第2話
「…なんかさぁ。旦那、最近どうしたの?」
奈落と並んで歩いていた風吹は、もうどうしても聞きたかったことをついに口に出した。2人で店を出た時から、いやその前から感じていた異変を、いつ言うかいつ言うかとずっとうずうずしていたのだ。
「何がだ?」
シレッと返す奈落の声は、しかしどこか楽しげだ。少し前の重苦しい空気は何処へやら、最近はいつも飄々としている。
「何がだ?じゃないよ。なんだか最近、色気付いてない?そんな伊達襟、今まで使ってなかったでしょ」
そう。変わったのは空気だけではない。少しずつではあるが、装いが変わっているのだ。
いつもの中折れ帽と着物、羽織は変わっていない。だが、以前は中にシャツを着て、胸元を緩め角帯を腰に巻く男の着付けだったのに、きちんと胸元を締めて
「…心境の変化と言うやつかな」
「なんだか急に軟派になった気がするなぁ。いいの?女だってバレちゃうんじゃない?」
「バレたら、その時はその時だ」
そう言って笑う奈落に、風吹は面食らった。こんな事を言う人間だったろうか。いや、いい意味で肩の力が抜けたのだろうか。
初夏の陽気が二人を照り付ける。そろそろ梅雨が明けるのだろうか。紫陽花はまだ鮮やかな色で咲き誇っているが、蝉の鳴き声も聞こえてくるようになった。夏祭りの準備で浮足立つ人々。町の活気を肌で感じるようになった。
二人は目的地に着いた。カフェー グルナ。利一が勤めているカフェーだった。
二人はドアベルを鳴らして店内に入ると、給仕をしている利一を見つけて手を振った。
「おいちちゃーん、来たよー」
「はぁーい、ちょっと待ってくださいねー。ミドリ姉さん、お席に案内していただけますかー?」
利一にミドリと呼ばれた女給は、小さく舌打ちして2人に目を向けた。ミドリは2人を空いてる席に案内すると、メニューを手渡してそそくさと去っていった。チラリと見えた横顔の目元に、艶っぽい泣き黒子があるのが見えた。
「あれ?今の女給さん、こないだ辺さんとイチャイチャしてた人じゃない?」
「そうなのか?」
「そうだよー。あの泣き黒子、特徴的だもん」
「ふうん」
奈落は興味無さげに応えたが、横目でチラリとミドリを見た。髪にパーマネントをあてて流行りの耳隠しに結い上げており、まるで女優のように人目を引く美人な女給だった。
「あら、妬けちゃいますわ。わたくしよりもミドリ姉さんのほうが気になります?」
手の空いた利一がいつのまにか席の近くに来ていた。ニコニコと愛想よく笑うその表情からは、先日の面影は見当たらない。奈落は思わずあからさまに、げんなりとした顔をしてしまった。
「なんだい旦那。面白い顔して」
「…いや。なんでもない。それより利一、コレ」
奈落は手にしていた風呂敷包みを利一に押し付けた。先日利一から借りた着物だった。
「あら、こんなに早く?もっとゆっくりでもよかったんですけど」
「そういうわけにもいかんだろう。一応洗濯はしておいた。…助かった、ありがとう」
利一が風呂敷をめくって中を覗くと、先日奈落に貸した着物が綺麗に畳まれて入っていた。それと、少し小ぶりの紙箱が入っている。
「これは?」
「ただ借りたものを返すわけにはいかんからな。何が好きかわからんから、とりあえず饅頭にしたんだが」
利一が取り出した箱を、風吹が覗き込む。
「へえ、かず屋のじゃん。この饅頭おいしいやつだよ」
「…よく知ってるな」
「ここのはあんこが絶品。こし餡がおすすめよ」
「…こし餡だ」
奈落のやや照れたような顔に、利一は嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます。わたくし、甘いもの大好きなんです。大事に食べますね」
あまりにも素直なその表情に、奈落は呆気にとられた。
なんだ、こんな顔もできるのか。先日の得体の知れないような、腹黒さを感じる表情が強烈過ぎてそういう印象を持ってしまっていたが、今の利一の素直な表情に奈落は少し警戒を緩めた。
「おいちちゃん、僕、コーヒーちょうだい。ミルクと砂糖アリアリね」
「私はブラックで」
「はぁーい」
利一は返事をすると、箱を風呂敷の中に戻して抱え直し、カウンターに戻ろうとした。しかし、途中でふと足を止めた。
「そうだ、奈落さん。今日の格好、とても可愛らしいですね!」
そう告げると、利一はパタパタとカウンターに走り去って行った。
「いやぁ、おいちちゃん可愛いねぇ」
「そうだな」
「えっ」
風吹は自分が話題を振ったにも関わらず、肯定の返事が返ってきた事に驚いて奈落の方に振り返った。奈落は明後日の方向を向いていたが、耳まで真っ赤になっているのがありありとわかった。
「えっ…旦那…えっ?」
奈落の反応が信じられないというように、風吹は狼狽するしかなかった。
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