだろうか? それでなんの挨拶もなく、こんなにも突然な形で……。
なんとも言い様のない、このものすごい喪失感。
親しくなった店主との別れはもちろんであるが、それ以上にやはり、あの極上の一杯が二度と味わえなくなるかと思うと、私は身内を亡くした時と同じような、そんな自分の身体の一部を失うかの如き言いようのない淋しさと虚しさを、いつになく静かなその店先でしばしの間感じていた。
そうした思いは他の常連客達も同じだったらしく、ようやくにして現実を受け入れ、どこか後ろ髪ひかれる心持ちで店先をとぼとぼと後にする折、やはり張り紙を見て呆然と立ち尽くしたり、悲鳴のように嘆きの声を上げる人々の姿を少なからず見かけた。
いつの間にか、この店もあの味も、そして、店主と世間話をするあの時間も、私にとって…否、私を含む常連客達にとっては欠かすことのできない〝日常〟の一コマとなっていたのだ。
通っていた学校が廃校になったり、子供の頃からずっと見慣れていた街の建物が取り壊されたりする時も、きっとこのような感情を抱くのであろう……。
馴染みの店が無くなるということへの強い喪失感となんとも言えぬ淋しさを、私はこの時、生まれて初めて実際に感じ、そして、その真の意味を心の底から理解した。
……しかし。
話はそれで終わりではなかった。
そんな強い喪失感も一瞬にして吹き飛ばされてしまうような、さらにとんでもない衝撃的な事実が待ち受けていたのだ。
その日は一旦、意気消沈してアパートへ帰った後、それでもまだ諦めがつかず、もしかしたら「本日休業」という貼り紙の文字を見間違えたのではないかという疑念を強引に抱くと、私は未練がましくも再び店を見に行ってみたのであるが……。
「……なんの騒ぎだ?」
着いてみると、店の前には黒山の人だかりができている。
一瞬、もしや閉店記念に最後の営業でもしているのかとも思ったが、どうやらそんな浮かれた様子でもない。
いや、それどころか黒山の向こうには黄色と黒のトラロープが張られ、よく見れば白黒のパンダカラーの車ーー即ちパトカーまで停まっているではないか !
その明らかに事件性のあることを漂わす状況に、今度は借金で首の回らなくなった店主が、あの店構えの割りにずいぶんと立派だった梁に縄をかけて…などと、不吉なことを想像してしまう。
「いったい、何があったんですか?」
人だかりの中には店でよく見かけた常連客の顔もチラホラと見えたので、いてもたってもいられなくなった私はその内の一人に思い切って声をかけてみた。
「…ん? ああ、それがさあ……ちょっと話ずらいことなんだけどな…」
すると、向こうも私の顔に見憶えがあったと見えて、声をひそめながらも能弁に知っている情報を教えてくれる。
「俺も警察に話訊かれたんだけどよお、それからするとあの店主、どうやら“人
…………どういうことだ?
突然の閉店でただでさえショックを受けていた私は、いきなり告げられたその新事実に頭がついていけず、その意味を理解できぬまま頭に混乱をきたした。
「特に浮浪者や、消えてもしばらく気づかれないだろう一人暮らしの者ばかり狙って、夜な夜な攫って来てはあの店で殺していたらしい……」
置いてけぼりの私を他所に、その労働者風の身なりをした常連客は物知り顔に話を続ける。
「ラーメン屋のオヤジがそんな頻繁に人を
そして、何やら意味ありげな笑みをその口元に浮かべると、私の顔をじっと覗き込みながら彼はそう付け加える。
「あのオヤジの行ってた南方の戦線じゃあ、ずいぶんと飢餓に苦しめられて、死んだ仲間の肉を食うこともあったって話だぜ。その時の味が、帰って来ても忘れられなかったのかもしれねえなあ……」
最後にそう言うと、「おまえならわかるだろう?」というような眼差しをして、その視線を俄かに騒がしくなった店の入口の方へと向ける。
いまだその意味を解さぬまま私もそれにつられて見ると、店からは制服の警官や鑑識の人々がわらわらと出てきて、ブルーシートのかかった
「あっ…!」
と、その時。
担架を運ぶ前の者がよろめき、ブルーシートの下から何やら白いものが地面に溢れ落ちた。
一瞬の出来事ではあったが、慌ててそれを拾い上げる警官の手にあったものが、真っ白い大きな骨であることは確かに見てとれた。
大きさからして大腿骨であろうか? 焼き場で焼いたのでも、自然に白骨化したのとも違う、本当に真っ白く綺麗な骨だ。
まるで、長い間煮詰めて、不純物をすべて出し尽くしたような……。
わざわざ担架で運んでいるので、豚や牛の骨などということはあるまい。ましてや鶏では大きさからして違う。
つまりは、あれは被害者達の…人間の骨……。
「そうか。あのスープの出汁の正体は
その真っ白く、まるで浄化されたような美しい骨を見て、私は先程、常連客から聞いた言葉の意味を今さらながらに理解した。
そして、その驚愕の真実を前にしても私は驚くよりもまず先に、ようやく謎が解けたことで胸がスッキリしたとでもいおうか、あのえもいわれぬ味の正体がとんでもないものだったとわかってもなお、むしろ「納得」といった方が近しい感想を抱いていた。
とても場違いな気もするが、そんな爽快感を覚えながら引き続き警察関係者達を眺めていると、中にはあの店をこっそり覗がっていた“カタギじゃない”男達の姿も見受けられる。
……そうか。あれは捜査中の刑事だったのか……それで、ついに店主は逮捕されて店を閉めることに……。
となると、あの貼り紙は店主が連行される際に警察へ頼み込み、自分の手で貼っていったものなのだろうか?
それどころではない状況でも客への礼を忘れないとは、なんともまあ律儀なことである。
私はそんな客思いの店主の行動に、これもまた場違いなことではあろうが、密かにいたく感心してしまう。
……にしても、ということは私達はずっと、
こんな時、普通ならば、酸っぱいものが胃の奥から込み上げてきたり、吐き気を催して口を手で覆ったりするのが、人間としての自然の反応なのであろう……。
しかし、あのスープを使ったラーメンを思い浮かべた私は、むしろ逆に生唾が口内を満たし、思わずヨダレの垂れそうになるのを必死に堪えていた。
今ならば、そんな鬼畜の所業を為してまで、あの非人道的なラーメンを作り続けた店主の気持ちがわかるような気がする。
すべてを知ってしまった今でさえ、やはりあの一杯がもう二度と味わえないかと思うと、なんとも淋しく、例えようのない喪失感に襲われる。
きっと、さっき話を聞いた男も含め、他の常連客達も私と同じ感情を抱いているに違いない。
いかにもチャルメラの音が似合う、すべてが美しくも物悲しげなオレンジ色に染め上げられた夕暮れ時、騒めく人だかりの喧騒に耳を澄せば、ズズッ…とヨダレを啜る音があちこちから聞こえていた……。
(忘れ得ぬあの味… 了)
忘れ得ぬあの味… 平中なごん @HiranakaNagon
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