第4話
店の中に、夕日が差し込んでくる。
水晶焜炉にかけた湯が沸くのをぼんやりと眺めながら、そういえばあの時もこんな感じの時間帯だった、と奈落は思い出していた。
奈落は水晶焜炉の上の薬缶を手に取ると、グラスの中に何の石を入れるかしばらく迷って、結局何も入れない事にした。代わりに、薬棚から袋を手に取ると、中から石と同じような大きさの茶葉の塊を取り出してグラスに入れ、薬缶の湯を注いだ。茉莉花の香りがグラスから漂い、塊が解れて花のように開いていく。 先日取り寄せた大陸の工芸茶だった。
利一は、本当にここに住む事になったらしい。恭助に確認を取ったが「何の問題があるんじゃ?」と悪怯れもせずに言うばかりだった。2階には少しずつ利一の荷物が運び込まれ始めている。先日の事を思い出すと身震いするばかりだったが、最早考えても仕方なさそうだ。それに、言うほどここに寝泊まりするわけではないらしい。どうやら、恭助は石を買付ける人員が欲しかったらしく、従業員として住まわせると言う事だった。ということはほぼ外を出歩く事になるので、ここに常駐する訳ではないらしい。それならそうと、先に行って欲しいと奈落は思った。
先日の風吹の話は、にわかには信じ難かった。しかし、嘘を言っているとも思えない。奈落は小さく溜息をつくと、グラスに淹れた茶を少し口に含んだ。茉莉花の香りが口の中に広がる。このところ、少し色んなことがあり過ぎた。こんな風に落ち着いて店で茶を飲むのはいつ振りのことだろう。そういえば最近は、ポツリポツリと客も入ってくるようになった。女学校に向かう乗合バスの停留所が店の前にできたせいもあるだろう。バスから降りた女学生が、ソワソワしながら店の中を覗いていくようになった。この機会を使わない手はない。以前から考えていた雑貨や喫茶の案を、そろそろ軌道に乗せてもいい頃かもしれない。
店の扉が開く音がした。こんな時間に客だろうか、と思った刹那、覚えのある香りに胸を締め付けられた。
月長石。そう思うや否や、奈落は立ち上がって入り口に目をやった。そこに立っていたのは大きな花柄のワンピースを身に纏い、思いきり髪を短く切った千代の姿があった。その胸には、奈落の月長石の首飾りが凛と輝いている。
「…千代…さん」
名前を呼ばれた千代はしかし、奈落の顔を見ると恥ずかしげに髪を触った。
「…あの…ええと…、髪を、切ってみたんです。ちょっと、モガっぽくしてみたんですけど…なかなか、勇気が要りま…」
千代が言い切らないうちに、奈落は千代に駆け寄ってひしと抱きしめた。千代は一瞬面食らったが、顔を綻ばせて奈落の背に手を回した。
「貴女は…どうして…」
「…あの人ね。私に
千代は、奈落を宥めるようにポンポンと背中を叩きながら、ぽつりぽつりと、そんな事を語った。そのまま千代は奈落の短い髪を指で梳いて、くすりと笑った。
「先輩とお揃いですね」
その言葉を聞いて、奈落は千代を抱き締める腕に力を込めた。はっ、と、千代の口から息が漏れる。苦しいのかもしれない。だが、奈落は今腕の力を緩められるほどの余裕は無かった。
「千代さん…!」
「ふふ、先輩。苦しいですよ…」
千代の声が、少し潤んでいた。奈落は感極まって、涙すら流れなかった。
女性が髪を切る、とは、相当の事である。モガやモボがあらわれ始めて、短髪の女性がその存在を認知されるようになってきても、まだまだ身近な存在では無いのだ。事実、女性が短髪にすれば家から勘当される事すらあった。仕事の為とは言え、奈落も例外ではなかった。
「私は、あんな事を言ったのに…貴女にお別れを…」
「ええ…でも、何故でしょうね?外せなかったんです、この首飾り。先輩が、守ってくれてるような気がして」
その言葉に、奈落は胸が詰まった。千代のために奈落が、利一に体さえ開こうとした事を千代は知る由も無い。それなのに、千代はその小さな石で奈落を信じたのだ。
「傷…良くなりましたね。痕が残らなくて良かった…」
奈落は、痣が広がっていた千代の額に手を寄せた。薬がよく効いたのだろう。痣も傷跡も綺麗に癒えていた。
「先輩からいただいた薬のおかげです。すぐに良くなりました」
ふわりと千代から漂う月長石の香り。奈落はふと思い付いて、千代から離れて薬棚に向かう。そこから月長石を取り出すと、先ほどの工芸茶のグラスに落とした。茉莉花茶の香りと、恐らくは奈落にしかわからない月長石の香りが、絡み合って調和している。奈落はそれを口に含むと、自分の中で何かが腑に落ちた感覚を得た。いつの間にか、あれ程嫌悪していた月長石の香りを自然に受け入れている自分がいた。
「…先輩、それは?」
「ああ、すみません。…鉱石茶はご存知ですか?」
奈落はグラスを持って千代に歩み寄ると、飲みさしのグラスを千代に渡した。花のように広がった茶葉の上で、乳白色の月長石が光を反射して輝いている。
「話には聞いたことがあります。体に良い薬茶だと…これがそうですか?」
「これは大陸の工芸茶に石を入れたものです。何の石を入れるか迷っていたのですが…千代さんのお顔を見て決めました」
「…月長石、ですね」
「ええ」
千代はグラスに口をつけると、茶を少し口に含んだ。千代がグラスを口から離すと、唇をつけていた部分に紅がついている。奈落は表情に出さなかったが、その紅跡に少々気持ちをかき乱された。
「茉莉花の香りと…仄かに、甘い香りがするような…?」
「えっ?」
千代はグラスの中を繁々と眺めている。香りの出るものは工芸茶しか使っていない。
「…わかりません。そんな気がしたんですけど…気のせいかもしれません」
そう言って戸惑った表情を見せる千代に、奈落は優しく笑いかけた。
「いえ…そうですか。ふふふ、ありがとうございます」
奈落の言葉に、千代は不思議そうな顔をした。なぜか自然と零れた感謝の言葉。千代が石の香りを嗅ぎ分けたのかどうかはわからない。だが、それが気のせいでも、何故か奈落は嬉しいと思った。
「…もしかしたら、石の香りかもしれません。石に敏感な体質ですと、普通の嗅覚で感じる香りとは違う『石の香り』がわかることがあるんです」
「では、私はそういう体質かもしれないんでしょうか?」
「さぁ…もしかしたら、そうかもしれませんね」
すると、千代はパッと顔を輝かせた。
「では!…あの、奈落先輩のお仕事のお手伝いをすることはできるでしょうか…?」
千代の発言に、奈落は呆気にとられた。しばし言葉を失って千代のほうを見ていると、千代は必死な表情で言葉を続ける。
「あの…甘えるようで申し訳ないんですけど、百香も連れて家を出ましたので、働けるところを探しているのです。もし、先輩がよろしければ…ですが、ここで雇っていただくことはできるでしょうか…?」
千代の言葉が胸に刺さった。彼女の助けになるのなら、是非とも申し出を取り入れたいところだ。しかし、自分一人でも自転車操業になっているのに、彼女を雇い入れる余裕があるだろうか。
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