日曜の朝に眼鏡を拾う。

日曜の朝に眼鏡を拾う。

 眼鏡を拾った。

 それはもう、ハンカチを拾うとか、定期入れを拾うとか、そんなノリで。

 道路の真ん中にぽつんと落ちている黒渕眼鏡を拾った。

 いや、普通眼鏡落とす?

 私がコンタクトだから分かる、裸眼がいかに大変か。ある程度の距離があれば人の顔なんて肌色の塊にしか見えないし、友達に手を振られてもなかなか気づけなくてスルーしてしまう。

 そもそも、眼鏡を落とすシチュエーションが思い付かない。人にぶつかった? そもそもかけてなかった?

 まあいいや……。とにかく、今は眼鏡の救出が最優先だ。

 私はそっと落とし主不明の眼鏡を拾い、道路の端に避難した。幸い、車通りは多くない道で、レンズにも傷一つ付いていない。

 ……さて、これをどうするか。

 財布なら迷わず交番に届けるけど、眼鏡となるとどう対応すべきか分からない。

 平和な日曜日の朝に眼鏡片手に戸惑っている人なんて、全世界で私ぐらいじゃないだろうか。

 一人途方に暮れていると、

 「どうしました?」

 後ろから、背の高い男性が私の顔を覗き込んだ。

 歳は二十歳前後……たぶん、私と同じぐらいだろうか。爽やかな短髪に人懐っこそうな笑顔を朝日が眩しく照らした。

 「あ、えっと……眼鏡を、拾って」

 「眼鏡?」

 それはまた珍しい落とし物だな……と、困ったように笑う。ちらりと時計を見て、少し考えた後、

 「じゃあ、一緒に探しませんか?」

 「へ……さ、探す?」

 思わず変な声が出た。

 探す、ってなんなんだろう。この眼鏡に心当たりはありませんかー、って、大声で言って回るのだろうか。

 「はは、たしかに」

 彼はさも楽しそうに笑った。笑うと白い歯が覗いた。大きな口を開けて笑う人なんだなー、とか、どうでもいいことを考えてしまった。

 「交番って、たしかこの先にありましたよね。そこまで一緒に行きません?

 この眼鏡が似合いそうな人でも探しながら」

 彼の提案に、思わずくすっと笑った。

 だって、それじゃシンデレラみたい。

 「いいじゃないですか。この眼鏡がぴったり合う、お姫様……いや、この大きさだと王子様かな?

 見つかるかもしれないですよ」

 お急ぎなら僕が一人で行きますけど……と付け足した彼に、私は小さく首を振った。

 なんとなく、顔を見合わせて笑う。

 変な人。

 馬鹿みたいだけど、どうせ大した用事もなかったし、清々しい朝の風を感じながら私たちは歩き出した。

 「僕、倉田っていいます」

 「私、吉井です」

 「普通ですね」

 「お互い様です」

 倉田のほうが画数多いですよ、と子供じみた意地を張る彼は、やっぱりちょっと変わっているのだと思う。なんせ、眼鏡を届けに行くだけなのにこんなに嬉しそうにしている人は見たことがない。いや、そもそも眼鏡を届けに行く人を見たことがないか。

 「吉井さんは、大学生ですか?」

 「そうです。二回生です」

 「一番楽しい時期ですね」

 僕は三回生です、と言ってこっちに向かって二本指を立てる。それ三じゃなくて二ですよ、と言うと、これは二じゃなくてピースです、と言われた。

 「あ、あの人、この眼鏡似合うと思いません?」

 「サラリーマンか……僕的には、もっと若い人だと思うんですけどねぇ」

 「そうですか?」

 なんかこう、ハンサムっていうか、ダンディっていうか、渋い大人の男性だと思います! と意気込んで言うと、彼は納得いかなさそうに首を捻った。

 「それは、吉井さんの好みの問題じゃないですか?」

 「……それは否定できないですけど」

 確かに私は、ハリウッド映画に出てくるような、スーツが似合う大人の男性が大好きなのだ。

 それこそ、隣にいるこの塩顔の男性とは対照的な。

 暫しの沈黙の後、彼はおもむろに口を開いた。

 「眼鏡って、人の魂が込められてると思いません?」

 え? と思わず聞き返す。

 「魂、ですか」

 ……それはまた大層なお話で。

 そんなことを言われると、なんだかとてつもないものを拾ってしまったような気になるのですが。

 「あ、いや、ちょっと大袈裟すぎました。

 なんていうか……常に身に付けてる物だから、思いが込もっているというか」

 道端に落とすような物に、そんな強い思いが込められているとは到底思えませんけど。

 「もしかしたら、あなたが拾ってくれるのを待ってたのかも」

 「……どれだけロマンチストなんですか」

 男の人でもそういうこと考えるんだ、と思うとなんだかおかしくなった。

 もしかしたら、道端に落ちた一つの眼鏡にだって、何か壮大なドラマがあるのかもしれない。その可能性は否定できない。

 雨の日も風の日もコンクリートの上で耐え続け、太陽の下にされされながら、なんとかここまで辿り着いた、奇跡の眼鏡なのかもしれない。

 馬鹿みたいだけど、そう思えた。

 「もしかしたら、持ち主が、あなたに届け! って念じたのかも」

 「ふふ、私に?」

 そんな漫画みたいなこと、あるはずもないけど、あったらそれはそれは素敵な話だ。完全にないとは言い切れない。昨日までの私ならきっと鼻で笑っていたはずなのに。

 変な人と一緒にいたら、私まで変になるのかも。

 「例えば、元々あなたがここを通ることを知っていて」

 まあ、よく通ってはいるけど。

 「可愛いなーって見る度に思ってて」

 まさか。そんな物好きがいるのなら顔を見てみたい。

 「わざと眼鏡を落とした、とか」

 いやいや、眼鏡は捨て身すぎでしょ。車が通ったら取り返しがつかないですよ。

 「それでも運命に懸けてみた、とか」

 どこからかカレーの匂いが漂ってきて、気付けば、まったく知らない通りに来ていた。

 「あ、あれ? 交番……」

 何も考えずに合わせて歩いていたせいか、どの道から来たかも思い出せない。ただ、交番がこの辺りにないことだけはわかる。

 「あ、道間違えましたね……」

 「そうですね……」

 「ごめんなさい、僕、目が悪くて」

 え? と思わず彼の顔を見上げるのと、私の手から眼鏡が消えるのは、ほぼ同時だった。

 「な、なんで……」

 彼はまた、白い歯を見せて笑った。

 「お昼、ご一緒しませんか?」

 英字の刻まれた黒渕眼鏡は、ハンサムでダンディなハリウッドスターより、塩顔爽やか大学生の方が、案外似合うのかもしれない。

 「シンデレラの魔法は、解けたみたいです」

 彼の左腕の時計の針は、十二時を指していた。

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