序章

五人の若者たち


 時は敬徳けいとく十九年じゅうきゅうねん初秋しょしゅうのころ。

 所は花国の王都“瑞苑ずいえん”にある宮城きゅうじょう花葉城かようじょう”。

 その宮城の一角にあるのおくみや(他国の後宮こうきゅうと同じで、君主くんしゅ配偶者はいぐうしゃやその子どもたちが住む私的してきな空間)の四阿あずまやでは、見目みめうるわしい五人の若者たちが、思い思いにくつろいでいた。



◆◇◆◇◆



 吹いた風は、すずしかった。

 その風に、季節の移ろいを感じたのだろうか。

 四阿の前で一人、きんことかなでていた伯佑はくゆうは、ふと顔を上げ、夜空を眺めた。

 そこに広がるのは、夜のとばりが下りた空にまたた満天まんてん星々ほしぼしと、金色こんじき望月もちづき

 今日は、中秋ちゅうしゅう名月めいげつにも負けないほど美しい、満月まんげつの夜だ。それは、秋の訪れを示すには十分すぎるほど美しくて……。

「きれいな月ですね……」

 伯佑は、思わずぽつりと呟いていた。座っていた椅子いすから立ち上がり、四阿から庭園の方へ降りる。そうして、彼はしばらく、月の輝きに酔いしれていた。

 そんな彼に、ゆっくりと近づく一人の少年がいた。兄のすぐそばまで来たその少年は、そこから静かに彼に声をかけた。

ゆう兄上」

 伯佑は、声のした方へ振り返る。

 そこには、彼の末の弟が、笑みを浮かべて立っていた。

「……季安きあん

「はい。佑兄上」

 季安は、うれしそうにうなずいた。さらに一歩、踏み出し、伯佑へと近づく。

 季安はもう一度、佑兄上、と親しみと敬意けいいを込めた愛称あいしょうで伯佑を呼ぶと、彼に小さな茶杯ちゃはいを差し出した。

「どうぞ、召し上がってください。僕が、おれしました。その…………兄上の、お口に合えば、良いのですが」

 言葉の最後の方は、自信なさげであった。伯佑の目を真っ直ぐに見ていた視線が、地面に落とされる。

「そうですか。ありがとうございます、季安」

 伯佑は、季安の元に歩み寄り、差し出す手から、そっと茶杯を受け取った。

「いただきます」

 ただよう茶の香りを堪能たんのうした後、伯佑は静かに茶杯を傾けた。ゆっくり、一口一口味わうように、茶を飲む。

 最後の一滴まで丁寧に飲み干した伯佑は、自分の姿を固唾かたずを飲んで見守っていた季安に、やさしく微笑んだ。

「おいしいお茶を、ありがとうございます。季安。また、上達しましたね。この腕前うでまえならば、よそ様にお出ししても、何ら問題はありませんよ。自信を持ちなさい」

 そう言って、伯佑はからの茶杯を季安に返した。

「…………ありがとうございます、佑兄上。そうおっしゃってくださり、とても光栄に存じます。うれしいです」

 季安は、月明かりでもわかるほどほほを赤く染めながら、返された茶杯をうやうやしく受け取った。それから、照れくさそうに月を見つめる。

 伯佑も、再び空に目を向けた。

 二人は、何も言わずに、そのまま空を見上げていたのだが。

「くぅ〜。月見酒は最高だぜ〜」

 四阿の椅子で、酒杯を傾ける一人の酒飲みが、風流に浸っていた二人の雰囲気を見事に壊したのであった。

 その声の主の方を向いた伯佑は、案の定の光景に、額に手を当てて、ため息をついた。

「……………………仲真ちゅうしん。また飲んでいますね」

しん兄上……っ」

 季安は、あきれを通り越して、一種の怒りを覚えていた。せっかく、一番尊敬する佑兄上と一緒に、月を眺めていたのに…………。特にここ数年はお互いに忙しくて、長兄と滅多めったにこうした時間を持てなかった季安は、それを邪魔じゃました次兄じけいを思いっきりにらみつけた。大切な佑兄上を取られた、と感じた季安の怒りは、かなり大人げなかった。

 そんな二人の様子など一向に気にしない仲真は、悪気わるぎなど一切ない笑顔で手を振った。

「兄上。そこにいらっしゃいましたか。兄上もぜひ、ここで一緒に飲みませんか?」

 そう言った彼は、片手に持つ酒瓶さかびんを軽く振ると、片眼かためをつぶって見せた。

 ………………みょうさまになっているから、余計に何も言えない二人である。

 仕方なく、庭先から四阿の中に入った伯佑と季安は、空席を見つけると、そこにそれぞれ座った。

 相変わらず酒瓶を片手に持ち、一人手酌するすぐ下の弟に、伯佑はこう言った。

「…………私は遠慮します。今日は飲みたい気分ではありませんので。それにしても仲真。飲み過ぎではないですか? 若いころから大酒飲みだと、長生きできませんよ」

「少しぐらい、いいじゃないですか。伯佑兄上。いつもは酒なんて、ゆっくり飲む暇などないんです、俺には。それに酒は、百薬の長、と言うではありませんか?」

 兄の忠告など、どこに吹く風。仲真は、酒杯に注いだ酒を悪びれることもなく、ぐっとあおる。

 その言葉に、四阿で囲碁をしていた伯佑の三番目の弟、叔宝しゅくほうが、心底しんそこあきれた、というように口をはさんだ。

「…………それも、ぎたるはなおおよばざるがごとしの間違まちがいだろう、この愚兄ぐけい

「何だとう! 叔宝、お前、生意気なことを言いやがって!」

 その言葉に、真っ先に反応を返す仲真。実は仲真は、とても沸点ふってんが低い。伯佑の六人いる兄弟妹きょうだいの中でも、一番直情的だ。

 それをよく知っている叔宝は、次兄で遊ぶのがひそかな楽しみだった。予想通りの反応をしてくれた次兄に、彼は内心ほくそ笑む。

「なぜって…………それが本当のことだから、だろう? いい加減、そろそろ認められた方が良いと思いますよ。あ・に・う・え・サ・マ」

 白の碁石ごいしを片手でもてあそぶ叔宝は、仲真の方を見ると、小馬鹿にしたように笑った。

「〜〜〜〜〜〜っ!! 頭に来るような言い方するんじゃねぇ! だいたいお前から兄上サマって呼ばれる方が怖いぞ! 気持ち悪いからやめてくれ!」

 悪寒おかんが走ったのだろうか。自分の身体をさする仲真である。

「こらこら仲真、叔宝。やめなさい。いつまで、子どものケンカのような言い争いを、するつもりかい? 君たちももう、いい大人だろう? まったく……」

 黙って見ていた伯佑は、長兄として、ここで始めて二人のケンカを止めに入った。本日二度目のため息をつく。

「そうですよ、しん兄上とほう兄上。いい加減にしてください」

 季安も、負けじと次兄と三兄に物申ものもうす。本当に、やめてほしかった。

 この二人は、昔から事あるごとに衝突しょうとつを繰り返している。理由は詳しくは知らないが、少なくとも季安が物心ものごころついたときから、こんな調子だった。そのたびに、自分たちの長兄である伯佑が、仲裁に入るのは、最早もはやお決まりと言っても過言かごんではない。尊敬そんけいしてやまない佑兄上のお手をわずらわせるこの二人の兄の事が、季安は少しばかり苦手であった。

「そうそう。いつまでも、終わりが見えないくだらないケンカは、しない方がいいですよ。二ノ兄上と、三ノ兄上」

 そこに、新たな声の主が現れた。伯佑の四番目の弟にして、季安のすぐ上の兄、秀玉しゅうぎょくだ。

 彼は、叔宝の対戦相手として、共にしていたのである。

 その声に自分が碁の最中さいちゅうだったことを思い出した叔宝は、再び碁盤ごばんに向き合った瞬間。――――悲鳴に近い、叫び声を上げた。

「ああぁ――――――っ! ちょっと秀玉、いつの間に何てところに打っているんだよ――――っ!」

 叔宝が碁盤から目を離し、次兄と言い争いをしていたすきに、しっかりと黒の碁石を(叔宝にとっては)かなり痛いところに打っていた秀玉は、三兄の驚いた声に顔を上げると、にやりと笑った。

「よそ見をしていた人が悪いんですよ、三ノ兄上。ま、これこそ、生き馬の目を抜くってところですかね」

 …………抜け目のないというか、ちゃっかりしているというか。

「勝負あり、ですね。三ノ兄上」

 そう言うと、更に笑みを深くした秀玉の顔を見て、白の碁石を持ったまま動きを止め、灰になった叔宝。その肩を、仲真はあわれみと、悪かった……という謝罪の気持ちを込めて、そっとたたいた。

 しーん、と不気味ぶきみなほど静かになった四阿。先ほどのにぎやかさなど、どこに存在していたのだろうか……? と思わず季安が感じてしまうほど、そこは重い沈黙ちんもくが支配していた。

 ただ、どこかから、りんりん…………、りんりん…………と、秋の虫の声が聞こえる…………のみである。

 そんなどんよりとした空気に、季安が堪え切れらなくなった…………ちょうど、そのとき。

「やはり、ここに居ったようだな。我が息子たちよ」

 四阿の入り口に立つ、一人の女人にょにんがいた。そこに突如として現れた新たな声の主に、その場にいた五人は仰天ぎょうてんする。

 その証拠に。

「は、母上!?」と、伯佑が珍しく素っ頓狂な声を上げれば。

「うそだろ?!」と、仲真は大慌てで酒瓶を自分の後ろに隠す。

「母上が……?」と、気分は塵であった叔宝が正気に戻れば。

「なぜ……こんなところに、」と、秀玉は二の句が継げない。

 最後に、「は、母上!」 助かった! ありがとうございます、母上! と、母の登場を素直に喜んだ季安。

 …………反応は、三者さんしゃ三葉さんようではなく、五者ごしゃ五葉ごようであった。

 そうして、気を置けない兄弟同士、くつろいでいた彼らは、椅子から慌てて立ち上がり、ひざまずき、深い揖礼ゆうれい(胸の前で、手を組む礼。左手を右手の前に置く。なお、女性なら手は左右逆になる)を捧げる。

 あわを食ったように居住いずまいをただした息子たちに、女王――彼らのははおうは、笑いながらひらひらと片手を振った。久しぶりに、面白いものを見た。

「よいよい。ここは私の奥ノ宮、いわば私の家族が集う場所だ。よって、堅苦かたくるしい挨拶は、不要。みな、楽にしなさい」

「か、感謝申し上げます。母上」

 兄弟の中で一番年上である伯佑が代表して、母王に感謝の言葉を述べた。

「よい。ほら、いつまでも固い床に座るものではない。各々おのおの、椅子につきなさい」

 女王はそう言うと、四阿の上座にある椅子に、優雅ゆうがに座ったのであった。



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