メーデー、メーデー、メーデー。

中め

善悪と、優先順位。


 医大を卒業し、附属の大学病院の研修も2年目を半年過ぎ、残すローテートは脳外科と救命のみとなった。


 今日から、大本命の脳外研修。


 何故脳外希望なのかというと、『なんとなく響きがカッコイイから』というそれだけの理由。


 医者になったのも何となく。父親が地元のクリニックで内科医をしていて、特になりたいものもなかったし、同じ医師になれば、親も喜ぶだろうと思って、なった。実際、両親は大喜びだったし。


 ただ、医大はなんとなくでは入れなかった。めちゃくちゃ勉強した。医大に入る為というよりは、『医者の息子なのだから勉強が出来て当然』という、周囲から発せられる空気により、物心が付いた頃から人並み以上にせざるを得なかった。


『優秀でいなければならない』という強迫観念からの勉強は、最初のうちはしんどいものだったが、親や先生や友達に『すごいね』などと言われるのが次第に快感に変わっていき、段々と勉強が苦ではなくなっていった。


 そう、俺は基本的に凄く単純な人間なのだ。


 ローテでなんとなく色々な科を巡り、今日もなんとなく脳外の医局に足を踏み入れた。


「失礼します。今日よりお世話になります。柴田です」


 医局のドアを開け、それぞれのデスクで作業をしている医師たちに頭を下げる。


 顔を上げ、周りを見渡すと、自分以外に研修医がいない事に気付く。どうやら今回のローテは俺だけらしい。


「初めまして、柴田くん。待ってたよ」


 パソコンのキーボードを叩いていた30代半ば位と思われる男性医師が、手を止めて立ち上がり、俺の近くに寄ってきた。


「宜しくお願いします」


 再度頭を垂れると、


「ごめんねー。柴田くんのオーベン、俺が頼まれてたんだけど、木南先生に交代になったんだー。木南ー。ちょっと来てー」


 男性医師は苦笑いを浮かべながら俺に手を合わせると、木南先生らしき女性に向かって手招きをした。


「はーい」


 奥のデスクでパソコンを弄っていた女性医師が、マウスから手を離し、こちらにやって来た。


 ゆるいパーマを後ろで1つ結びした、落ち着いた感じの女性が俺の前に立ち、


「木南です。春日先生の代打でキミのオーベンをする事になりました。……キミ、期待してるからね」


 挨拶をしながら俺の二の腕をポンポンと叩いた。


「あ、はい。頑張ります。……あの、どうしてオーベンが変更になったんですか?」


 俺の質問に、周りの医師たちがクスクス笑い出した。


「キミの前の研修医がすごかったんだよ。オペで泣く喚く吐くの大騒ぎで。温厚で有名な春日先生が『オーベン暫くやりたくない』って匙を投げたくらいに懲りたっていう。だから、キミには期待してるから!!」


 思い出しながらクツクツ笑う木南先生が、もう一度俺の二の腕を叩いた。


「それ、『期待している』んじゃなくて、『お前は迷惑かけるなよ』って言いたいんですよね?」


『前の変な研修医と一緒にしてくれるなよ』と不満に思いながら唇を尖らせると、


「迷惑をかけないことも、期待しているってことだよ。ホント、超期待してる。って事で、一通りみんなに挨拶したらナースステーションに行くよ。看護師さんも次の研修医の心配してたから」


 木南先生は『超期待してる』という言葉で俺に『絶対におかしな事をするんじゃねぇぞ』という圧力をかけると、医師たちのデスクの方へ俺を案内した。


 そして木南先生に二十数名の医師たちをサラーと紹介されたが、正直全然覚えられなかった。


 先生たちの名前を覚えるのは、正式に脳外に入ってからでいいや。この3ヶ月は木南先生さえ分かっていれば大丈夫だろうと、俺もサラーっと聞き流す。


 そしてサラーっとナースステーションへ。


「お疲れ様でーす。研修医連れてきましたー」


 木南先生の後ろに続き、俺もナースステーションに入ると、『これはレベル高し!!』と思わず口に出してしまいそうなほどに可愛いナースが目に飛び込んできた。最早、そのナースしか目に入らない。


 即座に彼女のネームプレートを確認。


『桃井 佳奈』。名前までも可愛い。可愛いコがナース服って…男の浪漫でしかない。


 俺が今までなんとなくの流れでここに辿り着いたのは、桃井さんに出会う為だったんじゃないか。と勝手に運命を感じていると、


「桃ちゃん、可愛いよねー。前のゲロ吐き研修医も桃ちゃん狙いだったんだよねー」


 俺の桃井さんガン見状態に気付いたのか、木南先生がニヤニヤしながら俺の顔を見た。


「ちなみに桃井さんは、彼氏さんとかはいるのでしょうか?」


「彼氏は、いないと思う」


 俺の質問に、不敵な笑みを浮かべながら意味深に答える木南先生。


 俺は単純明快な性格な為、こういうまどろっこしい返事が嫌いだ。ハッキリ教えて欲しい。桃井さんの彼氏の有無で俺のテンションが大きく変わる大問題なわけだから。


「その言い方だと、好きな人はいるってことですか?」


「見てればすぐ分かるから、そんなに焦りなさんな。しかし、若いねー。一目惚れでモンモンとするとか。面白ーい」


 木南先生は俺の質問には答えてくれず、俺を小バカにすると、


「皆さーん。今日から脳外ローテートの研修医の……」


 看護師の皆さんに俺を紹介しようとしたが、俺の名前を覚えていなかった。


 脳外の医師たちの名前を木南先生しか覚えなかった俺も大概だが、たったひとりの研修医の俺の名前を記憶していない木南先生も酷いものだ。


「柴田で……「はい。脳外科、木南です」


 木南先生に覚えてもらえなくても別に良い。桃井さんに覚えてもらえればそれで良い。だから、桃井さんに向かって挨拶をしようとした途端、木南先生の白衣のポケットに入っていた携帯が鳴り、俺の自己紹介を遮った。


「分かりました。すぐ行きます」


 短い会話の後、電話を切った木南先生が、


「救命にバイクと接触して頭部外傷を負った20歳代の女性が運ばれた。行くよ、研修医」


 俺に電話の内容を一気に話すと、足早にナースステーションを出て行った。


 慌てて木南先生を追いかけようとした時、


「頑張ってね、柴田先生」


 桃井さんが俺に笑顔で小さくガッツポーズを向けてくれた。


 桃井さん、可愛いのに優しいくていい人。木南先生と違って、俺の名前もちゃんと覚えてくれるし。


「はい!!」


 モチベーションが大幅にアップ。桃井さんに元気に返事をし、木南先生が向かった救命へ急いだ。


 木南先生と一緒にエレベーターに乗り、1階の救命救急センターへ。


 入った途端、


「木南、待ってた!! ちょっとこの画像見て」


 パソコンでCT画像をチェックしていた救命の医師が木南先生を呼んだ。


「吉田!! どんな感じ?」


 木南先生が呼ばれた方へ駆け寄った。そして、


「早くオぺしないと。家族に連絡取れた?」


 木南先生の表情が一気に曇った。


 木南先生の後ろからパソコンを覗くと、


「……急性硬膜下血腫?」


 患者の脳が圧迫され、歪んでいる画像が見えた。頭蓋骨骨折も見られる。


「そうだね。ダメージが大きいね。内視鏡では難しいね。開頭しよう。術後は外した頭蓋骨は戻さないで人工冬眠療法か低体温療法した方が良いね」


 木南先生がオーベンらしく、俺に治療法を説明していると、


「……実はまだ、家族の同意を得られてないんだ。母親の方とは連絡がついたんだけど、おそらく後遺症が残ることは免れない事を説明した途端に『医者なんだから、完全にに治せ!! 娘はまだ21歳なんだ。夢の途中なんだ。嫁入り前なんだ!!』って怒り泣きで…」


 吉田先生が右手で眉間を摘み、溜息を吐いた。


「なんで自分の娘の一大事に取り乱すんだろう。早くオペして助けてあげなきゃいけないのに」


 画像を見る限り、患者の容態はのんびり構えている場合ではない。


 こんな状況で正しい判断を出来ない患者の母親に憤りを感じる。


「大事な我が子の一大事だから、正気じゃいられないのよ」


 しかし木南先生は、悠長な事を言っている場合ではない事を分かっていながら、『仕方ない』とばかりに患者の母親に理解を示した。


「木南先生、結婚されてるんですか?」


「してませんが?」


「シングルマザーでもないですよね? じゃあ分からないじゃないですか。母親の気持ちなんか。この患者さん、このまま放っておくんですか?」


 木南先生の態度が理解出来なくて反論すると、


「……そうだね。でも、家族の同意がないのならどうしたってオペは出来ない。この患者には麻痺が出る。もしかしたら言語障害や記憶障害、その他にも障害が起こる可能性が十分にある。正義感だけで独断でオペをして、その後の彼女の生活は誰が責任を持つの? 研修医、アンタが一生面倒診るの?


 それに、同意もなく勝手にオペして、患者本人やそのご家族に訴訟でも起こされたらどうするの? 医師免許吹っ飛ぶわよ? 私たちは、患者の命よりも何よりも、医師生命を守るのが第一。医師免許を剥奪されたら、救える人命が救われない」


 木南先生は正論で俺を嗜めた。 

 

「……それはそうですけど……」


 木南先生の言っている事は分かる。でも、理解は出来ても納得がいかない。オペが出来ない事がもどかしくて仕方がない。


「もう一人。バイクに乗っていた方も運ばれて来ててさ、重体なんだけど家族と連絡が取れていないんだよ」


 吉田先生が貧乏揺すりをしながら『あぁー、早く誰か捕まってくれよ』と頭を掻いた。


 オペをしたい気持ちはみんな一緒。


「バイクの方の患者の画像は?」


 木南先生がイライラを隠せない吉田先生の肩に手を置き、パソコンに画像を出す様促した。


 言われるままパソコン画面に画像を出す吉田先生。


「空気漏れてるね」


 木南先生の眉間に皺が寄る。


 そこには、腹部のCT画像が映し出されていた。


「腸管破裂……。胃も損傷してますね」


 患者の容態に、俺も顔を顰めてしまった。


 どちらの患者も緊急オペが必要。しかし、家族の同意なしでは成す術がない。どうする事も出来ずにもどかしい時間を過ごしていると、


「吉田、川原さんの同意、取れたぞ!! すぐオペだ!!」


 吉田先生の同僚の救命の先生が、早足で俺たちの方へ向かって来た。


「川原さんってどっちですか?」


「腸管破裂の方」


 俺の質問に答えた吉田先生は、『良かった。オペが出来る』と呟き、手術室へ向かおうとした。


「手、貸そうか?」


 そんな吉田先生に木南先生が助っ人を買って出る。


「助かる!!」


 吉田先生は、木南先生の申し出に顔を綻ばせると、木南先生と共にオペの準備に取り掛かろうとした。


「……ちょっと待ってくださいよ。被害者じゃなくて、加害者を先に助けるんですか?」


 吉田先生の『良かった』の意味が全然分からない。何も良くない。被害者が後回しになるなんて、そんなのどう考えてもおかしい。


「だって、歩行者の方の家族の同意、取れてないじゃない」


 木南先生は『何でそんな簡単な質問をしてくるんだ』とばかりに、面相臭そうに答えた。


「だからって、腸管破裂の方は加害者なんですよ!?」


「加害者じゃなくて、川原さん。医者が助けられる命から順番に治療するのは当然でしょ」


 俺の名前は覚えようともしないのに、患者の名前はしっかり記憶する木南先生。


 そんな、俺と意見の噛み合わない木南先生に苛立ちを覚える。


「助けるべき命から順番に治療すべきです」


「研修医、アンタ医者に向いてない」


 木南先生が、相変わらず俺の事を研修医呼びしながら、俺が医者である事を否定した。


 それがあまりにも腹立たしくて木南先生を睨みつけると、木南先生が鋭い視線を返してきた。


「吉田、先に行ってて。私もすぐに行くから。研修医、川原さんの容体を説明してみて」


 木南先生は、吉田先生を川原さんのオペに行く様促しながら話の要点を変えた。


「今、そんな話……「いいから答えなさい」


 話を戻そうとした俺に、強い口調で自分の質問を押し付ける木南先生。


「……内臓破裂です。胃・腸壁に損傷があり、そこから空気が漏れています」


 さっきみたCT画像の様子を見たまま口にする。


「それだけ?」


「え?」


「アンタは川原さんを『加害者』という目で見ているから、学生でも分かる症状を見落とすの。確かに腸管の破裂部位と重なっているし、損傷も激しかったから見辛かったかもしれない。でも、あれを見逃す医者はいない。川原さんの腸管は、1回転していた」


「……絞扼性イレウス?」


『何故そんな簡単な症状に気付かなかったんだ』とパソコンに目を向け、川原さんの腹部画像を確認する。


 よく見ると、破損して裂けている部分に捻れが確かにあった。


 俺は今まで、大学時代も研修医になってからも落ちこぼれた事がなかった。


 それなのに、イレウスは見つけにくい病気じゃないのに、見つけられなかった。


「川原さんはバイクの運転中に激しい腹痛に襲われ、ハンドル操作がままならなくなり、歩行者に気付くのも遅れて事故を起こしてしまったのかもしれない。腸管の破裂が大きいのも、そもそもイレウスによって穴が空いていたところに外部からの強い衝撃が加わったからかもしれない」


 自分の不甲斐無さに肩を落とす俺に、木南先生が話を続ける。


「……そう……だったんだ……」


「さぁ? あくまでも私の想像で仮説。だけど、川原さんがイレウスであった事は間違いない。腸管破裂も、傷口を見れば破裂前に穴が空いていたのかいなかったのかはなんとなく分かるけど、今はそんな事はどうでも良い。それによって川原さんに施すオペが変わるわけではないから。……という話を聞いて、『あぁ、川原さんの不注意で起こった事故じゃないんだ。じゃあ早く助けなきゃ』などと思ったのなら、アンタは本当に医者にはならない方がいい。医師免許に人の善悪を判断し裁く権利なんかない。それは、然るべき権限を持った職業の人がすべき仕事。医者の仕事は、人間の命と健康を守る事だと私は思っている。違う?」


「……違わないです」


 木南先生に腹の内を見透かされて、反論する気にもならない。というよりも、反論の余地がない。


「そう。それならもうこの話は終わりでいいよね。私は川原さんのオペに行く。研修医はどうする? 来ても来なくてもいいよ。川原さんのオペは腹部だから。研修医、今脳外ローテ中だもんね」


 俺に『医者に向いていない』と言った木南先生は、『お前も川原さんのオペに来い』とは言わず、『来たいならどうぞ。来るつもりがないなら結構です』というニュアンスの選択肢を投げかけた。


『医者になる気があるなら来い』と言うことだろう。


 なんとなく取った医師免許。なんとなく、なんとなくでここまで来てしまった。


 だけど今日、木南先生に否定されて論破されて、悔しくて腹が立って。


 意識が少し変わった気がする。


 医者という仕事に、今更ながら興味が沸いてきた。


「行きます。行かせてください。変な正義感を振り翳して木南先生の足を止めてしまい、申し訳ありませんでした」


 木南先生に頭を下げると、


「嫌いじゃないけどね、アンタの正義感は。よし!! じゃあ、行こう!! おいで、研修医」


 木南先生は俺を見ながら『青いなー』と笑うと、俺に向かって手招きをした。


「はい!!」


 そして、木南先生と共に川原さんがいるオペ室へ。


 麻酔医が手術台に横たわる河原さんに麻酔をかけ、効いた事を確認すると、早速吉田先生が開腹。


 吉田先生が損傷している腸にメスを入れようとしたとき、


「何やってるの、吉田。そんなところから切ったらストーマ造設しなきゃじゃん」


 木南先生が吉田先生の手を止めた。


「は? しますけど。ストーマ造設」


 吉田先生が木南先生の質問を質問で返した。


「イヤイヤイヤ。縫合出来るでしょうよ。あ、もしかしてわざと? 川原さん、交通事故だもんね。自由診療だもんね。ウチの病院って保険診療の1.2? 1.3? 1.4倍? ストーマって何点? 70点くらい? 掛ける1.2倍だとして……お金になるなぁ、川原さんは。的なノリ?」


「はぁ!? これだけ激しく損傷してたら、どんな医者でもストーマくっつけるだろうよ」


 ようやくオペが出来るようになったというのに、今度は木南先生と吉田先生が揉め出した。


「付けませんー。この程度でストーマ使うなんて、この病院の名が廃るわ」


「『この程度』って言える裂け方じゃないだろうが」


 ストーマ断固反対派の木南先生と、造設が当然と考える吉田先生の意見は纏まる気配がない。


「執刀医は俺!!」


「じゃあ、代わってよ。私がやる」


 そして始まる執刀医の座の奪い合い。


 ……何やってんの、この人たちは。


「オペ、しないんですか!?」


 堪らず口を挟むと、


「するに決まってるでしょ!! 研修医、ちょっと吉田の事退かして!!」


 木南先生が俺の方にイライラの火の粉を飛ばしてきた。


「え!?」


 不意打ちの巻き添えに、引き攣りながら吉田先生の顔を見ると、


「分かってるよな、研修医。ここは救命。脳外ではない」


 吉田先生が左眉をピクつかせながら、自分のテリトリーである事を主張した。


「柴田です。分かってます」


 吉田先生の圧に高速で何度も頷くと、


「分かってるよな、研修医。アンタのオーベンは私」


 すかさず木南先生が差し込む様な鋭い視線を俺に飛ばした。


 完全なる板挟み。


 今のローテのオーベンは木南先生。しかし、脳外の次のローテは救命。もしかしたら俺のオーベンをするのは吉田先生かもしれない。


 次のローテで気まずくなったら……。しかし、最終的に入りたいのは脳外の医局。自ずと答えは出る。


「柴田です。分かってます。吉田先生、退いてください」


 左肩でタックルをする様に、吉田先生を押し退けた。


「コラコラコラ!!」


 吉田先生も動くまいと踏ん張るが、20代の俺に比べると足腰が弱く、割と簡単に吉田先生を手術台の端っこに移動させる事に成功。


「ナーイス、研修医!! メス、パース!!」


 先ほどまで吉田先生が立っていた位置に滑り込み、看護師さんに『早く早く』とメスを要求する木南先生。


 メスを受け取った途端、木南先生の目が輝き、イキイキし出した。


 木南先生は、吉田先生が切ろうとしてところとはだいぶ違う位置にメスを入れ、壊死腸管と腸管破裂の特に激しい部分のみを切除すると、


「メイヨー」


 今度はメスを手放し、看護師さんに『カモンカモン』とメイヨーを求める。


 そして、手早く吻合に取り掛かる木南先生。


 細かく綺麗なその縫い目。かなり広がっていた裂け目も難なく縫い上げている。


「……相変わらずいい腕してるわ、木南は。戻ってくればいいのに」


 木南先生に強引に執刀を代わられた吉田先生が、溜息交じりに苦笑いした。


「戻る? 木南先生、もともと救命医だったんですか?」


「そう。見ての通り、手先が器用すぎて、病院長直々の指名により、脳外に引っ張られて行ったんだよ。ほら、ウチの病院って脳外に力入ってるじゃん? 言っておくけど、このオペでストーマを使用するのは普通で一般的だから。俺の腕が悪いわけでも、診療点数稼ぎたいわけでもないから。このケースで木南の真似をして縫合のみの手術のするのは危険。誰もが出来るオペではないから」


『オーベンやってるなら研修医にはスタンダードな術式見せろっつーの』と木南先生に口を尖らせる吉田先生。


 木南先生と吉田先生が、科が違うのにも関わらず言いたい事を言い合えるのは、気心が知れていたからなのか。と納得しながら木南先生の鮮やかな手の動きを目で追う。


 ローテで色々な科の先生たちのオペを見た。木南先生が1番だと思った。早いのに丁寧で、無駄が無い。


 吉田先生に言われなくても木南先生の真似などしない。出来るわけがない。


 どんな練習をし、どれだけの場数を踏めば木南先生の様なオペが出来るのだろう。


 そんな事を考えながら木南先生の手術に目を奪われていると、


「吉田先生!! 藤岡さんのご家族からやっとオペの同意が取れました!! オペ、急ぎましょう!!」


 吉田先生の後輩と思われる救命の先生が吉田先生を呼びに来た。


「まじか!! 木南、行けるか!? 急性硬膜下血腫の患者さんのオペ」


 吉田先生が、木南先生を藤岡さんのオペに行かそうと、木南先生に『オペ、交代出来るか?』と尋ねると、


「ゴメン、無理だ。今、手が離せない。研修医、脳外に電話して先生誰か捕まえて」


『ストーマを使用しない』独自のやり方でオペをしてしまった木南先生は、順調に手術を進めていたといえども吉田先生と代われる段階まで処置が済んでいなかった。


「柴田です。分かりました!!」


 急いでオペ室を出て、救命の医局から脳外へ内線を繋ぐ。


「はい。脳外科です」


 1コールですぐに脳外の事務員さんが出てくれた。


「研修医の柴田です。あの、今救命に急性硬膜下血腫の患者さんがいて、木南先生がオペする予定だったんですけど、色々あって出来なくなりまして、どなたかこちらに来ていただける先生はいらっしゃいますか?」


『色々』の内容を話している時間などない為、手短に話をすると、『すみませーん。誰か救命に脳のオペ行ける人はいませんかー?』と事務員さんが電話を繋いだまま、俺の話を更にザックリ纏めて周りにいると思われる先生たちに聞いてくれた。


 受話器の奥から『俺、オペが入ってる』『俺は今から医局長と面談』など聞こえてくる中に『俺、論文が間に合わないから無理』という声がハッキリ聞こえた。なのに、


「すみません。そちらに行ける先生がいませんでした」


 事務員さんはそれには突っ込まず、俺に断りの返事をした。


「イヤイヤイヤ、論文がどうのこうのって言ってる先生、来られるでしょ。論文より人命でしょ!!」


 納得がいかずに事務員さんに意見すると、


「私にそんなことを言われても……」


 事務員さんには何の罪もないのに、ただ困らせてしまった。


「すみませんでした。分かりました。木南先生にもう一度指示を仰ぎます」


 論文を優先する先生に腹を立てながら電話を切り、木南先生の元へ戻った。


「木南先生、すみません。誰も捕まりませんでした。論文が忙しいとか何とかで来てくれません」


 拳を握り締め、木南先生に憤りをぶつける。先ほどの事務員さん同様、木南先生も何も悪くない。更にオペ中。迷惑極まりない行動を取っている自覚はあるが、承服し難い現実が多すぎて、怒りのやり場が見つからない。


「まーだ論文書き終わってないのかよ、しょうもな。そしたら、外科の早瀬先生に電話して」


 俺の苛立りを汲み取ってくれた木南先生が呆れた顔をした。


「てことは、木南は論文出来上がってるんだ。さすがだな。……てか、早瀬呼ぶの?」


 吉田先生は、そんな木南先生に感心しながら、木南先生が指名した『早瀬先生』に若干の戸惑いを見せた。


「彼なら出来るじゃん」


 それでも木南先生は早瀬先生を推す。


「……出来るけどさ」


 困惑気味の吉田先生を他所に、


「研修医、早く!! 外科の早瀬先生に電話!!」


 木南先生は俺に電話を掛けるよう急かした。


「柴田です。すぐ掛けます!!」


 再度オペ室を飛び出し、外科の早瀬先生の携帯に電話した。


「はい。外科、早瀬です」


 早瀬先生も1コールで出てくれた。


「あ。私、今脳外ローテ中の研修医の柴田と申します。あの、今救命にいまして、急性硬膜下血腫のオペが出来る先生が捕まらなくて困っていまして、木南先生の指示で早瀬先生にお電話差し上げた次第です。オペして頂けませんか? お願いします!!」


 どうしても早瀬先生に来て欲しくて、一刻も早く藤岡さんを助けたくて、早口で一気に喋ると、電話なのにも関わらず勢い良く頭を下げた。


 だって、早瀬先生が来てくれなければ、他に当てがあるとは思えない。


「……木南先生が?」


 早瀬先生が少し驚いたような声を出した。


「はい。『彼なら出来る』と」


「分かりました。すぐに行きます」


 それでも早瀬先生は快諾してくれた。


『良かった』とホッとはしたが、『外科の先生が来てくれるというのに脳外の先生は…』とやはり腹の虫が治まらない。


 この病院、ちょっとおかしくないか? 病院って、医者って、こんなんでいいのか? と、煮え切らない状態ではあるが、早瀬先生が来てくれる事は朗報。


 すぐさまその吉報を木南先生に伝えるべく、懸命に手術中の木南先生がいるオペ室に戻った。


「木南先生!! 早瀬先生がすぐ来てくれるそうです!!」


「じゃあ、研修医は藤岡さんのオペ室に行きな。アンタ、一応脳外ローテ中だから。早瀬先生のオペ、しっかり見ておいで。彼、物凄く手術が上手いから。早瀬先生の指示に従って、手伝える事は率先してやるんだよ。早瀬先生の動きを見ながら勉強しておいで、研修医」


 依然川原さんのオペ中の木南先生は、俺の方には目もくれず、真剣に手を動かしながら、本来俺が今しなければならない研修が出来る場所へ促した。


「柴田です。分かりました。行ってきます」


 俺の事をわざと『研修医』と呼んで面白がっているだろう木南先生に、しつこく苗字を言ってから返事をすると、川原さんのオペ室を出て早瀬先生が来るのを待った。


 とても繊細で丁寧な手術をする木南先生が『物凄く上手い』と絶賛する早瀬先生のオペを、早く見たいと思った。


 藤岡さんのオペ室の前で早瀬先生を待っていると、


「キミが私に電話をくれた柴田くん?」


 オイオイ、ちょっと待てよ。背高いし顔小さいし足長いしイケメンだしその上医者だし女にモテてモテてモテてモテて仕方ないだろう? 的な男が俺に近づいて来た。


「はい。早瀬先生ですか?」


 目の前の男前が早瀬先生なのかを確認すると、


「はい。急性硬膜下血腫の患者さんのオペ室は?」


 やっぱりそうだった。


「こっちです」


 恵まれすぎている人生の勝ち組に属する早瀬先生を、早速藤岡さんがいるオペ室を案内。


 オペ室に入る前に、藤岡さんの状態を確認してもらうべく、救命の医局に行きCTをチェックする事に。


「……微妙な所に血腫が出来てるな」


 と、早瀬先生は一瞬顔を曇らせたが、


「よし!! すぐにオペ室へ移動しよう」


 と、即行動に移してくれた。


 早瀬先生を見て『医者はこうでなければいけない』と思った。


 オペ室に入る前に2人で入念に手洗い。


 川原さんのオペの前にも洗ってはいたが、電話などを弄ってしまった為、もう1度爪の間もブラシを使って擦り洗っていると、


「さっきの電話で『木南先生の指示』って言ってたよね?」


 早瀬先生が話し掛けてきた。


「あ、はい。今、私のオーベンをしてくれているんです。本当は急性硬膜下血腫の手術も木南先生がするはずだったんですけど、同時に運ばれてきた内臓破裂の手術に入ってしまいまして……。その手術、本当は吉田先生が執刀なのに、吉田先生がストーマ造設しようとしたら『付けずに手術出来るでしょうが!!』的な勢いで木南先生が吉田先生の座を奪ってオペし出してしまいまして……」


 早瀬先生を呼ばざるを得なかった理由を説明すると、


「木南先生らしいな」


 早瀬先生が、クスっと目尻を下げて笑った。


「柴田くん、運が良いね。木南先生がオーベンなんて。彼女、本当に優秀な医者だから」


 そして、吉田先生同様、早瀬先生も木南先生を褒めちぎった。


「そうなんだと思います。私の苗字は覚えてくれないし、私の事をめちゃめちゃ馬鹿にしてきますが、医者としては素晴らしい人なんだろうなと思います。そんな木南先生が早瀬先生の事を『物凄く手術が上手い』と言っていました。『しっかり勉強しておいで』と言われました。何でもしますので、どうぞ宜しくお願いします」


 早瀬先生が言う様に、木南先生は優れた医者だとは思うが、俺の思い描く医師像は早瀬先生の方が近い。


 慕う気持ちを込めて早瀬先生に頭を下げると、


「……木南先生、そんなことを言ってたんだ。よし!! 行こう!!」


 早瀬先生は綻ばせた頬を引き締め直し、藤岡さんのオペ室に入って行った。


 早瀬先生の後をついて行き、早瀬先生の隣に立たせてもらうことに。


 早瀬先生が早速藤岡さんの頭部を固定すべく、3点ピン固定器を準備すると、救命のフェローと俺とで術中モニタリングのセッティングをした。


 そしてすぐに手術は始まった。


 早瀬先生は藤岡さんの頭部の皮膚と側頭筋を切開すると、ドリルで数箇所穴をあけ、そのバーホール間をドリルで削り、頭蓋骨の一部を取り外した。


 挫傷した藤岡さんの脳が露になった。


 止血後、今度は硬膜を切開し、脳をヘラで圧排すると、血腫の除去をする早瀬先生。


 木南先生の言う通り、早瀬先生は手術が物凄く上手い人だった。


 ここまでの流れが素早くて、『何故外科の先生がこんなにも鮮やかに脳外の手術が出来るのだろう』と不思議で仕方が無い。


 2年目の研修医が手伝える事などほとんどなく、圧倒されながら早瀬先生のオペを見学していると、


「早瀬先生、お忙しい中申し訳ありませんでした。交対します」


 オペ室のドアが開き、木南先生が入ってきた。


「そちらのオペはもう終了したのですか? 柴田くんから聞きました。吉田先生がストーマ造設しようとしたのを阻止して木南先生がオペし出したって」


 血腫除去の手を止める事なく、早瀬先生が木南先生に話し掛けた。


「ストーマ付けずに済むところまで縫合して、あとは吉田に代わってもらいましので、藤岡さんのオペに入れます。本当にありがとうございました。助かりました」


 木南先生が早瀬先生と交対しようと、早瀬先生の傍にやってきた。


「私は、ストーマ造設は正しいオペだと思いますけどね」


 しかし、早瀬先生は血腫の除去を止めようとはしない。


「私も間違っているなんて思っていませんよ。ただ、避けられるなら避けた方が患者さんの負担が少なくて済むでしょう?」


 木南先生がオペ中の藤岡さんの脳を覗き込み『上手いなぁ。やっぱり』と呟いた。


「でも、木南先生にはしなければならないオペがあったじゃないですか」


 木南先生に褒められて、早瀬先生の眉が八の字になる。


「臨機応変ですよ。出来る人間がやればいい。川原さんのオペは私が、藤岡さんのオペは早瀬先生が出来る。その時の最善策で動けば良いと思います」


「私が来られなかったらどうするつもりだったんですか」


 行き当たりばったりに聞こえる木南先生の発言に、今度は眉間に皺を寄せる早瀬先生。


「そしたら川原さんにストーマくっつけて藤岡さんのオペをしますよ、臨機応変に。それに、早瀬先生がはどんなに忙しくても来てくれると思っていましたから。あなたは患者を見捨てるなんてことは絶対にしない」


 しかし、木南先生はあくまで臨機応変であることを主張した。


「それは木南先生だって同じでしょう? 藤岡さんのオペ、最後まで私にさせてください。木南先生、さっきまでオペをしていて疲れていらっしゃるでしょうから」


 早瀬先生がマスクの下で息を漏らして少し笑った。


「別に疲れませんよ、あの程度のオペ。しかも、途中までしかしてませんし。ババア扱いですか?」


 木南先生は、マスクの下で鼻息を漏らす。


「違いますよ!! そういう意味で言ったわけではありませんから。ただ、私が最後までやりたいが為の断り文句ですから。気を悪くさせてしまったならすみません」


 木南先生に謝りながらも、執刀医を明け渡す気のない早瀬先生。


「……じゃあ、助手をしながら久々に早瀬先生のオペを見学させていただきます」


 腸管破裂のオペとは違い、木南先生は無理矢理執刀を代わろうとはせず、あっさり引き下がった。『早瀬先生なら出来る』と分かっているからだろう。


「それはそれで緊張するんですけど」


「……緊張。嫌気が刺すの間違いじゃないですか?」


 困り顔でやり辛そうにする早瀬先生に、木南先生がツッコミを入れる。


「それは木南先生の方でしょう」


「私は別に何とも」


 そして、微妙に空気がおかしな感じになり始めた。救命のフェローも気まずい表情を浮かべるし。そういえば吉田先生も早瀬先生の名前を聞いた時に変なリアクションしていたし。


 木南先生と早瀬先生の間には、何かがある。


 オペ室に微妙な空気が流れようとも、早瀬先生は順調にオペを続けた。


『微妙な位置にある』と言っていた血腫も難なく綺麗に除去し、出血源を特定すると、あっという間に止血する早瀬先生。


 藤岡さんの脳は腫れてしまっていた為、木南先生がオペ前に説明していた通り、頭蓋骨は戻さずに皮膚だけを縫い合わせてオペは終了した。


 時間にして2時間弱。見事な手術だった。


「お疲れ様でした。ありがとうございました」


 オペを終えた早瀬先生に、木南先生が頭を下げた。


「お役に立てて光栄です。……頼って頂けて、手が足りない時に私の事を思い出してもらえて嬉しかったです。また何かありましたら声を掛けてください」


『こちらこそありがとうございました』と早瀬先生も頭を下げる。


「今後は外科の先生の手を煩わす事のない様、気をつけます」


 顔を上げ、誰が見ても作っていると分かる笑顔を早瀬先生に向ける木南先生。


「煩わしくなどありません。社交辞令じゃないですから。遠慮なんか…をしているわけではない事は分かっていますが、私で何かお手伝いが出来る事があれば是非呼んでくださいね」


 早瀬先生は、悲しそうな目をしながら木南先生に笑い返すと、オペ室を出て行った。


 木南先生は、早瀬先生の後ろ姿を目で追う事もなく、自動ドアの閉まる音が聞こえた瞬間に溜息に様な小さな乾いた息を『フッ』と吐いた。


 悲しいのか怒っているのか分からない、何とも形容し難い表情の木南先生。


 話し掛けて良いのか悪いのか。でも俺は研修医なわけで。オーベンの指示がないと動けない。


「……あの。お疲れ様でした。木南先生」


『話し掛けない』という選択肢がなかった為、当たり障りの無い挨拶をしてみることに。


「疲れてないよ。ほぼ見てただけだし。アンタも私の事をババア扱いするのかよ、研修医」


 心配とは裏腹に、木南先生は表情を戻して俺に絡んだ。


「柴田です。ただの挨拶に突っかからないでくださいよ」


 なので俺も調子を戻す。


「あはは。ごめんごめん。もうこんな時間だねー。研修医、お昼食べておいで」


 木南先生に『こんな時間』と言われ、『どんな時間だろう』とオペ室の壁に埋め込まれた時計を見上げると15:00になろうとしていた。


 さっきまで何ともなかったのに、時間を見た途端に腹が減りだす。


「柴田です。それじゃあ、休憩いただきますね。何食おうかな。食堂やってるかな。木南先生は何食べるんですか?」


「私はいいや。こんな時間に食べたら、夕食をとんでもない時間に食べるハメになりそうだから」


 食べ物や食べる時間など、あまり気にしなさそうな木南先生の意外な言葉に、


「女子っすね」


 思わず突っ込むと、


「うるさいわ。さっさと行け!!」


 木南先生に思い切り背中を押され、オペ室を追い出された。


 木南先生を『案外可愛いとこもあるではないか』と内心笑いつつ、今にも鳴りそうなお腹を擦る。


 脳外ローテ初日から盛りだくさんで、空腹さえも充実感を感じた。


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