1話 うたたね必勝法

 春眠暁を覚えず、という四字熟語がある。


 と、後ろの席をふり向いて、三景みかげ こんに言うと、いや四字熟語じゃないだろう、と怖い顔で言われた。ちなみに紺の怖い顔はデフォルトで、怒っているわけではないことを、中学からの付き合いのおれはきっちり理解している。よって、そんなことでは怯まない。


「つまり、昔からそういう言葉があるのだから、授業中に寝てしまうのはもうどうしようもない。歴史の大いなる流れには逆らえないのです、って古典の森先生に言ったら納得してくれると思う?」

「さっきの現社で、『先生の声から強力なアルファ波が出ていて』っていうのよりは面白いかもな」

 絶対に面白いとは思っていない顔で紺が言った。そんな顔をしつつ、内心は大爆笑なのだろうか。中学からの付き合いだけれど、そこまではわからない。


「紺は眠くならないの?」

「眠いよ」

「じゃあ、どうして寝ないでいられるのさ」


 人間は二種類にわけられる。

 授業中に眠ってしまう人間と、眠らない人間だ。

 しかし、人類はみな兄弟。

 おれは、この厚くて高い壁を乗り越え、眠らない人間と固く握手をかわしたい。


「寝ないようにしてるから」

「それがわからないんだよ」

 壁はおれの予想よりもはるかに厚く高いようだ。


 しかし、ここで諦めるわけにはいかない。ぴかぴかの高校生活が始まったばかりの今、さっそく先生のブラックリストにのるなんて、ぴかぴかどころかお先真っ暗だ。


 おれは立ち上がり、窓際の席でぼんやりしている紅井あかい 一夏いちかの傍まで行った。

 一夏は頬杖をつき、眠そうに窓の向こうの空をながめている。いかにも、授業中に眠ってしまいそうな雰囲気が全身からあふれていた。ここに仲間がいた。自然と頬がゆるむ。

 一夏は高校生になってからの友達だけれど、今この瞬間、親友にランクアップした。おれの心の中で。


「一夏」


 呼ぶと、一夏は頬杖をついたまま、スローモーションでこちらを見上げた。前世はナマケモノだったのではないかと思えるほど、そのスローモーションっぷりがそっくりだ。


「ん?」

 言葉を節約しているらしい。

 短すぎるひと言で、おれの用事を促した。


「授業中に居眠りしないコツって何かあるか?」

「……」

 一夏は口をわずかに開けて、おれを見た。

 漫画ならば、ぽかん、という語句が一夏のとなりに現れていただろう。

 しばしそんなふうにおれを見たあとに、一夏はかけていた眼鏡の位置を直し、猫っ毛を指先で引っ張って伸ばした。染めているのか、もともと色素が薄いのか、陽射しに当たると赤茶色になる。


「一夏。おれは真剣にこの春の睡魔を撃退したいんだ。協力してくれ。親友だろう?」

「え? 親友?」

「ごめん。親友なんかじゃない。大親友だ」

「ただのクラスメイトで良いのに」一夏が言う。ショックで思わず泣きそうになっていたら、一夏は頬杖を止めて、座り直した。「おれはね、目を開けながら眠れるよ」


 一夏は仲間ではない。うたた寝上級者だった。


 何も解決しないまま、授業の時間が始まってしまった。

 古典の授業である。

 数ある授業の中でも、かなりの強敵だ。古典の森先生はおじいちゃん先生で、少々掠れた低音ボイスで、丁寧に話す。居心地の良い空気を発していて、つい、こちらもリラックスしてしまうのだ。


 教科書をひらく。


 ノートをひらく。


 記憶があったのはそこまでだった。


 つん、と背中に刺激を受ける。

 はっとして覚醒し、「いただきます!」と言いながら立ち上がった。

 何か夢を見ていたのだと思うけれど、立ち上がった瞬間に夢の内容は霧散してしまった。それどころではない。授業中に、突如意味不明なことを叫んで立ち上がったおれは、注目の的だ。


「すみません……」

「お昼までもう少しだから頑張りましょう」

 森先生が穏やかにほほ笑んで言う。

 くすくすと笑い声が起きて、穴にもぐりたい気持ちだ。


 うらめしげに後ろをふり向くと、紺がにやにやしながら、シャープペンを指で回した。犯人はこいつだ。

「睡魔は撃退されたろ?」

 そうだけど、そうじゃない。

 でも言い返せない。

 仕方なくおれは、下唇を突き出して、不満を主張するにとどめた。

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