第5話

「おう、いいじゃねぇか。雇ってやれ」


突然恭助が入口の扉から入ってきて声をかけた。奈落も千代も吃驚して恭助のほうを振り返った。


「ええと…?」


「千代さん、こちらはこの店の先代、私のじいさまです。じいさま、そうしたいのはやまやまなんですが、今この店は…」


「いいじゃねぇか。奥さんアレだろ?うちの孫娘のせいで辺の倅と離縁したんだろ?だったらおめぇが責任取ってやるのが道理じゃねぇかよ」


「うぐ…」


そう言われるとぐうの音も出ない。


「違います、私は自分の意志で…」


「だとしてもだ。うちの孫が背中押したのは間違いねぇだろ。じゃあうちが面倒見るのが筋ってもんだ。なんだお前、ひと一人自分の意思で雇うこともできねぇのか。ったく、態度とおっぱいばっかりでかくなって、中身は女学生のまんまだな」


「おっぱい関係ないでしょう!」


さらりと胸に触る恭助の手をバシンと叩き落として、奈落は声を張り上げた。いい事を言っているのに行動が全く伴っていない、残念な助平爺である。まだ身内であるから許されるおふざけではあるのだが。


「ですが…いいんですかじいさま?そんな、私の我儘で…」


「奈落」


恭助が、諭すように声をかける。叩かれた手をさすっているのは、とりあえず気にしてはいけない。真面目な恭助の口調に、奈落は二の句を止めた。


「…懐かしいなぁ『奈落』。お前にその名前を付けた時、儂ゃお前の両親に滅茶苦茶どやされたもんだよ。縁起でもない、とんでもない名前を娘に付けるな、とな。だが、儂は譲らなかった。その名前を付けると儂は決めとったからな」


「…極楽の対が奈落。酸いも甘いもその目で見て、自分の頭で考えろ、でしたっけ?」


昔に聞いた、自分の名前の由来である。死後の世界を思わせる名前は、子供の時分には相当からかわれたものだ。当時は正直、自分の名前が嫌いだった。


だが、縁起の悪い名前というのは、敢えて付けられる事もある。今よりも医療が発達していなかった当時などは、子どもをたくさん産んでも早くに亡くなるものも多かった。大事な子を狙う黄泉路の鬼を騙すため、敢えて縁起の悪い名を付けるのだ。


「まぁ、それもある。芝居の舞台の下の空間を、奈落と言うんだ。そこには、華やかな舞台を作り出すための仕掛けや装置、そして舞台を支える人間がいてな。そいつらが自分の役割をキチッと果たして、あの素晴らしい芝居が出来上がるのさ」


そう言うと恭助は、奈落の頭をぽんぽんと撫でた。


「お前は日陰の好きな、表舞台に出るような派手な奴じゃあない。だが、それでいい。日陰には日陰なりの役割ってもんがある。奥さんを支えろ、奈落。それがお前の役割だろ」


恭助の言葉に、奈落は唇を噛み締めた。恭助の言葉は、一言一言が重かった。


「なぁに、金の事は気にすんな。孫の我儘を聞くのはジジイの役割だ」


そう言ってニカッと笑う恭助の胸に、奈落は頭を押し付けた。恭助は奈落の頭をまたぽんぽんと撫でて、少し照れたのかするりと抜けて薬棚の方へ入っていった。


「…あの、奈落先輩」


様子を静観していた千代が口を開いた。千代は手にしていたグラスをテーブルに置いて、両手を胸の前で組んでいた。


「…先輩は、友達に戻りましょうと仰いましたが、私は正直、先輩との関係が友達でも姉妹でも、なんだって構わないんです。でも…うまく言えませんが、先輩の事は変わらずお慕いしています。ですから、お力になれるのであれば、できればお近くで先輩を支えて差し上げたいのですが…如何でしょうか?」


恭助に、そして千代に、ここまで言われて最早拒む理由などはなかった。奈落は千代の両手を取って、しっかりとその目を見つめて言った。


「…よろしくお願いします」


千代がホッとしたように笑う。その表情に、奈落もつられるように笑った。


そんな二人を、恭助もニヤニヤしながら見守っていた。


「ほれ、奈落」


突然、恭助が奈落の方に何かを投げて寄越した。吃驚した奈落は一瞬取り逃がしたが、手の中から跳ね上がったその何かを辛うじてまた掴み取る事ができた。


「じいさま!なにするんですか危ない…これは翡翠…いや違う…?」


奈落は掴み取った石を眺めた。翡翠に似た青緑色をしている。しかし、翡翠よりも色合いははっきりしていて、透明度は低かった。


「天河石だ。その石はな、薬にはならん。いや、ならんと言うか、どんな薬効があるのかまだ研究中の石だ。南米の、それこそ天河のように大きな河の流域で取れるという話だが、まだ定かではない。だがその河には、面白い話があってな」


そう言いながら、恭助は懐から煙管を取り出して刻みたばこを入れていた。そしてマッチを擦って火を付けると、火皿に近付けてすぐに消した。恭助は少し煙を口に含むと、ゆっくりと煙を吐き出した。


部屋に漂う煙を眺めながら、恭助は話を続けた。


「河の名前はアマゾン川。その名前は外国の神話に出てくる女だけの部族『アマゾネス』に由来している。アマゾネスは強い絆で結ばれた女戦士たちでな。友情や勇気、忠誠を重んじ、仲間を何よりも大事にするんだそうだ」


そこまで言うと、恭助はまた煙管を咥えて煙を吸い込んだ。火皿の煙草が赤く燃える。恭助は真上を向いておどける様にフーッと煙を吹き出すと、店の片隅にある煙草盆に灰を叩き落としながらまた笑った。


「お前たちに似てるなと、ジジイは思ったんだがの?」


「…成る程」


奈落は手の中の天河石を転がしながら眺めた。南方の海の水を湛えたような鮮やかな水色。そのアマゾン川とやらも、このような色をしているのだろうか。


千代の視線に気付いて、奈落は微笑みながら千代に天河石を渡した。千代は手のひらに天河石を受けると、それをつまみ上げて光にかざした。


しばらくそうして石を眺めていたが、また千代は奈落に視線を戻して微笑みかけた。


「…綺麗ですね」


「さてと、忙しくなるわい。人を二人も雇ったんじゃ、事業を拡大せねばならんのぅ?」


煙管を煙草盆の上に置いて、恭助は手を叩いた。恭助の言葉に千代が不思議そうな顔をする。


「二人?」


「ああ、奥さんは知らんかの。こいつの婿じゃ」


「じーいーさーまー!!!」


奈落が声を張り上げる。しかし、時既に遅しだった。


「…奈落先輩?先日、結婚するつもりはないと…」


千代の言葉に、奈落が恐る恐る千代の方を振り返る。顔に張り付いた笑顔がやたらと怖い。


「いや違いますこれは私も嵌められたんです。第一まだ結婚してませんし婿でもありませんしあんな奴…」


あんな奴。そこまで言って、奈落はふと言葉を止めた。よく考えたら、自分に彼をそんな悪し様に言う権利などはない。彼の好意に付け入って甘えたのは、自分の方ではないか。


「…悪い人ではないんです。ですが…私はまだ…」


口調を緩めた奈落を見て、千代はにこりと笑って奈落の手を取った。


「ふふ。先輩はやはり可愛らしい人ですね」


そう言うと、千代は奈落の頬に軽く接吻をしてすぐに離れた。奈落が驚いていると、千代は天河石を奈落に握らせた。


「別に怒りませんよ。これからは仕事仲間ですから、仲良くさせていただきます。お会いするのが楽しみです」


「…はぁ…?」


奈落は千代の真意を掴みかねていたが、千代の笑顔に、まぁ、いいかと誤魔化されてしまった。よく考えれば、千代の本心など奈落にはずっとわからないままだったのだ。エスの関係を結んだことも、彼女が夫と離縁したことも。このまま千代に振り回され続けるのも、楽しいかもしれないと奈落は思った。


「遊んどる場合ではないぞ。奈落、お前喫茶をやりたいと言っていただろう。名前は決めているのか?」


名前。恭助に声をかけられて、奈落は何も考えていなかったことを思い出した。しかし、手元の青い石を見て、柔らかく微笑みながら口を開いた。


「そうですねぇ…『天河茶房』とでもしましょうか」

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