喫茶店の猫

朔夜

第1話

 男は足早に大通りを進んでいた。休日の真っ昼間ということもあってか、通りはいつも以上に混雑していたが、上手く人を避けて目的地へ足を進める。本来なら休みの筈だった今日が出勤になった彼は、眉間に皺が寄るぐらい不機嫌で、とにかく早く気分転換をしたいようだった。

 人の合間をすり抜けるように歩いていた彼だったが目的地へ続く横道を見つけて脇に寄り、そのまま細い道に入った。大通りと違って薄暗く人も少ないが、昭和を感じさせる落ち着いた雰囲気を醸し出していた。

 彼は目当ての店を見つけるやいなや、扉のグリップを勢いよく引いて叫ぶ。ドアベルがからん、と音を立てた。

大神おおがみくん! ちょっと聞いてよ!」

 男が大げさに扉を開いたので、現実から切り離されたようなゆったりとした時間を店の中で過ごしていた客達は、驚いた顔で男の方を見た。

 ただ、砂糖やミルクが置かれたカウンターの向こう側で、客の為に珈琲を淹れていた大神だけは驚きもせず、男の顔を見ずに呆れた声で言った。

「またか、水無みずなし。他のお客様もいらっしゃるんだから静かに入ってこい」

 注目を浴びていることに気づいた男、水無は肩を潜めてすみません、と周りの客に謝罪しながらカウンターに座った。何人かの視線が背中に纏わり付いているように感じて恥ずかしい。

「それで今日はどうした? 休日にお前がくるなんて珍しい」

 大神がおしぼりとお冷を水無に出した。

 普段、水無は仕事帰りや昼休みにこの喫茶店に来る。今の仕事をし始めた時にふらっと立ち寄ったここを気に入り、通う内にこの店のマスターをしている大神と仲良くなった。

 だが、家からはそれなりに遠い為、休日に訪れることは滅多にない。

「それがさー、昨日、後輩くんが発注ミスして休日出勤になったんだよ。しかも反省する気なんて全くなし!」

「それはお疲れ様だな」

 大神は水無に労いの言葉をかけてからカウンターに座っていた他の客に珈琲を差し出した。水無はぶつぶつと愚痴っていた。日頃、愚痴を言わない彼が抑えきれないくらい苛ついたらしい。

 大神はそんな水無のために珈琲を用意し始めた。水無がここに来て頼む物は決まっている。注文は聞かない。聞く必要がないからだった。

 水無も自分が飲みたいものを作ってくれる大神に文句などあるはずも無く、これ以上嘆いていても怒られそうなので、口を閉じ、黙ってその様子を見つめていた。

 暫くして、水無は出された珈琲に口をつけていた。キリマンジャロの香りは甘いが、口にはあっさりとした酸味が広がる。じっくりと一口目を堪能した彼はカップソーサーにコップを置いた。表面に黒い波紋が広がったが、スプーンで珈琲を掻き回し波紋を消した。

 そんな水無の様子を隣で静かに見つめる男がいた。彼は珈琲と一緒に頼んだ果物がのっているショートケーキを口に含む。その爽やかな甘さが苦い珈琲とよく合ってこの組み合わせは男のお気に入りになっていた。

 男は水無に声をかけてみることにした。持ってきていた本は数回読み終えていて、暇潰しには物足りなくなっていた。そこで目をつけたのが隣に座る水無という男だった。喫茶店ではマスターと話して仲良くなり時間を満喫するのも醍醐味の一つだが、そこで知り合った客同士が仲良くなることも少なくない。同じ店に来ているからこそ、好みを共有することが出来る。それは店に通う楽しみの一つになってまた店に足を向けたくなるのだ。だから、というわけではないのだが、折角の時間を楽しもうと思った男は水無に声をかけた。最初は、当たり障りなく。

「水無さん……でしたっけ」

「そうですけど、どうして俺の名前を?」

 いきなり話しかけられた水無はきょとんとして不思議そうに男に問いかけた。

「さっきマスターさんが名前を呼んでらしたんで」

 男は黒縁眼鏡をかけたままにこやかに笑う。水無はそういえば大神が自分の名前を呼んでいたな、と思い出し納得した。あんなに大げさに店に入ってきたのだから、カウンターに座る眼鏡男が水無の名前を覚えて当然だ。

 水無は話しかけてきた男に質問をすることにした。

「ええっと、貴方はここによく来るんですか。俺、ここによく通ってるけど貴方のこと見かけたことないんで」

 水無はこの店に通っている常連客とも大神を通じて仲良くなることが多い。大抵の常連客は顔馴染みになっていて頭に入っている。だがこの眼鏡男に関しては記憶にこれっぽっちも残っていなかった。

「休日に来ることが多いんですよ、平日は仕事で忙しいので」

「へぇ、そうなんですね。俺は仕事がある平日にしか来ないんで……だから顔合わせたことなかったのかも」

 二人は丁度入れ違いになっていたようだった。来店する日が違えば顔を合わせることもない。

「そうか、水無は椎名しいなさんと会ったことなかったんだな」

 大神が二人の会話に口を出してきた。水無が店に来た時は忙しかったようだが、店内の客が減ってマスターとしての仕事が落ち着いたらしい。

「椎名さんって?」

 水無は聞き慣れない名前に直ぐに反応した。

「俺の名前ですよ」

 水無の質問に答えたのは大神ではなく、隣に座っていた男だった。この男、椎名と言うらしい。

「ここには半年ぐらい前から毎週通ってます」

「え、そんなに? 結構長いんだ……」

 たとえすれ違いになっていても半年あれば一回くらい顔を合わせていてもいい筈なのに、と水無は思った。いくら水無が通う頻度が平日に多いとはいえ、何回かは休日に訪れている。まるで何かに意図的に避けられているような感覚になった。

「それなら、尚更会わなかったのが不思議だよね」

 水無に、そうですね、と返してくる椎名。こんなに機会があったのにも拘らず、会うことがなかったのは妙なことである。

「おい水無、喋り方砕けてるぞ」

 大神が顔を顰めて言った。

「……あれ?」

「あいつにも言われてただろ、直ぐに馴れ馴れしくするのは止めろって」

 水無はこの時初めて椎名に敬語を使わなくなっていることに気がついた。大神が言った『あいつ』とは水無と一緒に働いていた先輩だった。昔は初対面の人に軽々しく口を聞いては先輩に怒られていたものだ。口すっぱく言われていたから初対面の人に対しての喋り方には気をつけていたのに、昔の癖が出たのだろうか。気を抜いたわけではなかったのにどうしてだろう。

「いいですよ、敬語なんて堅苦しいですし、その方が喋りやすいですから」

 水無は椎名の優しい言葉に素直に謝りたくなった。椎名があまり気にしない性格だったから良かったものの、気難しい人なら機嫌を損ねていたかもしれない。

「すみません」

「いいですって。直さなくていいですからね」

 気にしないでくれ、と笑って許してくれた椎名。水無は彼の言葉に甘えることにした。一度崩れるとどこか親しみを感じて元に戻すのは難しかったからだ。けれど、どこか近づいてはならないという警戒心も芽生えていた。

「じゃあ、お言葉に甘えて」

「はい」

 椎名は満足そうに頷いた。

「ところで、お二人はここで知り合ったんですか?」

 椎名が水無と大神を交互に見た。

「違うよ。元々大神くんは俺がいる会社で働いてたからその時からの知り合い。でも部署は違ったし、この人直ぐ辞めちゃったから顔を知ってる程度だったけどね」

 大神と水無が仲良くなったのは、大神がマスターとして、水無が客としてこの喫茶店で出会ってからだが、それ以前から面識があった。水無が現在働いている会社に入社した頃、大神は水無と同じ会社で働いていた。水無の教育係をしていた先輩と大神は仲が良く、昼休みになると二人で昼食を食べていて、水無が先輩を探しに行くと必ずといってよいほど大神がいた。だから挨拶する程度の間柄ではあった。

 だが、親しく会話する仲になる前に大神が会社を辞めた。先輩も水無の教育係を外され別の部署に異動になり、水無と大神の接点は消えてしまった。喫茶店で再会した時、まさか大神が店を営んでいるなどと思いもしなかった水無は驚愕したものだ。

「縁があったんですね。俺は見つけたい人がいるんですけど、探してもなかなか見つからなくて」

 縁がないんでしょうかね、と椎名が苦笑した。

 人というのはひょっこり現れて突然消えるものだと水無は考えている。大神にしろ、先輩にしろ、椎名にしろ、縁があったから会うことが出来ただけで、無ければ街ですれ違う人々のように居なくなる。全てはタイミングと縁だろう。

 だから自分が会いたい人がいても見つからない時は、それは今じゃない、ということを示しているのではないだろうか。

「見つかる時は見つかるよ、直ぐにね」

「そう願います」

 椎名が残っていた珈琲を飲んでそう言った。だが水無はなんとなく察していた。その探し人は既に見つかっているのでは、と。

 店の外でにゃあ、と猫の鳴き声がした。昔からこの辺りは猫の溜まり場だが、近頃は誰かが餌をやっているようで野良猫が集まって来ていた。

「最近、この辺りを彷徨く猫が増えてきたよね」

 水無は珈琲のお代わりを大神に頼んだ。飲み終えた珈琲のコップを大神が下げ、綺麗なコップに珈琲を注いでいく。

 かたん、と音を立てて目の前に置かれた珈琲に水無は今度は砂糖を入れた。一杯目とは違い、舌から伝わる感じがほんのり甘い。

「そうだな。嫌いじゃないが、数が多いのは困る」

 大神が椎名にお代わりはどうですか、と聞いて、頷いた椎名の為に珈琲をコップに注ぎ込んだ。

 大神は、宛ら猫だと思う。喫茶店で仕事をしている時はきちっとした接客をし、仕事はてきぱきと熟すが、自由気ままでマイペースな部分も多い。自分がしたいことしかしないし、孤高の存在のように感じることもしばしば。そう考える水無も似たようなところはあるのだが。

「猫も餌を貰うのに必死なんですよ。なんせ獲物がいませんからね」

「俺達が小さい頃に比べたら虫とか減ったとは思うね」

 都会に慣れすぎて虫みたいな小さいものまで目を向けなくなったからかもしれないが、やはり目にする機会は少ない。まして鼠なんてものは都会で見ることは殆ど無いものだ。

「猫も頑張ってるってことかな」

「猫なりに、な」




 とっぷり日が暮れた頃、椎名は右手にした腕時計を見た。

「あぁ、もうこんな時間ですか」

 椎名の言葉を聞いて、水無は同じように腕時計を見る仕草をして今日は着けていないことに気づいた。仕方なく鞄からスマートフォンを取り出して時間を見ると、夜の七時を過ぎていた。もうそろそろこの店の閉店時間である。既に周りの客はいなくなっていた。

「今日はこれで失礼しますね。珈琲、美味しかったです」

「ありがとうございます、またいらして下さいね」

 大神が声をかけて頭を下げる。

 すんなりと会計を済ませて席を立った椎名は出入り口の扉の前で一度立ち止まった。そして、振り返る。

「では、また」

 椎名はカウンターの椅子に座ったままの水無の瞳を真っ直ぐ見据えて微笑む。笑っているのに笑っていないその目は、水無にあまり良くない再会が近いことを予感させた。

 からん、と音を鳴らして扉が閉まると水無は無意識に溜息を漏らしていた。

「なんだよ、あの目」

「面白そうな奴だろ?」

 頭を抱える水無を他所に、大神はコップを丁寧に拭きながら他人事のようにこの状況を楽しんでいた。口元が緩んでいる。

 水無はじろりと大神を睨むも、全く動じない。むしろ、より一層機嫌を良くしたように見えた。

「そもそも俺は聞いてないんだけど」

「何が?」

 分かってて聞いてくるところが腹立たしい。

「刑事がここに来てるとか聞いてない」

 水無は鞄から書類が入ったファイルを取り出してカウンターに投げた。そこには先ほどの眼鏡男の写真が載っていたが、名前は『椎名』ではなかった。嘘つき眼鏡男の肩書きは警視庁の刑事である。

「言ってないからな」

 全く悪気がない大神に水無は何が『言ってないからな』だ、と内心ぼやいた。散々、この刑事について調べさせておいて自分は何も言わず、謝りもしない。下手をすれば二人とも豚箱行きだというのに。

 それでも水無が大神を責めないのは、大神が楽しいことを考えていると分かっているからだった。結局、水無も好奇心には勝てないのだ。いつだって大神がすることは自分を楽しませてくれたから。

 大神が着けていた業務用エプロンを外した。

「さて、と。ここから逃げるぞ」

「はいはい。……なんで急に?」

 思わず頷いてしまったものの、逃げると初めて聞いた水無は首を傾げる。

「なんでって、お前が完全にロックオンされたからだろ」

「え、俺?」

 確かに刑事がここに来たということはそれなりに疑われているからなのだろうが、一度しか会っていない自分よりも大神の方が疑われているのではないか、と水無は考えた。椎名と名乗った眼鏡男は頻繁にここに通っていたようだし、自分よりも明らかに大神がロックオンされていると。

 だが大神は違うと言う。

「椎名がここに通っていたのはお前が通ってたからだ。会わないようにしてたのは周りから情報を聞き出すため。まぁ、俺のことも疑ってるみたいだけどな」

「え、俺のこと聞き回ってたの、あの人」

「おう。それが今日接触したってことはどういうことか分かるよな」

 分かりたくないが分かってしまった。次に会ってしまえば、否応なしに逮捕されてしまうだろう。今日帰ったのはそれだけの余裕があるからだ。

 眼鏡男のあの目、只者じゃなかった。冷たいあの目は、むしろあいつが犯罪者じゃないかと思うくらいで。思い出すと寒気がした。

「逃げよう、さっさと」

「その方が賢明だな」

 大神は外に行って扉の喫茶店の営業中の札をひっくり返した。中に戻るとファイルを手に取り自分の鞄に入れる。水無も自分の鞄を持って奥に進む大神の後をついて行った。

 水無はもう一度、眼鏡男と会うことになるだろうと思った。それは別に捕まると言うわけではない。今までだってこういう状況は潜り抜けてきた。捕まる気など毛頭ない。

 水無があの男に会うと思ったのは眼鏡男が大神に気に入られてしまったからだった。大神が眼鏡男を自分と同じように仲間に引き入れるのか、それとも彼を翻弄して遊ぶのか、それは分からない。だが、大神は自分の悦楽の為に彼と接触を図るだろう。そして厄介なことに、その再会に心を躍らせる自分がいる。本当に人の心は面倒なものだ。好奇心には勝てない。

 水無はそう遠くない眼鏡男との再会を想像して、口角を上げた。

 彼らはこの先どうなるのか。それを知るのは彼らのみである。

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