アトラス

七瀬葵

第1話 帰り道と黒猫

 目の前で電車の扉が閉まり、ゆっくりと車体が動き出した。……俺を残して。

 電車の中で緑のリボンをつけた制服の女子高生が、気の毒そうにこちらを見ていた。息が上がり切って、頭がくらくらする。それなのに、一瞬見えたその表情が強く脳裏に刻みついた。

 ……そんな顔で見てんじゃねぇ。

 この電車を逃せば、次に乗れる電車は1時間後だ。もう夜も遅く、駅ビルは閉まっている。おまけに今日に限ってスマホを家に忘れてきた。

 だせぇな、俺。

 電車に乗り遅れただけ、ただそれだけなのに、自分がどうしようもない人間に思えてくる。

 学校を出るのが少し遅くなったのは認める。でも一番の誤算は、びっくりするくらい悪かった信号運だ。まさか大通りのスクランブル交差点にフルで足止めされるなんて思わなかった。50メートルほど手前を走っていた時に歩行者用の信号が点滅しだした時にはさすがにまずいと思った。それでも、まだ間に合うかもしれないと思ったんだ。どうにか飛び込んだホームで、目の前で扉が閉まるまでは。

 ……どうせ遅れるなら、走らなければよかった。自転車を全速力で走らせる必要なんてなかった。

 さっさと諦めればよかったのに。

 1番線の電光掲示板は、新宿行きの特急へと表示が移り変わった。ここが東京だったら、3分もすれば次の電車が来るのだろう。しかし現実は長野県の田舎町、乗れる電車は1時間に1本という世界だ。

 

 特にあてもなく、今来た階段を上って改札を出る。駅の構内は閑散としていて、みんな幽霊みたいな顔をしていた。

 コンビニで時間をつぶすか、マックに入って何か食べるか、何にせよ、屋内へ入りたい。11月の夜は寒い。


 駅を出ると、丁度コンビニの前の歩行者用信号が点滅し始めたところだった。

 さっきは絶望的に見えたそれが、今はどうでもいいことのように過ぎていく。

 マックにするか――

 そのとき、視界の端を黒いものが通り過ぎて行った。追うようにして今見ていた側にもう一度視線を向けると、信号は完全に赤に変わっていた。それでもその黒いものは、躊躇なく道路の方へ向かっていく。

 あれは、……猫?

 嫌な予感が頭をかすめた直後、待ってましたと言わんばかりのタイミングで大型トラックがその信号に向けて走ってきた。

 気が付いた時には、鞄を捨てて走り出していた。

「おい猫!あぶねぇぞ!!」

 夢中で叫んだ。

 追いつくか否かというタイミングになったときには、猫は横断歩道に足を踏み入れようとしていた。トラックの方を見る余裕はなかったが、追いかける自分に気付いて止まってはくれないか、せめてスピードを落としはしないか、走りながらそんなことが頭をよぎった。

 が、止まったのは猫の方だった。

「!?……おわっ!!」

 うまくスピードを緩められず、俺は派手にコケてしまった。恐らく猫の姿が見えていなかったであろうトラックの運転手が、コケている俺を不思議そうな顔で見ながら通り過ぎていくのがわかった。

「はっ、だっせ」

 電車に遅れ、ケータイも忘れ、猫を助けようと飛び出したら一人でコケただけ。

 今起こったのはたったそれだけのこと。それだけなのに、世界が自分を嘲笑っているような気がするのはなんでだろう。

 なんだか、笑えてきた。どうでもよくなってきた。

「お前、ちゃんと止まれんじゃねぇか。無事でよかったなぁ」

 不思議そうな顔でこちらを眺める黒猫に声をかけて撫でてやった。

「君は優しいですね」

 そう、どこかで声がした気がした。

 しかし周囲を見回しても、通りすぎる人ばかりで、自分に声をかけた人間は見当たらない。

 目の前には、自分の手の下に、猫が一匹いるだけだ。

「……猫?」

「猫ですけど、何か」

「うわぁっ!?」

 待て。

 待て待て待て。

 落ち着け俺。

「猫……だよな?」

「だから猫ですって」

「猫じゃねぇ!!」

 今度ははっきりと見えた。黒猫はあたかもかわいらしい鳴き声を出すかのように口を開くと、堂々と人間の言葉を放った。少年のような、若い男の声だった。

「とにかく、君のカバンを回収しましょう。お礼をいうのはそれからで」

「あ、カバン……」

 よろよろと体を持ち上げて立ち上がると、今全速力で走った道を戻った。黒猫は当然のような顔をして、後をついて来た。

 たった今轢かれかけたとは思えない冷静な表情だった。


「まぁ、座ってください」

 そう促されるまま駅前の広場のベンチに腰を下ろした。猫は隣に飛び乗って座った。

「助けてくれて、ありがとうございました」

「いや、俺なんもしてねぇんだけど……」

 喋る黒猫、か。

 今日は、ほんとにどうにかしている。

 この状況を受け入れつつある自分は、相当疲れているのかもしれない。

「君の声が聞こえたから止まれたんです。ちょっと考え事をしていて。危ないところでした」

 

 目の前にいるのは、人間の言葉を話す黒猫。

 もしかしたら、夢なのかもしれないと思い始めた。

 電車に乗り遅れたことも、喋る黒猫も、それから、今日起こったことも……。

「ところで」

「?」

「君、電車に乗り遅れたんですか?」

 なぜ、知ってる。

「さっき君が私の隣を走って、駅へ入っていったのが見えたので。まさか猫を助けるために駅から戻ってきたわけでもないでしょう?」

「……走んなくてよかったんだ。どうせ間に合わなかったなら。今日はこんなのばっかりだよ」

 猫は不思議そうな顔をした。猫なのに、なんだか表情のある猫だった。

「ここに来る前に、何かあったんですか」

「まぁ、な」

「こうして出会ったのも、何かの縁でしょう。私でよろしければ、お聞きしますが」

 お節介な奴め。

「大したことじゃないんだ。まぁ早い話、彼女にフラれたんだよ」


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