天河石の約束

第1話

「…ちょっと、いいか」


夕餉の支度をしていた千代のもとに壮吉が声をかけたのは、それからしばらく経ったある日のことだった。普段土間に訪れることのない壮吉の姿に、千代はやや面食らった。


「…はい、なんでしょう」


答えながら、千代はやや身構えた。こんな風に声をかけられるのは、久しぶりの事だった。そうでなくても、少し前には手を上げられている。


壮吉の手が、千代の額の傷があった場所に触れた。千代はあからさまにビクリとして、一歩後ろに退いた。


「あっ…すみません…」


「…いや、こっちこそすまなかった。怪我は良くなったのか」


「…お友達から、いいお薬をいただきまして」


壮吉が謝ったことに、千代は内心驚いていた。壮吉は、普段そうそう自分の非を認める事をしなかったからだ。


「そうか…いや、常盤先生から聞いてな。…あの人は、女性だと」


夫の話しているのが奈落の事だと、千代は一瞬気付かなかった。夫がそれに気づいていなかった事を、千代は今知ったのだ。


「男性だと思っていたんですか」


「お前が不貞をしていると思っていた。それで、腹が立っていた」


「不貞…」


千代は胸元を握りしめた。見えないその奥に隠れる月長石を、掴むように。


千代は薄く笑って、壮吉に訊ね返した。


「カフェー遊びは、不貞にならないのでしょうか?」


「…知っていたのか」


「目元に黒子のある女給さんでしょう?可愛らしい方ですよね」


そう言って、再び野菜を切り始める。気付いていないと思っていることの方が、千代は驚きだった。もう5年近くも、人目も憚らずに通い詰めていたというのに。


「もう、あそこに行くことはない」


予想外の壮吉の言葉に、千代は手を止めた。


「お前が子どもを産むまでの間だけと思っていたんだ。腹の子によくないと聞いたから」


千代は壮吉のほうを見ずに、彼が話すのをただ聞いていた。壮吉のほうからは千代の顔が見えないので、彼女が今どんな表情をしているのかは見えなかったが、構わず壮吉は続けた。


「百香ももう4歳だ。周りからも次の子をと言われる」


壮吉の口調はぶっきらぼうだったが、これまでのことを考慮しても、恐らく彼としては最大の優しさだった。まず彼がカフェー通いを辞めるという事が、千代には信じられなかった。


「…なにか、あったんですか?」


「それは、お前には関係ない」


そう言われるだろうとは思っていたが、思わず千代は壮吉に聞いてしまっていた。これまで別にカフェー通いをしながらも、壮吉と千代の間に夫婦の営みがなかったわけではない。だから、周囲に子どもを望まれたというだけなら、壮吉にカフェー通いを辞めるだけの理由はないのだ。


壮吉は、懐から包みを取り出して千代に手渡した。千代は包丁をまな板の上に置いて手ぬぐいで手を拭き、差し出された手ぬぐいを受け取った。


「開けていいんですか?」


「好きにしろ」


千代は少し思案して、包みを開くことにした。中からは、鼈甲べっこうがあしらわれたかんざしが出てきた。


「…まあ」


正直、千代が使うには少々派手めの品であった。しかし、この手のものを壮吉から貰ったのは、初めてではないだろうか。


「これは、私に?」


「お前以外に誰がいるんだ。百香がつけるものでもないし、お袋にこんなものは似合わんだろう」


彼に、贈答品で妻の気を引くという概念があったとは思わなかった。千代は立て続けの想定外の出来事に、眩暈すら感じ始めていた。


「…ありがとうございます」


礼の言葉を告げると、壮吉は何も言わずその場を離れていった。千代はしばらくその簪を眺めていたが、包みなおして懐にしまうと、また包丁を手に取って夕餉の支度を続けた。






「…へぇ、じゃあ千代さんはそうすることにしたんだね」


「そのようだ。まあ、今回のことであそこの倅も少し丸くなったようでな。儂も多少は便宜を図ってやることにしたよ」


「すごいねぇ、辺さんに何があったんだろう。ねえ、おいちちゃん」


「さぁ?わたくしは何も存じ上げませんわ」


「よく言うよ。今回の首謀者じゃん」


「まぁ、儂の見込んだ男だからな。このぐらいできて当然だ」


「極楽堂さんが見込んだとか、おっかねぇ。くわばらくわばら」


「どういう意味じゃ」


「なんでもなーい」


「それより、恭助さん。約束、忘れないで下さいましね」


「おう。そのぐらいお安い御用じゃ」


「えー、なになに?何の話?」


「こっちの話じゃ」


「まだ秘密です」


「ちぇー、つまんないの。じゃあ千代さんのとこはそれで解決したとして、後は旦那だよねぇ」


「まぁ、あいつはどうとでもなるわい」


「ははは、ひでぇな。自分の孫じゃん」


「どうとでもなって貰わんと困るんじゃ。儂らがここまでやってまだウジウジしてるようでは、あの店は継げん」


「…まぁ、確かにね。もう少ししゃんとしてもらわないと僕も困るなぁ」


「大丈夫ですよ。…彼女、結構強いと思います」


「おっ、意味深。さてはおいちちゃん、旦那と何かあったー?」


「ご想像にお任せしますわ」


「…おいちちゃん、その笑顔コワイ。こんな腹黒に惚れられた旦那も大変だなぁ」


「それより常盤。お主の方はどうなっとる」


「ああ、こないだ旦那に注文書を渡したよ。旦那、勘がいいのな。ヒヤヒヤしたよ」


「まぁ、あいつにはまだ話しとらんからな」


「これまで通り、極楽堂さんが出してくれればいいだろ?何でこんな回りくどいことするのさ」


「…儂とて歳だ。いつどうにかなるかわからんのだから、ある程度はあいつにも手伝って貰わんと困る。いずれは話すが、今はその時ではない。常盤、お前には苦労をかけるが、あいつの力になってくれんか」


「…まぁ、いいけどね。僕は死神ですから〜」


「すまんな。…あの子は元気か?」


「多分ね。元気なんじゃない?死んだとは聞かないから、生きてると思うよ」


「会ってはいるのか?」


「たまーにね。でも、そろそろやめたほうがいいと思ってさ。今は会ってないんだー」


「…そうか」


「えっ、何々?やだー、やめてよそんなお通夜みたいな顔するの。僕が自分の判断で決めたことなんだから、別に気にしてないよー」


「ふむ。そうか。…そうだな」


「…では、今日はこのぐらいでお開きにしましょうか。何かあったら、恭介さんに連絡します。それでいいですね?」


「うむ、よかろう。二人とも、付き合わせて悪かったの」


「とんでもありません」


「じゃあまたねー。おやすみー」

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