命の価値。


 脳外ローテ初日で行ったオペから数日が経つと、容体が安定した川原さんは外科病棟に移った。


 脳が腫れていた藤岡さんは、脳の状態が落ち着くのを待ち、冷凍保存していた頭蓋骨の一部を元に戻すオペを行ってから、脳外の病棟へ。


 手術の一部始終を見届けた藤岡さんの担当医は、


 「研修医、お願いね」


 と言う木南先生の指令の元、俺が受け持つ事になった。


 藤岡さんのオペは成功だった。


 成功だったけれど、藤岡さんは全身に麻痺が出た為に歩行困難になり、左目の視力が極端に落ちた。


 21歳の女性には受け入れ難い現実。


 今日もナースコールが鳴る。藤岡さんの病室からだ。藤岡さんのお母さんによるSOS。


 「…藤岡さんかぁ」


 桃井さんが渋い顔をしながら、先日暴れた藤岡さんを取り押さえようとして痛めた左肘を擦った。


 「私も行きます」


 桃井さんをひとりで藤岡さんの病室に行かせるのが心配なのもあるが、担当医としてこの状態をどうにかしなければならないと、桃井さんと一緒に藤岡さんの病室へ向かった。


 藤岡さんの病室のドアを開けると、


 「やめなさい!! 落ち着いて!!」


 藤岡さんのお母さんが、懸命に藤岡さんを押さえつけようとしていた。


 震える全身で、お母さんを振り払おうとしている藤岡さん。


 そこに桃井さんが加勢し、藤岡さんのお母さんと一緒に藤岡さんをベッドに寝かせようとした。


 そんな桃井さんの頬に、暴れ続ける藤岡さんの手が当たり、『パシン』という乾いた音が鳴った。


 「痛…」


 「大丈夫ですか!? 桃井さんは少し離れていてください」


 頬に手を当て擦る桃井さんを藤岡さんから引き剥がすと、


 「…何してんの?」


 低い声を出し、急に動きを止めた藤岡さんが俺を睨みつけた。


 「え?」


 藤岡さんの質問の意図が分からなかった。だって、俺はまだ何もしていない。


 「…ねぇ先生。私はこれから恋愛出来るかな。結婚出来るかな。私を好きになってくれる人なんか現れるのかな」


 俺を睨み続ける藤井さんの目に涙が溜まる。


 「…出来るよ、きっと」


 気休めなど言ってはいけないと分かっているのに、ネガティブな事を言うのはもっと違うと思い、何の根拠もない答えを口にしてしまった。


 「…何それ」


 だから当然藤岡さんの怒りを買ってしまう。


 「先生、この看護師さんの事が好きなんでしょ。よく私に自分の恋愛見せつけられるよね!? どういう神経してるんだよ!! ふざけんなよ!! 出て行け!!」


 そう叫びながら大粒の涙を流した藤岡さんが、震えながら枕を掴み、それを俺たちの方へ投げた。


 当然届かないし、方向も違うところへ落ちた枕。


 「わぁぁぁああああ」


 そのもどかしさ、悔しさに、藤岡さんが泣き崩れた。


 枕を拾い、藤岡さんに近寄ると、


 「こっちに来るな!! ご立派な仕事をしながら恋愛楽しんで、人生味わいつくしている先生に、私の気持ちなんか分からないでしょう? ていうか、医者なら私に後遺症が出る事くらい分かってたはずだよね!? どうして助けたの!? 私、助けてなんて一言も言ってないよね!? ねぇ、何で!? こうなるって分かっていて、それでも生きたい人間なんているの!? 何で死なせてくれなかったの!? ねぇ、先生!!」


 藤岡さんが俺を拒絶しながら、俺に質問を投げかけた。


 藤岡さんの問いかけの答えはいずれも、『ご家族の同意の上』だから。


 けれど、藤岡さんを慮るとそんな事を言えるはずもなかった。


 「……」


 何を言えば良いのか分からず言葉を失っていると、背後で病室のドアをノックする音が聞こえた。


 「藤岡さん、興奮すると頭が痛くなっちゃいますよ」


 そう言ってそっとドアを開け、中に入ってきたのは早瀬先生だった。


 早瀬先生の顔を見た途端に、藤岡さんは震える右手の手の甲で鼻を擦り、涙と一緒に流れ出てしまっていた鼻水を拭き取った。


 早瀬先生は男の俺から見てもカッコイイ。


 そんな人に、ちょっとでも自分を良く見せようとする藤岡さんの女心と、『私はこれから恋愛出来るの?』という不安を思うとあまりに苦しくて、喉の奥がきゅうっと締まり、ますます言葉を発せない。


 「さっき、柴田先生にしていた質問、廊下まで聞こえてきていたので、私が答えても良いですか?」


 答えに窮して喋れもしない俺を知ってか知らずか、早瀬先生が藤岡さんの問いへの返事を買って出た。


 「……」


 無言で早瀬先生を見つめる藤岡さん。


 「藤岡さんの命を助けたのは、藤岡さんのご家族と病院スタッフ共に『藤岡さんに生きて欲しい』と願ったからです。そこに藤岡さん自身の意思はない。私たちのエゴで助けました。

 確かに私たちは、藤岡さんに麻痺が残ってしまう事を知っていました。それを藤岡さんのご両親に伝えた時『娘を元の身体に戻して欲しい』とお願いされました。それは難しい旨を説明すると、『それでも助けて欲しい』と言われたので手術をしました。藤岡さんの命は、それほど大切なものなんです。後遺症が残っても、命の価値は下がらない」


 「…『命の価値は下がらない』。…綺麗事。反吐が出る。命の価値なんて確実に下がっているじゃないですか!! 外に出ればみんな私を変な目で見るに決まっている。『あぁはなりたくないね』って嗤われるか、『可哀想な人』って哀れまれるんだよ。そんな現実の中で生きていかなきゃいけないなんてそんなの…」


 早撰先生の言葉に藤岡さんは嫌悪感を示し、また涙を零した。


 「そんな風に他人を蔑む様な人間になんて、どう思われても良いじゃないですか。藤岡さんの生活は、今までとは違ってきます。出来ていた事が難しくなったりしますから、辛い思いをする事もあるでしょう。それで心を痛めたとしても、さもしい人たちの心無い言葉や視線なんかで傷つかないでください。そんな心の傷には意味がありません。なぜなら、藤岡さんは悪くないから。相手に100%の非があるからです。

 私たちは、私たちのエゴで藤岡さんの命を救いました。ですから、最大限の治療とサポートをします。

 もう一度言っておきます。藤岡さんの命の価値は下がりません」


 それでも早瀬先生は持論を話し続ける。


 「…命の価値とか、そんなのどうでもいい。元の身体に戻りたい。

 ただ、歩いていただけなのに。何も悪い事なんてしていないのに。どうしてこんな目に遭わなければいけないの?」


 藤岡さんも涙を流し続けた。


 「残念ですが、元の身体に戻す事は出来ません。

 事故に遭ってしまった事は、災難だったと思います。今、藤岡さんはそうは思えないと思いますが、藤岡さんのご家族や私たちは、藤岡さんの命が助かった事は幸運だったと思っています。

 藤岡さんが今まで見てきた現実は、厳しいものに映っていたかもしれません。ただ、藤岡さんさんはまだ21年しか見ていない。現実は確かに甘くないです。それは間違いないです。でも、世間はたまに優しいです。藤岡さんに世の中の優しい部分を知って欲しい。折角生きているのですから」


 早瀬先生が、藤岡さんを宥める様に、諭す様に言葉を紡いだ。


 「…その世間とやらは、私を轢いた人間にも優しかったりするの? そいつは今どこにいるの? この病院にいるの? 怪我もなくピンピンしていたりしないよね? もしそうだとしたら、私と同じ目に遭わせて来て、お母さん!!」


 しかし、早瀬先生の言葉は藤岡さんの心に響く事はなく、藤岡さんは恨みと憎悪を母親にぶつけた。


 「私だって許せない。そうしてやりたい。だけど私が犯罪者になってしまったら、あなたを支えられないじゃない」


 娘の憤りをどうしてあげる事も出来ない藤岡さんのお母さんもまた、同じ憎しみのやり場がなく、悔し涙を滲ませた。


 「誰かの支えがないと生きていけないなんて…。もういいよ。私、生きなくていいよ。私の命の価値を誰がどう思っていても関係ない。ねぇ、お母さん。ねぇ、先生。私の事、殺してよ。身体がいう事利かなくて、自分で死ぬ事さえ出来ないの。もう嫌なの。生きていたくないの。お願い、殺して。お願いだから…」


 さっきまで周囲の人間を睨みつけていた藤岡さんの目が、絶望を口にした途端に生気を失った。


 生きる希望を失くした患者さんに、医者は何を言えば良いのだろう。


 色々思考を巡らせても、答え出てくる気配がない。


 「殺しません。絶対にそんな事しません。

 藤岡さん。藤岡さんに会ってみて欲しい人たちがいるので、今度連れて来ても良いでしょうか? 藤岡さんがこれから生きていく上で、少しでも生きやすい方法を教えてくれる人たちです。1度でいいです。会ってみて、もう2度と会いたくないと思ったら、会わなくていいですから」


 答えを見つけられない俺とは逆に、早瀬先生の言葉は途切れない。


 「こんな姿で誰かに会いたいわけないでしょう!?」


 叫びながら言い返す藤岡さんに、


 「藤岡さんの姿を馬鹿にする様な人間を連れてくるはずがないでしょう!?」


 早瀬先生が大声で被せた。


 「……」


 さっきまで穏やかだった早瀬先生の大きな声に、藤岡さんが目を丸くして驚いた。


 桃井さんもビックリした顔をしていたから、早瀬先生は滅多に声を荒げる事などない人なのだろう。


 「すみません。うるさくしてしまって。とにかく1度会ってみましょうよ。会う前に判断するのは時期尚早です」


 早瀬先生は、周囲の驚きなど気に留めず、何事も無かったかの様にまた話し出した。


 「……」


 藤岡さんは『はい』とも『いいえ』との言わず、少し考える仕草をした後、俺らに背を向けて布団を被った。


 「疲れさせてしまいましたね。申し訳ありませんでした。また来ますね。ゆっくり休んでください」


 そう言うと、早瀬先生は藤岡さんのお母さんに会釈をし、俺と桃井さんの背中を軽く押すと、病室を出る様に促した。


 早瀬先生に誘導されるまま藤岡さんの病室を出る。


 「早瀬先生、すみませんでした。私が担当なのに何も出来なくて…。ありがとうございました」


 藤岡さんの病室を少し離れた所で早瀬先生に頭を下げる。


 「こちらこそ、外科のくせにしゃしゃり出てきてすみません。藤岡さんは自分がオペした患者さんなので、最後まで診させて頂けるとありがたいです」


 早瀬先生は俺に『頭なんか下げないでください』と言いながら、俺に両手を合わせて申し訳なさそうな顔をすると、『もう戻らないといけないので失礼しますね』と外科に戻るべく、身体を翻した。


 「あの、早瀬先生!! お、お疲れ様です!!」


 そんな早瀬先生の足を、桃井さんが名残惜しそうに、間違ってはいないが流れ的におかしな挨拶を無理矢理挟んで止めた。


 「お疲れ様です、桃井さん。お仕事頑張ってくださいね」


 桃井さんに若干戸惑いながらも、優しい早瀬先生は笑顔で返事をした。


 「はい!! 早瀬先生も」


 頬を赤らめて頷く桃井さんに微笑み返すと、早瀬先生は今度こそ外科に戻って行った。


 早瀬先生の後姿を暫く見つめる桃井さん。


 『見てればすぐ分かるから』


 木南先生の言葉を思い出す。


 確かに見ていたらすぐに分かった。桃井さんは分かり易過ぎる。


 桃井さんの好きな人は、早瀬先生だ。


 そりゃあ、木南先生が面白がって笑うはずだ。


 俺が早瀬先生に勝っているところなど、1つも見つからない。


 ガックリ肩を落とす俺に、


 「早瀬先生は外科なのに藤岡さんを診に来てくれるのに、木南先生は1度も来ない」


 桃井さんが不満を漏らしながら、ナースステーションに向かって歩き出した。


 「担当医は俺だから」


 俺はナースステーションには用はないが、桃井さんの話を聞くべく、何となく一緒に歩いた。


 「柴田先生のオーベンは木南先生でしょ。無責任だと思う。藤岡さんのオペだって早瀬先生にやらせたんでしょ? やりたい放題じゃん」


 桃井さんは、藤岡さんの診察に一切関与してこない木南先生に腹を立てているようだ。


 「それは、木南先生が別なオペをしてしまったから…」


 「腸管破裂のオペでしょ? それは救命の先生でも出来るオペじゃないですか。それを、自分の技術をひけらかしたいからって勝手にやって、硬膜下血腫のオペを外科の先生にやらせるなんて…」


 木南先生への怒り爆発の桃井さんの言葉は、刺々しさを帯びていた。


 「…まぁ、そうですよね。ていうか、何で早瀬先生はあんなに見事な硬膜下血腫のオペが出来るんですか? 外科なのに」


 木南先生を庇う義理もないし、桃井さんをこれ以上不機嫌にもしたくない為、話を変えてみると、


 「早瀬先生は元々脳外にいたから。有能で人望も厚くて、脳外のドクターやナース全員から信頼されていたドクターだったのに、木南先生が追い出した」


 桃井さんから予想だにしない言葉が返ってきてしまい、話がとんでもない方向へ。


 「え!? それってどういう事!?」


 詳細が気になり、深く話を掘り下げようとした時、


 「桃井さーん、ちょっと手伝ってー」


 ナースステーションに辿り着いてしまい、桃井さんが他の看護師さんに呼ばれてしまった。


 「はーい」


 謎を残したまま同僚の元へ行ってしまう桃井さん。


 えぇー。こんなのアリかよ。モヤモヤして気持ちが悪い。


 でも、だからか。吉田先生が木南先生の口から早瀬先生の名前を聞いた時に微妙な反応をしたのは。木南先生と早瀬先生がギクシャクしていたのは。


 興味と好奇心を抱き、『なんでそんな事になったのだろう。もしかして…』などと頭の中で仮定の物語を作り上げながら医局へ向かう。


 結局俺の頭では昼ドラの様な笑える愛憎劇しか浮かばないまま、医局のドアを開けると、俺の脳内では『想いを寄せていた早瀬先生が、若くて可愛い桃井さんに心を奪われた事に怒り狂った』木南先生が自分のデスクで、午後からオペをする患者さんのCTを再確認していた。


 「脳腫瘍ですか」


 俺の脚本上、残念な女・木南先生に話し掛ける。


 「そう。この患者さんね、投薬が上手く行った人なの。だから綺麗に取り除ける」


 しかし、実際の木南先生はそんなヒステリックな人間ではなく、完璧にオペが出来そうなCT画像を見ながら嬉しそうにしていた。


 「ところで研修医、藤岡さんの様子はどう?」


 木南先生は、藤岡さんの診察はせずとも、気にはしてくれている。


 「柴田です。今日も大騒ぎでしたよ。桃井さん、ほっぺた叩かれてましたし」


 なので、しっかり報告。


 「そこで『桃井さんに何て事するんだよ!!』とか言って桃ちゃんの壁になりながら守ったりなんかしたら、桃ちゃんの気持ちも0.1ミリくらいは研修医に傾いたりするんじゃない?」


 完全に俺の恋心を面白がっている木南先生が、古臭い少女マンガの展開を提案しながら笑った。


 「似た様な事はしましたよ。桃井さんを藤岡さんから少し遠ざけたら『私は恋愛も結婚も出来ないかもしれないのに、お前の恋愛見せつけるな!!』って藤岡さんに激怒されました」


 「藤岡さんの怒りは正しいわ。研修医の恋愛の為に自分を悪者にされて道具にされたら、たまったもんじゃないわ」


 「イヤイヤイヤ、さっきと言っている事が違うじゃないですか」


 コロッと意見を変えた木南先生にすかさず突っ込むと、


 「前者が間違い。後者が正解。誰にだって間違いはある。ただ、私は研修医と違ってすぐに間違いに気付くし、イレウスも見落とさない」


 木南先生は、過去の俺の失敗をディスりながら開き直った。


 「で? そんな藤岡さんをどうやって宥めたの?」


 木南先生が、俺の対応の良し悪しを判断すべく、頬杖をつきながら俺に尋ねた。


 「早瀬先生が来てその場を収めてくれました」


 「カッコ悪!!」


 昔のコントの様に、デスクについていた肘をわざとらしく滑らせ、『ガク』っと頬杖を崩してみせる木南先生。


 「木南先生が来てくれたら良かったんですよ!! オーベンなんですから!!」


 桃井さんの言葉をそのまま木南先生にぶつけると、


 「午前が診察で午後からオペの私が、どうやって行けっていうのよ。それくらい自分でなんとかしなさいよ」


 木南先生に、呆れながら白けた視線を向けられた。


 「…だって、気付いてしまったじゃないですか。桃井さんの好きな人」


 俺も違った意味で白ける。だって、ライバルが悪すぎる。


 「あはは。気付きましたか。なかなかの強敵でしょ」


 『どんまーい』と言いながら俺の肩を叩く木南先生は、明らかに劣勢の俺の事が面白くて仕方がないらしい。


 「木南先生は…」


 『木南先生は、どうして早瀬先生を脳外から追い出したんですか?』


 訊きかけて、やめた。


 今のところ、木南先生とは上手くやって行けている。聞いてはいけない事だったとしたら、この関係は崩れてしまう。知りたい気持ちは大きいが、仕事のやり易さ、医師としての成長の方が遥かに大事。馬鹿にされながらでも、木南先生の元で色々教わりたい。木南先生は、早瀬先生ほどの人情はないが、腕は確かである事を俺はこの目で見ているから。


 「何?」


 木南先生が、話し掛けてやめた俺の顔を覗き込んだ。


 「もうお昼の時間ですよ。木南先生はご飯食べに行かないんですか?」


 だから、壁掛け時計を指さしながら咄嗟に質問を変える。


 「私、満腹になると脳が冴えないの」


 木南先生は、今日も昼食を抜くらしい。


 「とか言って、ダイエットしてるんじゃないですか? 女子っスね」


 「うるさいわ。ちょっと午後からのオペに集中したいからどっか行って、研修医。大盛りの社食でも食べてブクブク太れ」


 俺にからかわれてイラついた木南先生が、『シッシッ』と右手を振りながら俺を追い払った。


 「柴田です。じゃあ、ガツガツ食べてきますよ。俺は木南先生と違っていくら食べても太らない体質なので」


 『ふふーん』と鼻を鳴らせながらモデルポーズを決めて見せると、


 「うっざ」


 と言いつつ木南先生が吹き出した。


 「ちゃちゃっと食べて戻ってくるので、午後からのオペ見学させてください。俺、午後から手が空いているので」


 木南先生のオペに入る予定はなかったが、どうしても見たくてお願いすると、


 「はいはい。勉強熱心なのは良い事ですね」


 木南先生は快く受け入れてくれた。


 木南先生が早瀬先生を脳外から追放した理由は分からないが、俺にはどうしても、そこに木南先生の悪意があったとは思えない。


 木南先生のオペを手伝わせてもらったり、診察をしたり、溜まった書類を整理したりして、木南先生と早瀬先生の関係を知る事もないまま数日が過ぎた。


 相変わらず、藤岡さんとの接し方は手探り状態。


 藤岡さんの術後の治療は良好。しかし、生きる気力を無くした彼女にリハビリの話を切り出しても、聞き入れてもらえないどころか、怒らせて泣かれてしまう。


 事故によって大きく人生を変えられてしまった藤岡さん。簡単に前向きになれない事は当然。怒りが収まらないのも、悲しみが深いのも当たり前の事。


 分かってはいる。死をも意識した人間の気持ちを簡単に前向きになど出来るはずがない事も。


 だからと言って、このまま時間を掛けて藤岡さんの気持ちが落ち着くのを待つのが得策なのかは疑問。


 だって、もし俺が藤岡さんの立場だったとしたら、自分の置かれた現状に納得する日などやってくるのだろうか。


 どうしたもんかなぁ。と藤岡さんの病室の前で、中に入るのを少し躊躇っていると、


 「柴田先生、入らないんですか?」


 背後で名前を呼ばれた。声の方へ顔を向けると、早瀬先生と車椅子の男性がいた。


 「あ、お疲れ様です。早瀬先生。…あ、藤岡さんのお見舞いですか?」


 早瀬先生に挨拶をすると、車椅子の男性に話掛けた。


 「あ、こちらは先日私が『藤岡さんに会って欲しい人がいる』と言っていた…『THBOの関屋です。はじめまして』


 早瀬先生が紹介する前に、にこやかに自己紹介をしてくれた車椅子の男性。…が、


 「THBO?」


 聞いたこともない、社名なのか何かの団体なのかも分からない、そのアルファベット4文字に首を傾げる。


 「あ、サークルの名前です。関屋くんはTHBOの代表なんです。本当はもう2、3人連れて来ようかと思ったのですが、知らない人間が大勢で押しかけるのもどうかと思いまして、今日は一番面倒見の良い関屋くんに来てもらいました」


 早瀬先生が、俺のTHBOの正体を説明しながら関屋くんに『来てくれてありがとうね』と笑顔を向けると、『お安いご用です』と関屋くんが笑い返した。


 早瀬先生と関屋くんは、どんな話をする為に藤岡さんに会いに来たのだろう。


 「さて、行きましょうか」


 早瀬先生が関屋くんの肩に手を置くと、


 「行きましょう!!」


 関屋くんが笑顔で頷いた。関屋くんがあまりにも朗らかだから、『早瀬先生は藤岡さんの精神状態を関屋くんに話していないのではないか?』と不安になった。


 そんな俺を余所に、早瀬先生が藤岡さんの病室のドアをノックした。


 「こんにちは、藤岡さん。気分はどうですか?」


 ドアを少しだけスライドさせ、とりあえず自分の顔だけをドアの隙間から出す早瀬先生。


 「……」


 藤岡さんは返事をしてくれない。


 「今日は、この前話した『会って欲しい人』を連れて来ました」


 そう言いながらドアを大きく開くと、早瀬先生は関屋くんに中に入る様に促した。


 「会いたくない!! 誰にも会いたくない!! 帰って!!」


 関屋くんの姿を見た瞬間に、藤岡さんは布団を被り拒絶した。


 それでも関屋くんは笑顔を崩すことなく藤岡さんのベッドの近くに車椅子を動かした。


 「THBOの関屋です。はじめまして」


 顔の見えない藤岡さんに、先ほどと全く変わらない自己紹介をする細川くん。


 「……」


 藤岡さんは無反応だった。そりゃそうだ。早瀬先生も関屋くんも当たり前の様に『THBO』と言うけれど、その存在を知っている人は限りなく少ない事に気付いて欲しい。


 「『THBO』というのはサークルの名前で、今日は藤岡さんを勧誘に来ました。俺は事故で脊髄を損傷して車椅子の生活になりました。THBOは、怪我だったり病気だったりで、健常者と同じ生活をするのが難しい人間が集まるサークルです」


 関屋くんがやっとTHBOの概要を話すと、


 「…障がい者は障がい者同士で仲よくやれよって事?」


 藤岡さんは顔を出すことはなかったが、布団の中で反応を示した。


 「俺もTHBOに誘われた時、そう思いました。『お前はもう健常者じゃないんだから』って一般社会から締め出しを喰らった気分になって、物凄く腹が立ちました。『障がい者同士で仲よく』なんて、今はする気になれないとは思います。なんで自分が障がい者と…って思ってますよね、きっと。でもね、障がいの度合いや種類が違えど、同じ様な境遇の人間が知り合いにいるって、少し気持ちが楽になりますよ」


 関屋くんが藤岡さんの気持ちを汲み取りながら話を続ける。


 「……」


 藤岡さんは、反論せずに関屋くんの話に耳を傾けた。自分と同じ様に、事故に遭い車椅子の生活になった関屋くんの言葉は、俺や早瀬先生の話よりも受け入れ易いのだろう。


 「世の中にはさ、障がい者に冷たい人っているでしょう? 例えば俺なんて、バスに乗ろうとすれば運転手さんの手を借りなければいけないから、出発時間が遅れちゃったりする事があるのね。そうすると、急いでいる人なんかからは物凄い嫌な目で見られたりとかしょっちゅうあるのね。超ムカツクから、そんな時はTHBOの仲間にめちゃめちゃ愚痴ってみんなで文句言い合うのね。『バチ当たれ!! ばーか!!』的な」


 「……」


 関屋くんの話を聞いていた藤岡さんが、黙ったままではいるが、布団から顔を出した。


 「藤岡さんは今入院中だから、看護師さんや家族の方に色々と介助してもらいながら生活しているんだと思うんだけど、それって結構劣等感があるじゃない? 健常者からの介助や親切って有り難いけど、『障がいがある私に親切心振りまいて悦に浸ってるんじゃないの?』とか思って卑屈になったりしない? 俺はなったんだけどね」


 「…私もです」


 関屋くんの質問に、藤岡さんがポツリと答えた。


 「だよね。だって俺、ボランティアとかする人って尊敬するけど、心の中で『可哀想な人に手を差し伸べる自分、素敵!!』って自分に酔ってる部分がちょっとはあるって思ってるもん。まぁ、ボランティアって大変な事だから、そう思うくらい別に良いと思うけどね。やらないヤツの100億倍は素晴らしい人間だと思うし。…って、話が逸れちゃいましたね。つまり、何が言いたいかというと、健常者からの気遣いや手助けは有り難いし絶対に必要なんだけど、それによってこっちが心が傷つく事がある。その事実を健常者側に伝えても、親切心を否定されて良い気はしないだろし、『じゃあ、もう手なんか貸さない』って言われたらうちらも困るし、優しい心を持つ健常者も『困っている人に手を貸さない自分』になるのは心が痛んで出来ないと思うんだ。

 『健常者と障がい者が手と手を取り合う』事が理想的。でも、どうしても交われない部分が、どうしたってあると思うんだ。でも、障がい者同士だったら共感し合える」


 「……」


 関屋くんの目を見つめていた藤岡さんの目から涙が零れた。


 「THBOってね、物凄く便利なんだよ。『自分はこういう障がいがあるからあれが出来ない』とか相談すると、仲間が『それはこうすれば出来るよ』ってアドバイスをくれたり、『役所の福祉課にこういう制度があるから相談すると良いよ』とか、生活に役立つ事を教えてくれたりするんだよ。

 障がいを持つ者の集まりだからさ、みんなそれなりに困難にぶち当たって色んな体験をしてきた人たちだからさ、結構豊富な知恵を持っていたりするんだよね。THBOに持ち寄られた知恵を吸収するとね、『アレ? 自分、意外と色々出来るじゃん』ってちょっと楽しくなるよ。

 それに、みんな辛い時期を超えてきた人たちだから、頼もしくて心強い。藤岡さんの今の苦しい気持ちも理解できる人間しかいないから、関わる事で少しは緩和するかもしれないよ。

 とは言えども、人付き合いが苦手な人間もいるし、重度の障害を持っている人もいるから、全員が全員会合に集まる事はないんだよ。でも、交流はしていたいって人の為にHPもあって、そこに掲示板とかもあるから、参加するのに迷っている様なら、そこから始めるのもアリです。

 もちろん強制参加ではありません。嫌なら気にせず断ってください。…と、言いつつも、俺は藤岡さんにTHBOに入って欲しいなって思っています。

 心の傷は、同情されると深まるけれど、共感されれば慰めになります。

 障がいを持ったことで、周りの手助けを必要とする生活になったとしても、俺らは役立たずなんかじゃない。

 藤岡さんの今の苦しみは、今後誰かの心を慰めます」


 関屋くんが『藤岡さんはひとりじゃないよ』と微笑みかけると、藤岡さんは肩を震わせながら嗚咽した。


 「泣かせてしまってごめんね。今日中に入会を決めろなんて横暴な事はしませんから。ゆっくり考えてみてください。気が向いた時に連絡なり、HPにコメントなりください。本当に気が向いた時でいいですから。気が向かなかったら無理しなくて大丈夫ですから。俺なんかに気を遣う必要は全くありません。実際、全然気が向かなくて、勧誘してから3年後とかに連絡してきたヤツとかもいるので」


 『これ、ここに置いておきますね』と関屋くんは、自分の連絡先とTHBOのHPのURLが書かれた紙を、藤岡さんのベッドの横の棚に置いた。


 「今日は俺の話を聞いてくれてありがとうございました。俺は、藤岡さんと友達になりたいです。今日は自分ばかりが喋ってしまったから、今度は藤岡さんの話が聞きたいです…っていう、最後の最後までTHBOに入って欲しい念を押しつつ、今日のところはお暇します。おじゃましました」


 関屋くんは、『うっかり出し忘れてましたけれど、お見舞いとしてシュークリームを持ってきたのに渡していませんでした。じゃあ、またね』と舌を出しながらおどけると、シュークリームが入った箱を藤岡さんのベッドのスライド式の机に置き、藤岡さんに手を振った。


 「……」


 藤岡さんは何も言わなかったけれど、関屋くんに向かって『ペコ』っと少しだけ頭を垂れた。


 早瀬先生や俺には見せなかった藤岡さんの態度に驚き、何だか泣きそうになった。藤岡さんの心が、少しでも動いてくれた様な気がしたから。


 「お邪魔しました」


 そして、3人で藤岡さんの病室を出た。


 「じゃあ、俺はこれで失礼しますね」


 関屋くんが早瀬先生と俺に軽く会釈をしながらエレベーターの方へ車椅子の向きを変えた。


 「忙しいところ時間作ってくれてありがとうね、関屋くん」


 関屋くんにお礼を言う早瀬先生に続き、


 「本当にありがとうございました。藤岡さんの担当医だというのに、私は何も出来なかった。どうすれば、何をすれば良いのかも分かりませんでした。関屋くんの話を聞いて、色々気付かされました。ありがとうございました」


 俺も感謝の気持ちを伝えながら、勢い良く頭を下げた。


 「やめてくださいよ。たいした事なんかしていないじゃないですか。それに、俺が昔にしてもらった事をやっただけですから。先生たち、仕事忙しいんじゃないんですか? もう戻ってくださいよ。俺も帰りますから」


 関屋くんは、『頭上げてくださいよ。過剰に感謝されると居心地悪いわー』と俺に顔を上げる様に促すと、困った笑顔を浮かべながらエレベーターに乗り込んで行った。


 関屋くんを見送ると、


 「早瀬先生、ありがとうございました」


 今度は早瀬先生に頭を下げる。


 「私は何もしてないよ」


 『何のお礼?』と言いながら、早瀬先生が『下げなくて良い頭は上げておいて』と俺の上半身を起こさせた。


 「関屋くんを連れて来てくれたじゃないですか。それに、科が違うのにいつも藤岡さんを診に来てくださるし。それに比べて木南先生は…」


 関屋くんの優しさや早瀬先生の情味の在り方に触れると、その点ではドライな木南先生のやり方を『何だかなぁ』と眉間に皺を寄せてしまう。俺は、患者さんの気持ちに寄り添いながら治療をする早瀬先生の様な医師が、医者としての正しい姿だと思うから。俺の父親がそうだったから。顔見知りの患者が多いクリニックで、患者ひとりひとりに親身になっている父親見て育ったから。


 「木南先生には、物理的に無理なんだよ。木南先生って、本当に優秀な医者でしょう? ネットで脳外科医を検索するとすぐに木南先生の名前がヒットする。だから、全国から、海外からも木南先生を頼ってやってくる患者さんがいる。木南先生の年間オペ数がどのくらいか知ってる? 市中レベルの数をこなしてしるんだよ。なのに、研究もする。手術の質や医学は、木南先生の様な医者がいなければ向上も進歩もしないんだよ。

 それに木南先生、この前言ってたじゃない。『出来る人がやればいい』って。医者は人の命を預かる仕事でしょう? 出来ない人間には絶対にやらせない。木南先生は無責任なわけでも冷酷なわけでもなくて、柴田先生や桃井さんたちナースの事を信頼して任せているんだと思うよ」


 『木南先生と違って、私には時間があっただけ』と早瀬先生が情けない顔をしながら笑った。


 「それに、木南先生は私なんかより患者さんの事を深く考えている人だよ」


 「どういう事ですか?」


 『研修医やナースを信頼して任せている』と言った傍から矛盾している事を言う早瀬先生に首を捻る。


 「THBOを作ったの、木南先生なんだよ。『手術でも薬でも癒えない傷があるのなら、舐め合ったって馴れ合ったっていいと思う。それが慰めになるのなら。心の支えになるのなら』って」


 「…木南先生が。…あの、THBOってどういう意味なんですか?」


 実はちゃんと患者さんの事を想っていた木南先生に、ちょっとした驚きとそれを自ら言わないカッコ良さを感つつも、そもそも意味の分からない『THBO』が、やはり気になる。


 「サークル名、木南先生が付けたんだけどね。『Two heads are better than one』の略らしいよ。『助け合い』とかそっち系の名前にしないのが木南先生らしいよね」


 『ふふふ』と早瀬先生が目尻を下げた。


 早瀬先生は、木南先生によって脳外を追い出されたというのに、どうして木南先生の話をしながら笑えるのだろう。


 「…なんでそんなに楽しそうに木南先生の話が出来るんですか? 早瀬先生、元々は脳外にいたって聞きました。外科に転科したのは、木南先生が関係しているからなんですよね? 木南先生に腹が立たないんですか?」


 疑問をそのまま投げかけると、早瀬先生はフッとさっきまでの笑顔を消した。


 「…腹なんて立つわけがない。立てる資格がない。私は、木南先生の事を尊敬しています。昔から今でも変わらず、彼女は私の憧れです」


 早瀬先生は、悲しそうとも悔しそうにも見える、何とも形容し難い表情をしながら、視線を床に落とした。


 「…木南先生と、何かあったんですか?」


 突っ込んだ事を訪ねるのは良くない様な気がしたが、『別に何もないよ』などと適当にはぐらかす事も出来た俺の質問に誠実に答えてしまった早瀬先生に、『へぇー、そうだったんですねー』なんて気のない返事をして流す事が、何となく出来なかった。


 「…それは、この病院で働いている殆どの人間が知っている事だから、気になるなら誰かに聞いて。敢えて聞かなくても自然に耳にするとは思うけどね。…自分の口からはちょっと…言いたくないんだ。ごめんね」


 早瀬先生は『もうこれ以上は話したくない』とばかりに『お疲れ様です』という言葉を置いて、外科の方へ歩いて行った。


 早瀬先生があんな顔をするのだから、本当は知られたくない話なのだろう事は分かっているのに、何て俺はいやらしい人間なのだろう。


 下世話な好奇心が、俺の足をナースステーションに向かわせた。


 カウンター越しにナースステーションの中を見回すが、目当ての人が見つからない。


 「あの、桃井さんは?」


 近くにいた看護師さんに桃井さんの居場所を尋ねる。


 「さっき休憩に入りましたよ。社食にいるんじゃないかな。緊急なら呼び出しましょうか?」


 ポケットから携帯を取り出そうとした看護師さんに、


 「大丈夫です!! 私用です!!」


 『違う違う』と両手を振りながら携帯をしまう様にジェスチャー。


 「私用?」


 看護師さんが呆れた笑顔で俺の顔を覗いた。おそらく、俺が桃井さんをデートのお誘いにでも行くと思っているのだろう。


 俺が桃井さんに気があるのは間違いないが、研修医の分際で仕事中に色恋沙汰を持ち出すほどアホではない。


 「私用ですけど、そっちの私用じゃないです。業務上の私用!!」


 と、言いつつも、訳の分からない日本語でアホみたいな言い訳をしながら、これ以上ここにいると変な冷やかしに遭い兼ねないと判断し、即座にナースステーションを離れ、桃井さんがいるだろう食堂へ向かった。


 エレベーターに乗り、食堂のある階のボタンを押す。


 知らなくても仕事に全く支障ないだろう話。だけど、気になったままだと仕事に影響が出る。などと、自分のさもしい興味を肯定しながら、エレベーターの階数表示を眺めた。


 エレベーターを降り、食堂に入ると、桃井さんはすぐに見つかった。


 丁度良い事に、一緒に食事をしている人はなく、桃井さんはひとりで窓際の席に座り、フォークにパスタを絡めていた。


 「食事中にすみません。ちょっと聞きたい事があるんですが、いいですか?」


 桃井さんの席に近づき声を掛けると、


 「あ、はい。どうぞ」


 桃井さんは快く返事をしてくれ、俺の為に自分の隣の椅子を後ろに引いてくれた。


 『ありがとうございます』と遠慮なく桃井さんの隣に腰を掛ける。


 「…あの、この前の話の続き、聞かせてもらえませんか? さっき早瀬先生に直接聞こうとしたんですけど、『自分からは話したくない。みんな知っている事だから、他の人に聞いて欲しい』と言われました。

 木南先生と早瀬先生の間には何があったんですか?」


 仮にも仕事中。桃井さんも食事中。前置きなんかしている時間はなく、即本題を切り出す。


 「あの二人、元夫婦」


 「え!?」


 桃井さんがフォークでパスタをクルクルしながら予想だにしていなかった事をサラっと言うから、こっちもこっちで嘘みたいな裏声が出てしまった。


 「早瀬先生が医者になったきっかけは、高校時代に彼女を病気で亡くしたかららしい。『もう彼女と同じ病気で誰も死なせたくない』みたいな」


 「…ほ、ほう」


 『あの二人、元夫婦』が衝撃的すぎて、早瀬先生の医者になった動機を何故か挟み込んだ桃井さんに、『その情報、今必要?』と突っ込むことさえ出来ない。


 「3年前、この辺りで男の子が誘拐されて殺された事件、憶えてますか?」


 また飛躍した桃井さんの話を、


 「あ、はい。俺、この病院の附属の大学に通っていたので憶えています」


 最後に繋がるのかもしれないと、黙って聞くことにした。


 「被害者の男の子は、早瀬先生と木南先生の息子さん」


 「……え」


 木南先生と早瀬先生が夫婦だった事以上の驚きに、一瞬息が詰まった。


 「早瀬先生は、元カノを失った後も、命日、月命日も欠かさず元カノのお墓参りに行っていたらしいんです。それは木南先生と結婚した後もずっと続けていて、おそらく今でも足を運んでいるんだと思います。…でも、その事実を早瀬先生は木南先生に言っていなかったそうです。この世にいないからと言って、毎月元カノに会いに行く事を木南先生が良く思わないかもしれないと懸念したんだと思います」


 「……」


 返事をすることさえ儘ならなくなった喉を右手で摩りながら、桃井さんの話の続きに耳を傾ける。


 「あの日は、木南先生は出勤で早瀬先生は休日だったから、早瀬先生は息子さんのお世話を頼まれていたそうです。早瀬先生の元カノの命日の日でした。

 早瀬先生は、息子さんを連れて元カノさんのお墓参りに行ったんです。

 月命日ではなく命日だったから、いつも以上に想いが溢れたんでしょうね。いつもより長く目を閉じながらお墓に手を合わせていたそうです。その間に、息子さんは拐われてしまった」


 「……」


 桃井さんの話に、最早目を見開く事しか出来ない。


 「息子さんを誘拐したのは、早瀬先生の息子さんと同じくらいの歳の子どもを病気でなくした女性だったそうです。自分の子どものお墓参りに来たとき、偶然早瀬先生の息子さんを目にして衝動的に拐ってしまったと。元カノさんのお墓から少し離れたところで、早瀬先生がいない事に不安になった息子さんが泣きだして、動転した女は突発的に早瀬先生の息子さんの口を押えつけて窒息させてしまった」


 「……」


 未だ声を出せない俺の左手が、テーブルの下で震えた。


 「木南先生の気持ちは分かる。でも、悪いのは誘拐犯であって早瀬先生じゃない。なのに、木南先生は早瀬先生を、家からも医局からも追い出した」


 桃井さんが、フォークでパスタの上に乗っていたベーコンを突き刺しながら、木南先生に怒りを向けた。


 でも、俺の怒りは木南先生ではなく、自分に刺さる。


 「……俺、何てことを……」


 藤岡さんのオペの前にした木南先生との会話が頭を過った。


 『結婚した事のない木南先生には、母親の気持ちは分からない』


 何も知らなかったとはいえ、何であんな事を言ってしまったのだろう。木南先生に、何て無神経な事を…。


 「桃井さん、教えてくれてありがとうございました。俺、医局に戻ります」


 言葉と同時に立ち上がり、食堂を出た。


 一刻も早く、木南先生に謝罪したい。


 急いで脳外に戻ると、患者の家族面談を終えただろう木南先生が、面談室の前で患者家族に頭を下げているのが見えた。


 患者家族を見送り、その場を離れようとした木南先生に早足で近づき、


 「木南先生、1分だけすみません」


 木南先生の腕を掴むと、そのまま面談室に押し込んだ。


 「何何、どうした? 研修医。何かしでかしたの?」


 俺の行動に驚きつつも、『今回の研修医も問題児だったかぁ』と半笑いでふざける木南先生。


 「柴田です!! 患者さんには何もしていません。何かしようにも力不足で何も出来ていません。しでかしたのは、木南先生にです。俺、何も知らなくて木南先生に酷い事を言いました。『木南先生に母親の気持ちは分からない』とか。本当に申し訳ありませんでした」


 勢いよく頭を振り落すと、


 「あぁ、聞いたんだ。3年も前の話をよくも飽きずに語り継ぐよね、ここの病院の人たち。伝説じゃないんだから」


 頭の上から、面白いなどとは1ミリも思っていないだろう、木南先生の乾いた笑い声がした。


 「あの、本当に「本当に申し訳ありませんでした?」


 再度謝ろうとした俺を、木南先生が遮った。


 ゆっくり顔を上げると、悲しいも苦しいも憎いという感情も、全て無くしたかの様な、ただただ無表情な木南先生が俺を見つめていた。


 「謝る必要なんてどこにもないでしょう。だから反省もしなくていい。…だけど、それでも罪悪感があるというのなら、金輪際この話はしないで」


 目の奥が灰色とはこの事を言うのだろう。木南先生は涙ぐむわけでもなく、瞳の中の光を消した。


 あぁ、この人は泣いて泣いて泣ききって、もう涙すら出ないんだろうな。


 木南先生から勝手に感じ取った感想だけど、多分間違っていない。


 木南先生の苦悩を想像する事は出来るけれど、俺の頭で考えた苦痛など、遥かに超えているに違いないのは明らかだった。


 「はい。今後一切口にしません」


 木南先生に強く頷くと、


 「研修医、もうお昼だよ。午後からカンファレンスだから食べ過ぎないでね、眠くなるだろうから」


 木南先生は、何事もなかったかの様にサクっと話を変えた。


 本当に何事もなければ、木南先生があんな目をすることもなく、早瀬先生も脳外に今もいたんだろうなと、複雑な気持ちになりながらも、


 「木南先生は今日はちゃんと食べるんですか?」


 何事もなかった事にする魔法など持っているはずもない俺は、大根役者ながら何もなかったフリをするしかない。


 「さっきヨーグルト食べた」


 「女子ー。それだけじゃ足りなくないですか?」


 そして、普段通りを装うぎこちない会話を続ける。


 「足りる足りないの問題ではなく忙しいの、私は。研修医と違って」


 「木南先生が忙しいのは分かりますが、昼食取る時間もないくらいですか? 素直にダイエットって言えばいいのに」


 木南先生も俺もいい大人だから、話をしているうちにいつもの調子を取り戻せるから。


 「あーもー。超絶うざいわ、この研修医。さっさとお昼に行きなさいよ」


 「はいはーい」


 完全に調子が戻ったところで、木南先生と面談室を出た。


 この日以降、木南先生との約束通り、桃井さんから聞いた話をせず、何事もない日常を送っている。


 あ、何事もなくない。


 この前、関屋くんから連絡が来て、THBOのHPの掲示板に『入会希望』とだけ打ち込まれたメッセージが藤岡さんからきたらしい。


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