君に、託すもの


「――――さてと。さあ、始めようか」


 月華たちが完全に室から去った後。月影は、竣影と正面から向き合った。


「おっと、その前に。――――竣影」


 そう言うと、月影は頭の高さくらいまで右手を上げた。それに一瞬、怪訝な顔をした竣影であったが、すぐにああ、と思い立ったようだ。彼は席から立つと、室から出て行く。

 少し待っていると、竣影は戻ってきて、また月影の前に座った。


「兄上。しばらく、ここには近づかないよう、使用人に頼んでおきました」


「ご苦労さま。ありがとう、竣影」


 こうして、人払いを済ませた月影と竣影は、居住まいを正して再び向き合った。

 

――――刹那。


 竣影の目の前には、歳若い一人の貴人がいた。纏うきぬは何一つ変わっていないのにもかかわらず。なぜなら、ふっと、月影の纏っている気が変わったからだ。

 こうして、優しい兄の顔から、珀本家の次期当主の跡取り子息の顔になった月影は、いつもとは一段ばかり低い声で話し始めた。


「竣影。実は、君に話しておかなくてはいけないことがあるんだ」


「兄上。それはいったい何ですか?」


 早く話してください。と言わんばかりに身を乗り出した竣影を、月影は軽く手で制した。


「君の疑問は、ひとまず置いといて。君は、僕がもうすぐこの屋敷を離れなくてはならないことを、知っているね?」


「はい…………。お祖父さまから、内々に話は伺いましたが…………」


「どのように?」


 ほんの少し、困惑気味に話す竣影に間髪入れずに質問を投げかける。

 竣影は、祖父に言われた言葉を思い出しながら、兄の問いに答えた。


「ええっと……、そなたの兄は、事情があって、しばらくこの屋敷を離れる。故に、そなたが兄の代行を務めよ、と」


 月影は、思わず額に手を当てて嘆息してしまった。お祖父さまめ。竣影に、言うべき大切な事実がすっぽり抜けているじゃないか。


「……お祖父さまが、おっしゃったことは正しいよ。しかし、ちょっとだけ、付け加える必要があるようだね」


 月影は、祖父の顔をなるべく潰さないように、できるだけ遠回しの表現を使うように意識した。そうでもしなかったら、祖父の文句を言ってしまいそうだったから。

 それから、彼は雑念を払うために、頭を横に振った。大切な話をするために。彼は心を落ち着かせると、静かな声で弟に念を押した。


「これから話すことは、他言無用だ。絶対に、お祖父さまや父上、母上以外には、言ってはいけないよ。いいね」


 竣影は席から立つと、さらに真剣な表情を浮かべた兄の前に、跪いた。両手を自分の口に軽く当て、腰を深く折る。それは、決して自分はあなたの秘密を洩らしませんという、誓いの礼。

 その礼を兄に捧げたまま、竣影は口を開いた。


「…………はい。珀氏竣影、ここにお誓い申し上げます。兄上」


 竣影の完璧な誓いの礼を捧げられた月影は、満足そうにうなずいて見せた。


「お立ちなさい。竣影」


「はっ。感謝いたします、兄上」


 そう言うと、竣影はすっと立ち上がった。もう一度、自分の席に着く。

 それを無言で見届けていた月影は、声を落とした。自分が抱えている、重大案件を言うために。


「では、君にだけ、詳しいことを話しておこう。僕は、王都“瑞花”に行くんだ。後嗣殿下の許婚候補として」


「後嗣殿下の……―ですかっ?!」


 竣影は、何気なく告げた兄の言葉に絶句した。驚きのあまり思わず、座ったばかりの椅子から立ち上ってしまう。そのはずみで、椅子はがたん、と言って竣影の後ろに倒れた。

 貴族としての礼儀作法を幼いころから教え込まれている竣影にしては、ものすごく行儀の悪いことである。そんなことはわかっているが、それどころじゃない竣影がいた。

 彼は、辛うじて動く頭の中で、こう呟くのが精一杯だったのである。な、なんと、そ、そ、そんなことが。


「うん、そうだ。正確に言えば、婿選びノ儀式に参加する、婿候補の一人として、だけれども」


「それで…………」


 竣影は、倒してしまった椅子を戻し、それに座りなおしながら呟いた。未だに、彼の頭はほとんど動いていない。


「そう。だから、僕は王都に行ってくるよ。ただし、僕は後嗣殿下の許婚になるなどという、畏れ多いことなんて考えていない。儀式が終わったら、またここに帰ってくるつもりだ。できるかぎり、早く」


 そこまで言うと、月影は竣影から目を離した。

 それから、おもむろにあるものを首から外す。席から立ち上がって竣影の前に来ると、それを、彼はそっと差し出した。


「君に、これを」


「これは…………っ」


 竣影は、両手でそれを受け取りながら、兄を見上げた。信じられないものを見るかのように。なぜならそれは、兄がいつも肌身離さずつけているものだったからだ。

 月影は、驚く竣影の両手を、強く握って言った。


「以前、兄上から、託されたものだ。“もし困ったことが起きて、おまえの力では、珀家の力ではどうしようもなくなってしまったら、白宗家が力を貸そう。これを持っていれば、おまえはいつでも白宗家の力を借りることができる。”と」


 それは、有事の際に、珀本家をしのぐ白西州一の貴族・白宗家の援助を受けることができるという、証に他ならなかった。


「…………兄上。僕には、できるでしょうか」


 竣影は、思わずつぶやいていた。たった今、兄から託された物の重さにおののきながら。

 竣影にとって兄は、全てにおいて、あこがれの存在であった。そんな存在の代わりを、自分は務められるのだろうか? 言えようない不安が、竣影を襲う。

 そんな弟の態度に、月影はあっさりと一蹴した。


「できる、ではない。やりなさい。やる前からそんなことを考えていたら、何も成し遂げられないよ」


 竣影は、目を見開いた。いつも穏やかな兄が、珍しく力強く言い切ったからだ。

 気が付くと月影は、竣影の前から離れ、窓のそばにいた。そこから、彼は窓の外を見る。


「…………君や僕は、とても恵まれた環境で生きているね。ここには、風雨をしのぐことのできる立派な屋敷も、飢える心配もない豊富な食料も、ある。これはすべて、白西州の民が、毎日汗水たらして働いてくれているおかげだ。決して、当たり前のことではないんだ」


 そう。すべて、当たり前ではない。そのことに自分が気が付いたのは、いつのことだったか。もう、記憶は定かではないけれど。

 月影は、今はまだ白い雪に覆われている白西州の景色を思った。

 冬は大地のほとんどが雪に閉ざされるが、それ以外の季節には、色鮮やかな緑が蒼い空に映える――――そんな、月影が心から愛する故郷。

 月影は、再び口を開いた。


「だからこそ、僕たちは、何かあった時には、真っ先に動かなくては、ならない。民の生活を、護らなくては、ならない。それこそが、斎家という特権貴族の子息である、僕たちの役割だ」


 そうだ。その役割を担う者として、僕は王都に行かなくてはいけない。たとえ、行きたくなかったとしても。そこに、自分の意思など、存在してはならないのだ。それが、高貴な一族の者の宿命であるならば。


「幸い、珀本家の当主でいらっしゃるお祖父さまも、その跡取りでいらっしゃる父上も、お元気だ。とても素晴らしいお方が二人も、君にはいらっしゃる。だから、大丈夫だと思うんだけれどものね。このお二方が何らかの理由で動けなくなる事態なんか、絶対ない方がいいのだけれども、人生、何が起こるかはわからないから」


――――だから、君に。

 ここまで言うと、月影はまた竣影と向き合った。

 弟の手を、両手で包み込むようにして、握る。


「もう一度、言うよ。僕の代わりを、やってくれるね、竣影」


「兄上、」


 竣影は、うろたえた。まだ八つでしかない自分に、できるだろうか? 正直…………怖い。

 そんな弟の動揺する姿に構わず、月影は彼の双眸をじっと見つめてさらに大切なことを語った。


「ただし、忘れないで。なんでも一人でやろうと、しないこと。人ひとりの力なんて大したものではないんだ、困ったときは、周りの信頼できる人の力を、借りること。決して、意地や虚勢を張って、差し伸べてくれる手を、拒んだりしないこと。自分がということを、見失わないこと。約束してくれるね、竣影?」


 竣影は、目を閉じた。それから、ふっと両のまなこを開ける。彼の双眸は、さざ波一つ立たない水面のように、落ち着いていた。

 竣影は、椅子から立つと、再び兄の足元に跪いた。両手を組み、胸の前まで高く上げる。それは、白西州で定められた礼式の中で一番格の高い、最敬礼。それを兄に捧げた竣影は、厳かな声で、誓いの言葉を述べた。


「はい。この竣影、ただいま兄上からいただきました、ありがたいお言葉を心に留めて、珀本家次期当主の跡取りの座、この身の及ぶ限り、務めてご覧にいれます」


「よろしくね、竣影」


 月影は、竣影の手を取ると、自らの手を添えて、弟が立ち上がるのを手伝った。

 竣影が月影の前に立つ。


「いいえ……、兄上。兄上の未来が、少しでも安らかなものでありますように」


 竣影は、これからもっと自分よりも険しい道のりを歩んでいくであろう、兄の行く末を寿いだ。


「ありがとう、竣影」


 月影は、ほのかに苦笑しながら頷いた。自分のした行いに、ほんの少しだけ後悔しながら。ごめんね、竣影。僕は結局君に、すべてを背負わせてしまったようだ。

 彼は瞳を閉じると、まだ幼い弟に、心の中で静かに謝ったのであった。

 

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